薄汚れて美しい 前篇
「今年の冬も寒いわね」
執務室、暖炉の前にわざわざ移動された机に向かいながら、シシリアは盛大に愚痴を零していた。全ての窓が雲っていて、憂鬱な気分をさらにあおりたてている。
横を見れば、夏と一切変わらない恰好でフォンビレートが書類整理に勤しんでいて、見ているだけで寒気が起きた。
「あなたって、寒くないの?」
「いえ……割と好きなので」
素知らぬ顔で返すフォンビレートにシシリアは思いっきり顔をしかめる。確かに、夏は夏で暑そうだなと思うが、それでも決して厳しいこの国の冬に向いている格好ではないことは確かだ。
カルデア王国に「冬が好き」などとのたまるバカがどれほどいるかわからないが、これほど涼しげに言う奴は絶対にいないと思う。本当に、
「……なんて変わっているのかしら……」
偏屈だとは知っていたが、ここまでとは知らなかった。と言うと、フォンビレートは作業を止めて、こちらを向いた。
「あなたに、拾われた季節ですから」
言うだけ言って、再び作業に戻るフォンビレートにしばし呆気にとられたが、数秒後に言葉を理解して、シシリアは納得した。
そうだった、今日は、フォンビレートと出会った日だった。
唐突に思い出されたそれに、シシリアの頭は"あの日"に飛んで行った。
―― 遡る事13年前。
コルベール暦1531年の冬のある日、シシリアは窓の外を退屈気に眺めていた。
カルデアの冬は厳しい。外に出ようなどという元気な者はほとんどおらず、眼下に広がる町並みは隙間なく暖炉の使用による煙突からの煙で覆われている。率直に言えば、怠惰な期間だ。
それはここアーデルでも王宮殿・フィラデルでも同じことで、「出勤すれど仕事せず」が冬の間の暗黙の了解事項となっている。
最低限しか仕事を行わず、部屋に閉じこもり暖炉の前から一歩も動かずとも咎める者はいない。
シシリアもまた、御多分にもれず暖炉の前で無意味に時間を浪費していた。といっても、春夏秋冬、彼女の働きを求める部署などなく、時間を無意味に過ごすことにあまり冬は関係ない。せいぜいが暖炉の前で過ごすか、木陰で過ごすかの違いに影響するくらいのものである。
それはすなわち、彼女の退屈具合にしか影響がないということであった。
「ねぇ、メアリー?退屈ってどうしたら潰せるのかしら」
窓の外を見つめたまま、どうにかして退屈を紛らわそうと、自分についている侍女に無理難題を言う。
その質問に、メアリーもまた退屈そうに「そうですねぇ……」と気のない返事を返すだけだ。一応、どうしようかと考え込んでいる振りはしているが、名案が出てくる気配はない。
貴族たちの冬の間の暇つぶしは、カードをしたり盤をしたりと室内で遊ぶことなのだが、いかんせんシシリアはそれらが得意すぎて退屈、というタイプの人間であった。なにしろ、1年中それらをしているのだから、そこらの貴族とは実戦経験が比べ物にならない。
夏であれば、飽きた時点で外に出る選択肢ができるわけだが、今は冬である。カードと盤以外の、となるとなかなか難しい。
それゆえ、シシリアにとって冬とは他より一段と退屈な季節だ。
ついでに、この問題に立ち向かうのは今回が最初ではない。これまでの人生で幾度となく繰り返されており、今更メアリーに新鮮な提案が出せるはずもないのである。
案の定、沈黙のまま数十分が過ぎたが何も案は出ず、昼の鐘が鳴ったことで思考はいったん中断となった。
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昼も滞りなく終わり、シシリアは再び暖炉の前に舞い戻っていた。
ご飯を食べつつ考えてみたが、何も思い浮かばない上に、瞼が刻一刻と重くなってきている。これでは幾らもしないうちに眠ってしまうだろう。
ああ今日もまた怠惰な1日を過ごすのか。
そんな軽い失望が胸を覆いつつあったその時、眼下に動くものを発見して、シシリアは目を凝らした。
「子供達は元気ですねぇ」
のんびりとしたメアリーの言葉通り、それは子供達の姿であった。煙の合間合間の姿から察するに、鬼ごっこをしているようである。この厳しい寒さの中、幾人かは半そでのまま遊んでいるようだった。
しばらく観察していたシシリアは、何となく元気になって来る気がした。
そうだ、自分だってまだ20代(正確には先月30の大台に突入したのだが、彼女は20代と自称している)なのだから、遊ぶのは無理にしても散歩ぐらいは大丈夫なはずだ。
コートを着て、防寒対策をすればなにも問題はない。
「そうだ! 外に出ましょう!!」
喜び勇んで侍女を振り返ったシシリアに、メアリーは盛大にひきつった笑顔を返した。
シシリアが外に出るということはすなわち、メアリーも付いていかなくてはならないということであり、そして彼女はそんなことはしたくはなかったから当然である。
