彼は今日も働いている
コルベール暦・1546年のある夏の暑い日。
ひと組の男女が水辺の前で、熱に浮かされたように会話をしていた。いやこの場合、愛情が二人をそのように仕向け居ているに違いない。
「この可憐な花は貴方にこそふさわしい」
「まぁ! とっても素敵!」
うっとりと見つめる女を男は優しく見つめる。風貌とはいささかギャップがあるがそれすらも魅力的に見えるほどに美しい。
「その花の意味を御存じですか?」
「いいえ?」
唐突に男が切り出した質問を女は首を傾げながら否定した。
その瞳に期待が映し出されていることには気づかない素振りで男は言葉を紡ぐ。
「その花が一輪咲いている時と花束になった時。どちらも意味が違うのです」
「へぇ、そうなの」
「ええ。一輪の時、それは『永遠』を意味します」
「永遠……なんだか素敵な花言葉ね!……花束になるとどんな風に変わってしまうのかしら?」
無邪気に問う女に対して、男は困ったように微笑んだ。
「それをお教えすることはできません」
「どうして?」
「その意味を貴方に言ってしまったら、貴方は私に縛られてしまう。だから・」
貴方を私に縛りたくないから。出来ない。
そう続けようとする男に、女はほんの少し怒ったように口を堅く結んだ。
それからしっかりと男を見つめ、彼女自身の思いを語る。
「私がそれを望んでいるの。……ねぇ?」
「…………」
「縛って?」
「……お望みとあらば」
一旦、深呼吸して目を瞑り、気持ちを整える。
「その花に懸けて。……『我が生涯の愛を誓う』……受けていただけますか?」
開かれた瞳の真摯さに、その言葉の甘美さに。
女は酔ってしまったかのように、頬を上気させ、目を潤ませ、震える声で返事をした。
「ええ。……ええ、喜んで!」
その返事を聞き、男はもう抑え切れないとでも言いたげに、女を力いっぱい抱き寄せたのである――。
「「「「「ブラボー!!!!!」」」
宮殿の庭先いっぱいに広がる歓声。
聴衆からの惜しみない賛美。
それらを一身に受けながらフォンビレートは笑みを浮かべた。
貴族のご婦人方にどうしてもと懇願され、舞台に上がってみれば恋愛物で、断るに断れない状態に追い込まれ、実は若干その御婦人を恨んでいないでもないことなど微塵も匂わせない見事な微笑みである。
もっともそれは、シシリアに言わせれば『嘘くさく』、『呆れたような』笑いらしいのだが、そんなことは貴族の方には関係なかった。
ただただ、フォンビレートの株が上がるばかりである。
「本当に素敵でしたわ!」
「ありがとうございます」
「ええ、なんだか昔を思い出したよう」
「ありがとうございます」
「わたしもこのエレノアと出会ったときを思い出したよ」
「まぁ! あなた!」
アハハウフフな話を続ける貴族の輪から、大変な努力を払って抜け出すと、近衛兵に守られながらシシリアが片眉をあげた表情のまま固まっていた。そこに浮かび上がる「くだらない」の五文字。
「もう少し、寛大に評価していただきたいものです」
その顔に向かって抗議をしてみても、シシリアはその表情を崩さなかった。
「誰がどー見たって、くだらないわよ」
「存じております」
目線をそらしたまま、くだらないを連呼するシシリア。
対して、フォンビレートもまた負けず劣らずの仏頂面を瞳に湛えて応じている。
「まったく……これでどれだけの貴族が味方につくのだか……」
「一応、本日ご出席のご婦人は全て落としたつもりですが」
大したことでもないと言いたげに、本日の戦果を告げるフォンビレートにシシリアは大きくため息をついた。彼の規格外など今に始まったことではないが、それでもこれはやりすぎだと思う。
目の前に広がる阿鼻叫喚、もとい目をウルウルさせつつフォンビレートを見つめる数百人の貴族夫人はなんだか胸やけするというか、心臓に悪い。
それもこれもフォンビレートが、芝居の途中でわざと情熱的な目で見つめるテクニックを敢行した結果だと知っている身としてはなおさらだ。
「全て、なんてさらっと言わないで頂戴。……だいたい、本当に落とすべきは貴族本人の方でしょう?」
「それはそうですが」
本来的に言って、フォンビレートが彼女たちのお願いにのったは、ただこれをきっかけにシシリアに味方が増えればと思ってのことである。つまり、夫人を落としてもなんら意味はなく、夫人の評価を上げることで遠まわしに貴族からの評判をあげなければならないのだ。
が。
「御覧の通り、イチャラブワールドです」
「…………」
フォンビレートのものすごく嫌そうな声とともに、現実を直視すれば、目の前の阿鼻叫喚には貴族たちも加わっているようで、彼の行動が功を奏したことを如実に示していた。
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貴族の味方を増やすことに成功してから数時間後。
机の上に積まれた最後の1束を確認してから、シシリアは時計を見上げていた。
現在時刻、午前1時。窓の外も、そこから見える街も暗闇に包まれている。普段であれば、とうに休んでいる時間なのだが、いかんせん目の前に積まれた案件は今日中に仕上げるべきものらしかった。
1束といっても、40頁程度の厚さがあるのは見てとれるし、それに1頁目にぎっしりと文字が敷き詰められていることから推測するに、相当に時間にかかるものに違いない。
