執事と親王殿下~王宮殿・名無しの小部屋にて~ 後篇
フォンビレートは常日頃纏っている冷気をほんの少し和らげて、種明しをする奇術師のような口調で続けた。軽い口調の中に感じられる確かな自負に、ルイズは身動きを封じられる。
「お話するに当たり、まず、ルイズ様がどのような立場にあるかをお考えいただきたいのです」
「私の?」
「ルイズ様は、恋に身分差など関係ないと思われますか?」
『立場』とまるで結びつかない言葉に、ルイズは混乱しながらも一生懸命に思考を働かせる。
「え、と。……そう、そうね。関係ないと思うわ」
「では、職業に貴賎はないと思われますか?」
「もちろんよ!!」
食いつくように答えたルイズの瞳を覗き込みながら、フォンビレートは断言した。
「それが、あなたの甘さです」と。
「あ、まい……?」
「はい。ルイズ様。あなたの言葉はすべて正しく、正論で、正義で、そして……甚だしく自覚に欠けていらっしゃいます」
穏やかな非難の言葉に、ルイズは息苦しさを覚えた。
思考がついていかずとも、その言葉が正しいことが本能で理解できた。
「ルイズ様。あなたは一体何者ですか?」
「私は……何者?」
単純ながら深遠な質問。
フォンビレートの口元を見れば、それは奇妙なほど動いておらず、答えを教えてくれる意思がないことをはっきりと示している。
だから、彼女は考えた。考えて考えて、少しずつ言葉にする。
「私は……ダンお父様とイザベルお母様が家族。」
「はい」
「それで、ええと。……あっ、叔母様のシシリア様がこの国の女王様」
「はい」
「バナナが好き。嫌いなのは……クルムの煮物。遊びはカードが好き。賭け事は大抵負けてしまうから嫌い。…………えと、好きな人がいて……でもその人は悪い人。」
「はい」
「それから、パーリーおじさんが好き。料理がおいしいから。タミヤは苦手。よく怒るもの」
フォンビレートはルイズの口から何も出なくなるまで、ただ相槌を打ち続ける。そうして、彼女が完全に沈黙した後、一言、丁寧に否定した。
「それが、何なのですか?」
彼女なりに考えた全ての言葉を、たった一言で否定して見せるフォンビレートに、一度落ち着きを見せていたルイズの思考は再び散乱する。
それに楔を打ち込むように、フォンビレートは言葉を紡いだ。
「その、貴方の好きな人も嫌いな人も。貴方の好きな食べ物も、嫌いな食べ物も。その全てに、何の意味があるのでしょう?」
理解が及ばないルイズへ、フォンビレートは再び問うた。
「貴方のそれは、王国民にとって、意味のあることだと思われますか?」
「!」
その言葉に、ルイズは目を見開いた。フォンビレートの厳然たる非難がどこに向いているかをはっきり理解したからである。その見開いた瞳をひたと見据えて、フォンビレートの口は滑らかに語りだす。
「貴方の御尊父、ダン殿下は、実にさまざまな称号をお持ちです。例えば、メリバ宮殿の実質の所有者でいらっしゃいますので、『メリバ公』と呼ばれることがおありになります。あるいは、軍の役職として申し上げれば『陸軍元帥』でいらっしゃいますし、階級として申し上げれば『陸軍大将』となるでしょう。……しかしながら、ダン殿下のお持ちになる最も重要な称号はそれらではありません」
フォンビレートの難しい言葉に、ルイズは、必死についていこうとする。それが王族として正しいあり方であることを理解しているフォンビレートは、内心、ルイズへの評価をほんの少し上方修正した。
「ダン殿下がお持ちになる肩書のうち、我々王国民が最上級の敬意を払うべき称号は『イジュール家次期当主』であり、それはすなわち『カルデア王国第1位王位継承者』であり、『王太子殿下』であるということです。お分かりになりますか? ダン殿下はその肩に、カルデア王国民1億余人の期待と、シシリア陛下の期待を背負っていらっしゃるのです」