何度も言うがカルデア王国の冬は厳しい。今の気温は―2度である。
防寒対策をしても問題が大有りの気温であった。
それでも、キラキラした瞳に「名案じゃない?」という言葉が浮かんでいる主人に反対するわけにもいかず、メアリーは急いで最高級の毛皮を準備しに走った。背中に使用人の悲哀が見えるようである。
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メアリーと御者と馬とそれから親衛隊を巻き込んだシシリアの外出は、今のところ順調に進んでいた。
もちろん、御者は猫背での運転を余儀なくされていたし、親衛隊は冷たい鎧の感触におののいていたし、メアリーはおもしろくもない白い景色に意識を集中しなければならないほど凍えていたが、それでもシシリアにとってそれは順調な道のりだった。非常に迷惑なことに。
あたりは静まり返っていたが、時折聞こえる笑い声や道急ぐ馬車の轍の音が人々の存在を教えてくれてる。
「シシリア様。どちらに進みましょうか?」
飽きることなく馬車の窓に顔をくっつけていたシシリアに親衛隊から声が掛かる。
「右に進めば、大街道を進むことができますし、左に進めばアーデルに戻る道となりますが」
ふむ、と彼の言葉に考え込むシシリア。
その他の者は、なんとかシシリアが左の道に進んではくれないだろうかと祈るような想いで言葉を待っていた。早く帰りたくて仕方がないのだし、10人中9人は同情してくれそうな状況なのだから、一概に不敬とは断罪できない。むしろ、言葉に出していない分ましであろう。
「うん、まっすぐ進むのがいいわ」
……若干1名は、それをマルッと無視したが。
「シシリア様!?」
あわてた様子で、近衛騎士団第3師団長のバルクが声をかける。
「このまま進まれますと貧民街に出てしまいますし、道が細すぎて馬車も入りません」
バルクの言葉通り、正面の道には薄汚いバラックが並んでいて、空気が淀んで異様な雰囲気が醸し出されていた。当然のように、治安は悪く道も汚いため、貴婦人たるシシリアが歩いて散歩することも不適当である。
だが、そんな制止の言葉をシシリアは笑み一つではねのけた。
「いやよ」
「―――――― っ!!」
目を丸くする周囲にシシリアは高らかに言い放つ。
「貧民街、などと表現する人間の忠告など聞きたくもないわ」
混じりけなしの純粋な怒りを含む彼女の言葉に、誰も口をはさむことができなかった。
「貧民街、ですって? だれが、そんな名前を決めたのかしら? まさか、私の知らない間に改名されたのかしら?」
畳みかけられる問いに答えをもつ者など誰もいない。シシリアとて答えを求めているわけではない。
「言い直しなさい、バルク」とシシリアは親衛隊長に命じた。
「正面の道はどこに続いているの?」
「はっ!……ピョードルフ地区に続いていおります」
間髪言えずに返された言葉に満足げにうなずいて、シシリアは再びはっきりと進むべき道を選択する。多少、意地が入っていることも承知の上だ。
「正面の道に行くわ。馬車や馬は入れないから、皆歩いて付いてきなさい」
「「「はっ!!」」」
慌しく馬から降り、警備に走っていく周囲をよそに、シシリアは躊躇なく馬車を降りてさっさと歩きだした。はた迷惑な主である。
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数人の番を残し足を踏み入れたピョードルフ地区は、やはりと言うべきか、薄汚れている。
道端にネズミの死骸が転がり、時々、人間の一部であったであろうものも散見された。何か声が聞こえたような気がしてそちらを見れば、それは浮浪者であって、「……お恵みを下せぇ……お恵みを下せぇ……」と、ただただ虚ろに呟くだけの存在であったりする。
その惨状に何も手出しできない現状に、シシリアは唇を噛み締めた。
カルデア王国はピレネー大陸第2の大国であり、豊かな国であると言われている。「草原の国」と名付けられるほどに緑が豊かで、産物もあふれんばかりだ。王都は美しさの象徴のように歌われることだってある。
それでも一歩裏路地を行けば、行き場のない澱みが渦巻く場所が存在する
のもまた、王都の真実だった。光には影が付きまとうように、輝かしい場所には何よりも濃い翳が存在している。
それを目の当たりにしたところで、王位継承者でもないシシリアに出来ることはほとんどない。
例え、ここにいる1人か2人に憐れみを示すことが出来たとて、それが何になるだろう。
『責任のない施しは、行わなかった者よりも悪い』
幼少の頃に習った教師の言葉を思い出す。
