満月の夜
その日、秋の満月が夜空を彩っていた。
1年に数度みられるそれは、カルデア王国民にとってもっとも気分の高まる日である。なにしろ、涼しく過ごしやすい気候である上に、明るいのだ。ばか騒ぎが起こることもあるが、基本的に、カルデアでは歓迎される、そんな日である。
フィラデルにてその日の報告を受けていたシシリアも、見事な満月に感動の吐息をもらしていた。
彼女が生まれてから毎年上がる月ではあるが、毎年心を動かされている。
「『天上に輝きわたる円よ。汝、無にかかる使者よ。この地の汚濁を呑みこみたまえ』……そうであればと思ったことはない?」
「……ラプツェルですか?」
明るい今日に少しそぐわない、そんな声色の主に、フォンビレートはいつも通り丁寧に答えた。
好きというわけでもないのに、取り立てて有名ではない詩人の名前が直ぐに出てくる執事に苦笑しつつシシリアがフォンビレートの方を振り向くと、彼は珍しく政務の手を止めて会話をする態勢になっていた。
ばか騒ぎが数件起きて警部が2度出動したという報告以外は目立った事がなく、比較的静かな夜であったこともそれに作用しているだろう。
仮に今、急ぎの案件があったとしたら、彼は容赦なく途中で言葉を遮り無理やり執務に戻したであろうから。
「そう、あの一節が好きなの。……満月になると毎年思い出すのよね」
普通の会話が出来る幸運な日はそう多くはない。
満月の日は幸運の日だという人間がいて、シシリア自身はその論理が好きではないが、今日のような日に当たると少しは信じても良いかという気になる。
「『私の歩む谷底を、闇夜の孤独をどうか取り除きたまえ。敵の手中から我を救い給え。その大いなる力が平和とともにあらんことを』」
「……どこでご覧になったのですか?」
「ん? ……たしか、何かの本で引用されていた時に目に止まって。……それが?」
珍しく詮索するような質問が気になり、シシリアが問い返せば、フォンビレートは僅かに微笑んだ。
「いえ。あまり有名ではない詩なので、どこでご覧になったかと。私の記憶では、その本は現在絶版ですし、そもそもの発行部数も少なかったはずなので」
「……相変わらず、無駄に知識が広いわね」
「恐れ入ります」
呆れたようなシシリアの笑いを微塵も気にせずに、わざと慇懃に答えて見せたのち、彼女の目線を追ってフォンビレートも空を見上げた。
空一面に広がるっているかと錯覚するほどの大きな月。
「……平和とともにあらんことを」
それはフォンビレートの、切なる願いが込められた呟きであった。
さて、そんな感傷で過ごしている2人とは裏腹に、いやある意味ではその願いどおりかもしれないが、『過ごしやすく明るい。=夜会がたくさん。』というのが、この時期の貴族たちの常識である。
今年も例年通り、王都は貴族社会が花開き、今日も今日とてどこかの屋敷で夜会が営まれ、それぞれに野心と少しの純粋な暇つぶしに精を出していた。
華やかな夜会、といってもその目的は自分の権勢の誇示である。
政治の中枢と貴族社会が切っても切れない関係である以上、どの夜会に王族が出席し、どの夜会に有力貴族が”友人”として出席してるのか。それが真の話題の中心であることに間違いはない。
そんなわけであるから、ダン王太子に出席いただいたヒデロム伯に少々の優越感があったとしても仕方のないことであろう。それも、幸運にも満月の日に夜会を開くことが出来、なおかつ言葉を『御褒めの言葉』をもらったとなればなおさらである。
「ピオナー、今宵は良い日だ。我は快く楽しんでおる」
ダンの上位者として言葉に、ヒデロム伯ピオナーは相好を崩して、頭を下げた。
これほどまでに気分の良い日は、ここ最近記憶にない。今夜の夜会は成功といってもいいだろうと心中で考える。
「はっ! もったいないお言葉。誠心誠意、用意いたしました故、お楽しみいただけたのなら幸いでございます」
力の入ったピオナーの言葉に、ダンは目を細めて笑った。ダンの横に立つエリザベスも満足しているようで、さらに心が弾む。
「うむ、伯の食事も音楽も、過不足なく良い。これがためにメリバに戻ってきたようなものだ」
貴族の家は数あれど、建国以来の忠臣ともなれば数はぐっと少なくなる。
ヒデロム伯爵家のように、ルツヤンの時代からつき従い、数多の内戦にも関与しなかった。そのような家は王国中見渡しても2、3しか存在しない。そのような、今でも変わらずに忠誠を誓ってくれている家で、良い酒と食に舌鼓を打ったダンは見せかけではなく本当に満足していた。
王が軽々しく参加出来ない以上、王国内で夜会を廻る最も高貴な人はダンであって、そのプレッシャーはシーズンがおわるまで尽きることはない。7大公侯爵の家は絶対に出席しなければならないし、その順番も毎年偏ってはいけない。持ち回りで廻るのだ。
それに新興貴族の家であっても勢力を増している家には足を――時には、身分を隠して――運び、その実態を把握することもダンに課せられた使命の一つである。
そんな心中では楽しめようはずもなく、ダンにとっては夜会は仕事以外の何物にも成りえなかった。
だが、今日のダンは奇跡的に夜会を楽しむことが出来ていた。もちろん仕事を忘れてはいないが、騎士の家ということもあり、彼はこのシーズンに行われたどの夜会よりもリラックスしていた。
気分良く褒美の一つでも出してしまいそうになる。いらぬ火種の元なので本当にはしないが。
