暁の宮殿 中篇
「申し訳ありません」
頭を垂れ、最上級の謝罪を表すフォンビレート。
それはすなわち、彼がこの事態を回避可能な情報を持っていたということであり、彼がなにがしかのためにこの状況を利用したということであり――。
「予想しておりませんでした」
どこか遠くの現実を見つめるように回転するシシリアの思考は、フォンビレートの一言であっさりと回転をやめた。僅かに見える伏せられた瞳の内側には、決して嘘ではないと思える憂慮が見える。
その瞳に安堵を抱くととともに、また別の疑問が浮かび上がった。
予想もしていないなら、騎士団は異常な早さで配置が完了されたことになる。
「……では、なぜこれほど早くに完了できたの?」
当然のようにシシリアは疑問をぶつける。
それへの答えは、シシリアの思考を再び激怒させるに十分なものだった。
「軍事演習を秘密裏に行うように、指示を出しておりました。国境近くの町を利用して、です」
軍事演習を行うのは大きく分けて2つの場合だ。1つは、適度な緊張感を持続させるために行われるものである。どんな国であろうと行われるし、他国からの無用な詮索を防ぐために大々的に喧伝される場合が多い。もう1つは、近々戦争が起きると予想される状態にあるときに行われるもので、こちらは思惑に応じて公然ともしくは秘密裏に兵が動かされる。自国の戦力を誇示し戦争を回避したいときには前者を、戦争で先手を取りたい場合には後者が実施される。
だが、フォンビレートの行ったことはそのどちらにも当てはまらない。
現在のカルデア王国の状況について言えば、他国との戦争が予期されるほどの切迫した外交関係は存在しないし、半年に1度行われる軍事演習は今年もシシリア以下高官たちが出席し華々しく行われた。
つまり、フォンビレートの指導した軍事演習は「防御」でもなければ「牽制」でもなく「パフォーマンス」でもない。
すなわち――
「……フォンビレート。心して答えなさい。……貴方はどこに戦争を仕掛けるつもりだったの?」
彼自身が戦争を起こす側に立っていたことを示唆している。
その計画はシシリアの預かり知るところではなく、フォンビレートの独断専行であることは明らかだ。
また、騎士団は国王直下の軍であり、陸海軍とは命令系統が全く異なる。如何なる人間であろうと、例え騎士団長であろうと、国王の定める範囲を逸脱した行いは全て命令違反となるのだ。
フォンビレートのしたことは越権行為などという生易しいものではなく、シシリアに対する不敬、そのものと言って過言ではないのだ。
「……」
「貴方は、私に隠して何を画策していたの?」
重ねて問いかけても沈黙を守ろうとする頑なな執事に、シシリアの頭は少しずつ処理しきれない熱に覆われようとしていた。自分のパンク寸前な思考回路と正反対の凪いだ瞳もそれに拍車をかける。
しばらくして、フォンビレートは一切の解釈を交えずに一言だけ漏らした。
「神聖クメール帝国に自由を」
その言葉に、シシリアの冷静な部分がやはりと考える。
そんな気はしていたのだと、思えた。フォンビレートは感情――ましてや私情――で動くような人間ではないが、信じることが感情の代わりに彼を動かすことはままあった。それが必要だと理性的に判断した瞬間から、それはフォンビレートを動かし、感情で動かされるよりも頑なにならせる。
よく勘違いされるのだが、フォンビレートは争いが決して好きではない。だが、争いが物事の解決の手段として最悪だと思っていないがため、割合あっさりとその道を選ぶことがある。
今現在の世界情勢を鑑みた場合、彼の逆鱗をわしづかみにする国は1国だけであるし、その解決のためにフォンビレートが戦争を選択することになんら躊躇わないことも、許容するかは別として、シシリアには理解できた。
だが、そんなことは瑣末な問題だった。
どこの国に仕掛けようが、どれほどあくどいことをしていようが、どんな腹黒いことを考えていようが些細なことである。問題は、彼がそれを独断でしたことだ。
フォンビレートの行為は、10人の主君がいるなら10人が裏切り行為だと罵る類のものである。シシリアは猛烈に腹立たしく感じる怒りをどうにか制御しようと抗っていた。
努めて冷静に声を発する。
「……言い訳は?」
「ございません」
一縷の望みをかけた問いかけにも、フォンビレートはあっさりと否定を返した。
しかし、と言葉を続ける。
「誓って、国益に反するものではないことを断言申し上げます」
常と同じで、機械質な印象を与える言葉にシシリアは我を忘れた。彼女は考えられないぐらいに頭が沸騰していた。
「っ!」
気付いた時には、フォンビレートの頬を打っていた。
「フォ、ン……」
自分のしでかしたことが信じられず、その右手を絶望的な目で眺める。
現実がどこか遠くで聞こえて、今どこに立っているのかすらあやふやになろうとしていた。
「フォン……」
彼を拾ったときに暴力で屈服させることだけはすまいと思った、その一線が今破られたのだ。
謝ろうとするが、女王としての矜持がそれを許さない。手を出したことはどうであれ、シシリアの怒りは百人中百人が正しいというものであろうから、謝ることができなかった。
激しく動揺するシシリアの前で、フォンビレートは不思議なほど落ち着いていた。
その瞳が一片の揺れも見せずにこちらを見据えていることに気付き、自信が揺らぎ始める。
「陛下」
「……」
「もう一度、私の名に懸けたお誓い申し上げます」
「……」
「私、フォンビレート=メイリー=ダ・エルバルトは、生涯の全てを懸けシシリア=マイアー=ド・イジュールの御為に働き、忠節に歩み忠誠を保つことをここにお誓い申し上げます」
「……」
先ほどは心を逆なでしていたフォンビレートの淡々としたもの言いは、逆にシシリアの熱を冷ましていく。深く深くに浸透していく沈黙と静寂。
心が落ち着くと同時に、シシリアの覚悟は決まっていた。
私は、この男を信じたのだ、とどこかで力強い宣言を聞いた。
フォンビレートの顔をしっかりと見据えて、一度大きく呼吸をする。
--聞こうじゃないの。なんだって受け止めやるわ。