最後まで支援しないならば、それはただの自己満足であり、性質の悪い気まぐれに過ぎないのだ。
本当の意味で解決したいならば、恒久的に救わなければならず、現在のところその手立ては誰も用意できていない。シシリアは王族だが、やはり手は出せないだろう。
尤も、真剣に解決したいと思っている者がいるかさえ、疑問である。
「うぅ……」
突然、物思いに沈んでいたシシリアの耳がうめき声をとらえた。
どうにもならない現実を見るだけにしかならないと分かっていても、それから目を反らしてはならないという気持ちがシシリアの目を勝手にそちらに向ける。
音の聞こえた細い路地を見れば、その一番奥に人影が見えた。
目を凝らしてみれば、大人の男が一方的に馬乗りになって小さな子供を殴っているのが分かる。
それを確認した途端、シシリアの体が反射的に動き出した。後ろで、バルクが「殿下!!」と叫んでいるのも耳には入らない。
「やめなさい!!!!」
躊躇なく二人の間に突っ込み、殴られていた方を庇うように立ちはだかる。殴っていた方は、急に突き飛ばされたので意味が分からないという顔で周りを見渡していたが、シシリアの姿と恰好に目を止めると、いやらしい笑いをした。
「これはこれは、御貴族の御令嬢がこんな薄汚い路地に何の用で?」
シシリアの全身を舐めまわすように見て、どうしてやろうか、と考えている顔つきだ。
そんな視線を浴びたことのないシシリアは答え方が分からず、じっと黙っていた。
「……これだから、高貴な方は困る。……我々、下賤な民のことなどいつもは気にもかけない癖に、正義を振り回すンだから……」
男の怨嗟のこもった視線に、シシリアはたじろがされた。
放たれた言葉が深く心をえぐる。自分のしたちっぽけな行動が、どれほど滑稽か思い知らされたからだ。
いつもは気にもかけない癖に。
その言葉に反論する術をシシリアは持てない。
「シシリア様!!」
立ち尽くすシシリアに、駆け足で親衛隊とメイドが声をかける。
追いついてきたバルクを見た男は、小さく舌打ちすると、壁をよじ登って逃げ出した。
「御無事ですか!!」
追いついてきた親衛隊に指示を出して、男を捕らえようとするが、シシリアはそれを制した。子供の周りに散らばった果物を見れば、泥棒によって殴られていたことは明白であるし、なにより男の言葉が耳にこびりついて離れないからだ。
「戻るわよ」
静かな命令に反論することもなく、撤収の指示が出される。
「バルク……その子を連れてきて」
シシリアがその子を連れていくという宣言をすると、再び周囲はざわめいた。助けることがどれほどのことにもならない事を皆、自覚している。
それも、盗みを働いた子供を連れ帰ることは何にもならない。
「いいのよ、とにかく連れてきて」
諌めようとした周囲を遮って、シシリアが歩きだすと渋々歩きだした。
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「……本当に連れて帰られるのですか?」
おずおずといった感じで質問するメアリーに、シシリアは頷く。
意識を失ったままの子供は、シシリアの命令により、アーデルに戻る馬車に運び込まれていた。
彼女の膝には、子供の頭が置かれていて、コートやドレスは汚れるがままだ。メアリーは何度も替わることを申し出だが、全てシシリアによって却下されていた。
「私が助けたから。最後まで責任を持たなくてはいけないから」
メアリーをまっすぐに見返しながら、シシリアはしっかりと表明する。
だが、メアリーは困ったような顔を崩さない。
「しかし……連れて帰ったところで何もできないかと……」
シシリアは独身であり、養子にすることはできず、せいぜい最下級使用人として雇うことぐらいだ。
それでも、問題はある。
「ピョードルフ地区の者を雇った前例はないので、難しいですし……」
王家の使用人となるのは、男爵や子爵といった下級貴族の二男や三男が多い。まがりなりにも貴族しか雇わないのは、王家として当然のことと言えよう。最下級使用人や一部の中級使用人、例えば料理人などは平民から徴用されることもあるが、それは貴族の食事を作れるほどに裕福な食事をしたことがある者たちだ。
もしも、この子供を雇ったとしても受け入れられる可能性はあまりない。
人間はプライドが高いと相場が決まっている。平民の、それも最貧民の人間とともに働くことを承知するとは思えない。
「……それは、後々考えればいいわ……とりあえず、連れて帰ることよ」
それこそ、天国と地獄を味あわせるようなものではないか、とメアリーは思ったが、懸命にも声には出さなかった。シシリアの方も特に会話は求めていなかったため、そのまま馬車の中は、静寂が満ちる。
シンシンと振り続ける雪の中、馬車は宮殿を目指して静かに進んでいた――