しかし、褒美を出さなくともダンは少々饒舌になっていたし、出席者は皆彼に引っ張られるようにして熱気は天井知らずに上がり続けていたし、主の機嫌のよさに付随するようにヒデロム家の使用人も陽気さを楽しんでいた。
夜は底なしに盛り上がり、そして朝を迎えようとしていた。
一方、その頃。
メリバでもその日は、夜遅くまで灯りがつけられていた。
衛兵たちの寝ずの番はいつものことであるので、仕方がないとしても、主に合わせて起きている使用人たちはもっと大変である。特に、王族の夜更かし男・ダンについている執事ルイス=オイスケール=ダ・ハミルはその筆頭であった。先ほども述べたように、仕事であることと並行して、ダンは常日頃から『王族の第1の意義とは、貴族をまとめることである』をモットーとしており、その手段の一つとしてもパーティーに出席している。
王国中の貴族のありとあらゆる人間を直接会って把握できるという役割において、彼が果たす役割は、シシリアよりも大きいのである。
事実、彼のもたらした情報をもとに、ミスタリナが動くことで事前に収束された不穏な動きは数知れない。
つまるところ、彼の夜更かしが如何に迷惑であろうと、ルイスには文句を言う権利などないということである。
「解っていても、眠いです……」
「仕事だ、としか言えんな」
執事補ジェレミーの泣き言に、ルイスはそっけなく返した。
当然と言えば、当然であるが、未だ成人に至らない子供には少々酷な返事である。
主催者は、ヒデロム伯であり有意義な場があると予見できるので、遅くなることは予想がついていた。
が、眠いものは眠い。深夜と呼べる時間はとっくに過ぎ、既に朝日が昇るまで2時間を切っている。このままでは、一睡もせずに朝の仕事が始まることは想像に難くない。
最も、ダンを待っている間中、眠る時間が一切ないかといえばそうでもない。ルイスなどは、状況を見ながら仮眠を2回に分けてとっており、気力は十分である。ただ、経験の浅いジェレミーでは上手くいかずに、結果として眠れていないというだけのことだ。
「眠れるようにならなければいかんぞ」
「解ってはいるのですけど……いつ号令がかかるかと思うと、こう……」
続けられる弱音に、ルイスは小さく笑いをかみ殺した。
自分が幾年も前に思っていた悩みを抱える年若い執事補に、過去を思い出す。
ルイスとて、最初から眠れていたわけではなく、いつの間かそう出来るようになっていた。経験にしかよれないサイクルというものは確かに存在する。
「まあ、あと2年もすれば上手く眠れるようになる」
「だと良いのですけど……」
どうにも自信なさげなジェレミーを見ていたルイスは、不意に1人の執事の存在が頭をよぎった。
そう言えばあいつは最初からうまく眠れていたな、と思い出す。
ジェレミーよりも若い時に出会ったのだが、その時から自分よりも風格のあったあいつ。
ルイスにとっては、初めてどうしても叶わないと思った相手。
「ルイス様?」
ジェレミーの怪訝な声で我に返る。
どうやら、知らず知らずのうちに笑っていたらしい。
「どうかされたのですか?」
まっすぐに問い詰めてくるジェレミーに一瞬話そうかと思うが、長い話になることを思い出してやめる。
いつか話してやろうと思いつつ、いや、と誤魔化すにとどめた。
そんなルイスの様子に少し訝しげにしていたが、やがてジェレミーは諦めたように元の位置に戻る。
と、その時。
「ダン様がお戻りになりました! ダン様がお戻りになりました!」
バタバタと廊下がうるさく鳴り、門待機のフットマンの1人が姿を見せた。
先触れを行いながら、歩いて回る。
主を出迎えるのは、コック等一部の使用人を除き大部分の使用人に課せられた義務であるので、フットマンの先触れに合わせて部屋の扉が次々と開く音が聞こえ始め、静まり返っていた宮殿は一気に明るさを取り戻していた。
ルイスもまた、主を出迎えるべく、ジェレミーと並んで玄関の外まで出ていた。
闇の中に目を凝らせば、しばらくのち、遠くから馬車と幾人かの護衛が姿を現す。
――今日もご無事で戻られたか。
ほっと一息ついたルイスに、背後から遠慮がちな声がかかった。
「ル、イス様……何か変ではありませんか?」
ジェレミーが探るように目を見開きながら声をひきつらせる。
「その……馬車が狂っています」
その声に促されるようにもう一度しっかりと見れば、確かに馬車が通常ではありえない速度で進行してきていた。親衛隊も常のような優雅さも冷静さも置き去りにしたように馬を駆っている。
明らかな異常の感じ取れる走り。
―― 御病気か。いや、何か追われているような。しかし、それならば護衛が10名そろっているはずがない。
ということは、やはり御病気。医者を、医者を呼ばなければ。
しかし、明確には出ていない。どうする?
「ジェレミー」
彼の鍛え上げられた執事としての矜持がそうさせたに違いない。
混乱する思考とは裏腹に、ルイスが出した声は一片の乱れも感じさせない冷静なものだった。
「……はっ!」
「殿下のご様子が分かった時点で、矢継ぎ早に指示を出します。全てに対応できるよう、後ろの使用人を把握しなさい。万が一の場合は、全ての使用人を叩き起して結構です。いいですね?」
「はい!」
ルイスの緊張が伝わったかのように、後ろに居並ぶ使用人たちの空気が冷えていく。
近づく馬車。
急停止。
人影。
……殿、か?
ちまみれのかたまり。
「医者を!!!!! 医者を呼べ―――――――!!!!!!!」
絶叫が闇夜を切り裂いた。