『我々』とわざわざ付け加えられたそれは、より一層ルイズに自らの立場を思い起こさせた。それはすなわち、その意味でいえば、貴方は特別であり、私は特別ではないというはっきりとした線引きを行ったに等しい。そしてそれは、フォンビレートが出自ではなく、自らの実力によって『特別』になったということであり、ルイズはただ出自のためだけに『特別』とされていると突きつけてもいた。
「ルイズ様は、ダン殿下の御子様でいらっしゃいます。……貴方が尊ばれるのは。……貴方が毎日何不自由なく食物を口にし、色とりどりの服を手にし、暖かな布団で眠れるのは。……貴方に向かって人々が、そうです、貴方よりいくつも年を重ね、自らの力でのし上がってきた者たちが、貴方に傅くのは。……貴方がこの国で最も尊ばれる家、『イジュール家』の一員であるという、ただその1点なのです!」
フォンビレートの言葉に、ルイズの心中は大いにかき乱された。
彼の言葉はすなわち『ルイズ』には価値がなく『ルイズ=ヤヌス=ド・イジュール』にのみ価値があるのだと、強力に伝えている。
「さて」と、フォンビレートは口調を変え、話が転換期にあることを告げた。
「5と21」
「……?」
「この数字が何を意味するかお分かりですか?」
「まったく、わ、から、ないわ」
フォンビレートから、言われる数字が、自分に関わる大事な数字だとわかるが―― 知っていなければならない数字だとわかるが ――ルイズには見当もつかなかった。
一つ頷いてから、フォンビレートは瞳に哀惜を浮かべる。
それは、ルイズを見ているようで見ておらず、彼女に不思議な圧迫感を与えた。その正体を知らしめるべく、フォンビレートの口が開かれる。
「貴方があの日、宮殿を抜け出したことにより影響を受けた人数です」
「えっ……?」
「言い換えましょう。貴方があの日、宮殿を抜け出したために処罰を受けた人数です」
しっかりと繰り返された言葉に、ルイズは息ができなくなった。
『処罰』という言葉も、その意味も知っているが、それが自分に巻きついてくるような感覚がした。
取りつかれていくような。落ちていくような感覚。
フォンビレートはそれが、彼女がこれから背負っていくべき罪悪感であると知ってはいたが、口にすることはなかった。ただ、容赦なく、徹底的に事実を知らしめていく。
「あの日、貴方が宮殿を抜けだされたあの日。先ほども確認いたしましたが、貴方は、細い路地を2つ抜けましたね?」
先に確認されたことに、ルイズはこわごわと頷く。
「あの細い路地。あの路地に、彼、すなわち罪人コレルが、わざと誘導したとしたらどうします?」
「え?」
「あの路地が、貴方を守る近衛兵と貴方を引き離すためのものだとしたらどうされますか?」
理解できない、否、理解が追いつかないという表情でルイズは固まっている。フォンビレートはそれを見つめながら決定的に言葉を吐きだした。
「わざと引き離された上で、殺されたとしたら?」
「!」
「そうなのだとしたら、貴方は貴方を守るためだけに傍にあり、貴方が身勝手な行動をとったために死んだその者たちに何と述べられるのでしょうねえ?」
語尾を厭味ったらしく伸ばしたフォンビレートの言葉はルイズの耳には届かなかった。
―― あの者たちが死んだ?
だれが?
あの、私の廻りに常に控えていた、紳士的で精強な、あの男たちが死んだ?――
彼女の脳裏に浮かぶ彼らは皆笑っていた。
「ルイズ様」と親愛を込めて呼んでくれていた。その彼らが。
―― 何故死んだ?
私が、私のせい?