そんな仕事をこの時間からしていては、睡魔との格闘により何時間かかるか知れない。それよりは、一旦休んでから仕事をした方が効率がいいのではないか。
完全なる言い訳で自分を納得させ、出来れば「本日はお休みになった方が……」と言ってくれはしないかという最後の希望を胸に抱き、フォンビレートを見上げる。
「これって、今日中にしないとだめ?」
脳内ではフォンビレートがにっこり良い笑顔で、就寝の支度を始めてくれている。
「はい。絶対に、今日処理するべき案件です」
あくまで、現実は違うが。
良い笑顔以外は妄想と何一つ一致しない執事を見て、シシリアは本日何度目かのため息をついた。
わかってはいたのだ。この執事がこういう面で絶対に甘やかすことはしないことくらい。それでも、希望にすがることをやめることをしないのは私が人だからか。などと、くだらないことを考えつつ念押しする。
「絶対に、絶対に?」
「はい。絶対確実完全に、今日までに仕上げるべき書類でございます。
再びの良い笑顔――うすら寒い完璧な微笑み――で断言されては逃げ場が見えるはずもない。がっくりと肩を落とし、シシリアは書類に向き合うため、束を手に取って睨みつけた。
気合いを入れるその背に、フォンビレートの声が緩やかに掛かる。
「明日の執務は夕刻からに致しましょうか」
そのあまりに穏やかな声に、シシリアは顔を上げた。
常と変らぬ様子で自分自身の仕事、シシリアよりもはるかに多くの仕事をこなしている執事が居るだけで、その声が聞こえたことが幻ではないかと思えるほどには平和な光景が広がっているだけだ。
まったく、この執事は自分に対する扱いが巧すぎる。どうしてくれよう。
理不尽な罵りを心の中で散々したのち、まるで聞こえていなかったかのように、それでいて確かに了承したように微笑んでシシリアは仕事に戻った。
自分の体に、先ほどよりも断然に力が漲っているなんて知ったことではない。
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ようやっと、数時間かかって仕事を終わらせることができた二人は、シシリアの私室の前まで足を運んでいた。もう後は、ベッドにもぐりこむばかりである。
「では陛下、お休みなさいませ」
「ん、貴方もお疲れ様」
「メアリー、お願いしますね」
「はい、フォンビレート様。確かに」
執事は基本的に、女王の部屋の中へ立ち入ることはできないため、後の業務はメイド長が引き継ぐことになる。引き継ぎとシシリアへの挨拶を終わらせたフォンビレートは、彼女を見送ったのち、使用人棟へ歩き出した。そこから使用人棟への連絡通路がある所まで手に持った蝋燭で、宮殿最上階から1階までを隅々までチェックする彼の背後に、音もなく忍び寄る影が一つ。
「お疲れさまでした」
「グレイブ、君もね」
「ありがとうございます」
フォンビレートの執事補・グレイブ=ダ・ディカルス。
現在15才であり、王宮殿で最も期待されている使用人の一人である。平民出身かつ黒髪でありながら、執事補佐まで上り詰めたのも然ることながら、フォンビレートに継ぐ異例の早さでその地位になったことも彼の評判を高めていた。
実際、その身のこなしに隙はない。
「グレイブ。窓枠に誇りがたまっていることを明日伝えておいてください」
「かしこまりました」
「他に報告は?」
「本日、使用人棟内で、特筆すべき事柄はありません」
「明日の予定については?」
「滞りなく。ご指示通り、式典の前に軽い朝食を用意することと、明日より消灯時間を1刻長くすることを申し伝えております。以上」
簡潔で短い報告を精査し、特に問題がないことを確認すると今度はフォンビレートが口を開いた。
「了解しました。こちらからは1件。明日の執務予定、16時まですべて中止してください」
「……は?……!はっ」
どんな予定があるかと身構えていたグレイブに予想外の言葉が振りかかり、彼はしばし呆けた。その途端にフォンビレートの周りが凍りついたことを察し、すぐに良い返事をする。
まあ、許容範囲だ。ぐらいの意味合いを持つであろう口もとの微笑みを見ながら、グレイブは背に感じる絶対零度をやり過ごした。
「 ……今日の灯りは誰だ?」
「本日は、ホガトに割り振っております」
前半の小声は聞こえないふりでやり過ごし、後半の質問には幾分大きな声で答える。それが分っていて呟いたフォンビレートが間違いなく質の悪い上司なのだが、それを考える余裕をグレイブが持っているはずもなかった。
「分かった。下がれ」
「はっ。……お休みなさいませ」
「お休み」
使用人棟と王宮殿本棟とをつなぐ連絡通路上で就寝の挨拶を交わす。
フォンビレートが歩き出し、その背が階段に消えていくまでグレイブは微動だにせずに見送った。
憧れの人の一挙手一投足を決して見逃すことのないように。
自分達の、そして平民全ての未来を切り開いてくれた偉大なる背中を焼き付けるように。
もう10分もすれば、宮殿は全くの暗闇に包まれる。
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フォンビレートは消灯に備え、手早く準備を整え、ベッドにもぐりこんだ。正門に煌々と輝く篝火が天井を揺ら揺らと波のように動いている。
本棟で働いている時はそれほど感じない感慨が、押し寄せてきた。
随分と偉くなったものだ。最後にそんなことを思って、フォンビレートは夢の中に入って行く。
夢の中では、あの頃の自分が泥だらけで撫す暮れていた。