薄汚れて美しい 後篇
「お帰りなさいませ、シシリア様・」
シシリアの帰りを待ち構えていた執事は、挨拶の途中で彼女が抱えているものが人間であることに気付き、言葉を途切れさせた。
「……どこの御子様ですか?」
とてもそうは見えないが、もしかしたら『怪我をした貴族の子供』とか、そういう存在であることを願って、聞いてみる。
「ピョードルフ地区の子供よ。ひどく殴られていたから連れてきたの」
早口で言うシシリアに、やはりそうか、と小さくため息をつく。
この主人は、昔から拾い癖があるのだ。そのせいで、屋敷内は清潔さをダメにしてしまうほどの犬猫があふれてしまっている。
「今度は、子供ですか?」
小さいころから見ているため、やや咎める口調で話す執事に、シシリアはうっと怯んだ。
「……私が助けた。・か、ら、私がこれからも助けるの」
「そんな不毛なことをずっと行えるとでも?」
「……今回だけよ」
シシリアに責任とは何かを教えたのは、この執事とその父親だった。
教えを守れない子ですねぇ、とばかりに言われる正論にうつむいて、なんとか言い訳を返す。
その様子を見た執事は、日頃はきちんとしているシシリアがこれほどまでに執着しているのに驚いた。たとえ連れ帰ったとしても、使用人に預ければいいものを、自分の手でどうにかするのだと駄々をこねている。
シシリアという子供は、良くも悪くも諦めを知っていた。
やれることとやりたいことの違いを知っていて、王家の力の正しい使い道もわきまえていた。道端にいた子供を1人だけ助ける、という行為があまりにも馬鹿げていることも分かっているに違いない。
だが、それでも。というのだから、それはそれでいいではないか。
そう結論付けた執事は、背後に控えていた者たちに指示を出した。
「医者を呼ぶように。それから、数人でこの子を洗ってあげなさい。……シシリア様の寝室に寝かせる、ということでよろしいですか?」
振り返って確認すると、シシリアはなんだか泣きそうになっていて、とても30になった女性には見えない。その表情が幼き日々を思い出させて、執事は頬が緩みそうになった。何とか抑えて「よろしいですか」と再度確認を取ると、シシリアの頭がこくんと振られた。
では、そのように、と執事は優雅な一礼をして、急いで食事の用意をしに厨房に向かった。その背に、感謝を込めてつぶやいたありがとうは聞こえただろうか。
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「体中に傷がありますが、命にかかわるものはありません……少し熱を持っていますから、今夜は目を覚まさないでしょうが、元気になると思いますよ」
そう診断を下した医師に、思わず「ありがとう」というと、驚いたように目を見張られた。王家の者は軽々しく礼を言うべきではなく、この場合の正しい答え方は「大儀であった」である。
それほどまでに子供を心配していたことをくみ取った老医師は、小さい時から変わらないのだなあと、古い者にしか分からない感慨を抱いて「いいえ」と返事をし、部屋から出ていく。
それを確認すると、シシリアはすぐに子供の方に向き直った。
泥を落として現れたのは、美しい金髪であった。眼は閉じられているので、色は分からないが、この国の大部分は蒼色の瞳をもっている。もし、それと合わされば、さぞかし美しいだろうと想像できるような顔であった。
だが、その体は傷だらけで、これ以上どこに傷をつければいいのか分からないほどだったらしい。なにが彼に起こって、どこがどうなってあの状況になったのか正確には判らないが、それでも、例え彼が間違いを犯した側であったとしても守りたい。
それが、現在のシシリアの嘘偽りない心であった。
穏やかな心情と、子供の穏やかな寝顔にゆっくりと眼をつぶる。
起きたらいろいろ聞けばいい。
―― それまで、眠ろう。
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「……い……お……って……」
ゆさゆさと揺さぶられる感覚に、シシリアの意識が急速に浮上していく。
「おいってば!!」
耳元で叫ばれたことで、完全の覚醒した。
慌てて顔をあげてみれば、そこにいたのは、世にも美しい少年。
「……!……ぎゃぁああああああああああああああ!!」
大絶叫したとしても悪くない。
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「……お願いしますから、主として、レディとして、今後このようなことの無きように……」
ねちねちと繰り返される執事の説教に、シシリアはそっぽを向いた。
叫んでしまったことで、宮殿中の使用人が集まり、挙句の果てには親衛隊も参上したのである。
駆けつけて、「シシリア様!!」と飛び込んでみれば、明らかに人畜無害な美少年と、絶対に襲われていなさそうな主がいたのだから、皆ばつが悪い。
「俺は、何にもしてねぇからな!!」
言い放った少年に返す言葉もなく、執事を残して全員がすごすごと引き揚げた。騒動の原因を作ったシシリア本人は余程気まずかったに違いない。顔を赤くして、少年とも執事とも違う明後日の方向に顔を向けたまま、微動だにしなかった。