私のわがままに付き合ってくれたから?――
あの時の光景がよみがえる。
コレルに手をひかれ、路地を抜けた。
一度も後ろは振り返らなかった。何も聞かなかった。
私は。
「私が……殺、したの?」
呆然と紡ぎだされたルイズの質問に、フォンビレートは唯一言、肯定の言葉を投げる。
混乱する思考。視界。 錯乱。
「ああぁ」
ルイズの口から声にならない悲鳴が上げようとしたその瞬間。
「お黙りください」
冷徹な声は速やかに流れ込んだ。
今まさに、破裂音とともに閉じようとしていたルイズの意識は強引に引き戻される。
「ああ、ぁ」
「そのようにみっともない声をお上げにならないでください」
「・あ」
「貴方は王族なのですから」
『王族』というキーワードにルイズの口からとめどなくあふれていた悲鳴音が静まり返る。その言葉は、先ほどのフォンビレートの言葉を思い起こさせたのだ。
『貴方が尊ばれるのは。……貴方がこの国で最も尊ばれる家『イジュール家』の一員であるという、ただその1点なのです!』
「貴方には、すべての尊敬と引き換えに、すべての庇護と引き換えに、すべてを知る義務がおありになります。……ルイズ親王殿下」
フォンビレートの深い声が、徐々にルイズの波打つ心を落ち着かせていく。その心が静まり返るまで、フォンビレートは一言も発さなかった。
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「落ち着かれましたか? ルイズ様」
どのくらい経ったか、フォンビレートの静かな問いに、ルイズは顔を上げた。その先に見える顔に、ルイズは大きく一度息を吸ってから頷く。
「結構です」
フォンビレートはその表情に合格点を与え、しかしながら、追撃の手を緩めはしなかった。
「さて、21名についてですが。……これは実際に見ていただいた方が良いかと存じます」
「ご覧ください」
そう言って、フォンビレートは窓に近寄り、カーテンをめくりあげた。
「どうぞ、窓際へ」
誘導されるがままに、窓へ近づく。
そうして、近づいたその場でルイズは悲鳴を呑みこんだ。
中庭に、21名の列と、その後ろに泣き叫ぶ家族が並べられていた。
「貴方の行動により、これより命を失う者達です」
「…………なぜ?」
かろうじて絞り出された疑問に、フォンビレートは淀みなく答えた。
「国が軍隊を動かすのは、国が危うい時、その1点です。貴方が「外出禁止令」が出されている時に、姿が見えなくなったことは、『国にとっての一大事かもしれない』出来事だと認識されました」
「一大事・」
「もしも、貴方が他国の人々に浚われていたならば。もしも、貴方が誰か悪人に姦わされていたならば。その時、この国は、それに対して牙をむくのです。……そして一度剥き出しにされた刃は血を吸わなければならない」
もはや声を出すこともできないルイズに対して、フォンビレートはただ淡々と言葉を積み上げていく。
「それほどの事態に際し、貴方は使用人の門を使われた。当然、黙っていてくれるように頼んだでしょう。そして彼らはそれに忠節であっただけです」
「……」
「当然ですね。……彼らは国政には携わらない、唯の使用人なのですから。事の重大性など認識しているはずもない!」
フォンビレートは、中庭に集められた顔を見る。
21人一列に並べられたその顔の一人一人をうかがい知ることは出来ないが、それでも哀惜を感じずにはいられない。
彼らは主人に対して忠節であったがために、国を理解しなかった1人の愚かしい行動ゆえに殺されてようとしているのだから。
「や、めて! お願い、やめて!!」
ルイズが抑えた声で懇願する。
彼らは、私のせいで死ぬ。その事実が、ルイズには耐えられなかった。
必死に懇願する。おそらく覆らないであろう事実であっても、ルイズは声をからして懇願した。
失われた命には償いをしなければならない。
けれど、目の前に広がる失われる前の命を前に、ルイズはあがかずにはいられなかった。
「もう二度とこんなことはしない!! お願い、彼らは何も悪くない! お願い!!!」
「そうですね、貴方だけが悪い」
「解ってる。だから、お願いだから!!」
必死に縋るルイズにフォンビレートは慈愛に満ちた表情を浮かべ、それから首を横に振った。
「それを解っていてもなお、私は彼らを救うことができません」
「お、ねが、い!」
「貴方が王族であり、彼らは使用人だからです」
「!」
「何度も申し上げた通り、貴方と彼らとでは命の重さが違うのです」
「そ、んな……そんな……」
「それが王族です。貴方は誰よりも優れているわけではない。何をなせるわけでもない、あなた自身には何の力もない。それでも、貴方が王族である故に、そうなっているのです」
涙をこぼし泣き続けるルイズにフォンビレートは静かに問いかけた。
「もう一度お聞き致します。……この世界に貴賎は存在しますか?」
それはどこまでも残酷な問いだった。
ルイズは一度首を縦に振り、息を殺して泣いた。