聞かない姿勢を前面に打ち出された執事も、とうとう匙を投げた。
「では、私は失礼しますが、このような事の無きように……」
今一度、正論を繰り返し、寝室を退出した。
美少年の『面倒くさいな』という顔が効いた事もあったが。
執事が出て行くのを確認して、しばらくじいっと待って、シシリアは少年の方に目を向けた。
「…………」
言い訳を口にしようと思うのだが、美しさに負けて、何も言えない。
何より、紺碧と緋色にわかれたオッドアイがその迫力を2割増しにさせていた。
「……ごめんなさい」
とりあえず、謝罪する羽目になったのである。
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「俺は冷たい奴だから生き残れたんだよ」
食事を与えたことにより、いくらかシシリアを信頼してくれたらしい彼は、割かし素直にしゃべってくれた。だが、その少年の名前や生い立ちを聴いたシシリアは想像を絶する衝撃に襲われた。
「親? んなもん、知らねぇよ。気づいたら、ゴミ漁ってたからな。なんか、後から聞いたら俺、ボロボロで捨てられてたんだと……その後? ……ゆーかい? ってヤツなんかされた。俺、金髪だろ? だから、良く似てる貴族様の身代わりとかにされたんだってさ。良くわかんね―けど……まあ、飯にありつけたから別にいいよ。で、売っぱらわれてぇー……んでさ、人殺せるようになったんだよなぁー。これがなかなか使えるんだよ。で、俺買った奴殺したんだけどさ、追われちゃってさ。まぁ、全滅させたんだけどね……あぁ、昨日? 昨日はさ、腹減っちゃって。んで、あのくそじじいが持ってた果物がさ旨そうなもんで取ったらすっげぇー勢いで追いかけてくんの……足には自信があったんだけど、腹減ってて力でなくって。んで、殴られて、死ぬかなーって思ったら飯食わしてくれる綺麗な家に居たってわけ」
親がいない。
字面にすれば、僅かな文字数しかないそれが、どれほど重いことか知らされる。彼が軽い調子で話すそれに、もう何と言っていのかわからなかった。
そんな状態で良く生き残ったものだと心中で考えていたら、フォンビレートは「冷たい奴だからな」と飄々と言い放った。それこそ、大人のように。
『「あそこで生きている奴はみんなそうさ……そりゃ、中にはいろいろ小難しいことを考えている奴もいるけどね……でも、大抵の奴はこう思ってる。『生きたい』ってね」
「でも、あそこは『みんな』は生き残れないんだよ。だれかを踏み台にしなきゃ死んじまう……踏み台に進んでなりたいんて誰が思うって話だよな」
「皆死なないように、俺が生き残ってやることの何が悪い、ってね」
「だから、あんたにゃあ納得いかないかもしんないけどさ、あいつのことを悪者にするのはどうかと思うね……俺にとっちゃ敵だったけどさ、それも俺があいつの食べ物を盗んだんだからね。あいつは俺を憎むに決まってるけどさ、あんたがあいつだけを『悪い』っていう権利はないと思うよ? 俺もさ、飯にありつけて嬉しいわけだし? もしも、あんたが先に自分の財産から少しでも分けていれば、俺だって、あいつだって、何もなかったんだからね」
「自分を正義って思ってるやつが一番たちが悪い……悪いってわかっててもそうする奴は2番目に悪い……だから、あんただって、悪い奴だよな」』
無邪気さなど微塵も見当たらない普通のトーンで紡がれるその理知的な言葉は、シシリアをその場面に立ち返らせた。
「普段は、見向きもしない癖に」
あの男とは違い、フォンビレートはシシリアを特段に責めているわけではない。ただ、シシリアが「大変だね」と言ったことに対して、答えただけである。
だが、それはシシリアに深く深く刻み込まれた。
「あんたも結局、何もしない奴になるんだろう?」
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―― あんたも結局、何もしない奴になるんだろう? ―
あの日のフォンビレートの問いを、シシリアは今でも覚えている。
それが、王座に就くことに同意した理由だからだ。
シシリアはあの日まで国政になど何も興味はなかった。もちろん、期待されてもいなかった。適当に貴族と結婚し、火種にならない程度の優秀な子孫を残す。それが、シシリアのあるべき姿だった。
けれどあの日、フォンビレートに出会って、その成長を見て、考えるようになった。
結局、何もしない奴は。
結局、悪い奴だ。
その単純な真理を、幼子に知らしめるような現実などぶち壊してしまえばいい。
そう思って、王座に就いた。
決意を思い出しつつ、シシリアは横にちらりと目をやる。
そこにはいつもと変わらぬ表情で、書類を分類しているフォンビレートがいた。
自分よりはるかに優秀な、それでいて盲目的なまでに愛情を注いでくれる執事に、くすぐったいものを覚えてクスリと笑う。
「何か、顔についていますか?」
シシリアにしかわからない困った顔をした執事に、もう一度、今度はいたずらっぽく笑いかけると、手元の書類に目を落とす。
窓ガラスは変わらずに曇っているが、シシリアの憂鬱な気分は、もう吹き飛んでいた。