プロローグ
ヘオース暦1544年。春。
カルデア王国が誇る美しき王宮殿・ギュネーは、新王を迎える喧噪に包まれていた。
「貴婦人」をその名に冠する白磁の壁が陽光を受けて、自ら輝きださんばかりに光を放つ。
その頂上には儀礼用の金色の国旗がはためき、騎士たちは物々しく警戒し、貴族たちは大広間でその刻をいまかいまかと待ちわびていた。今代君主の正式なお披露目に、興奮を隠せる者は誰もいない。
その大広間のすぐ隣、控えの間。
外とは切り離されたかのように、室内は静寂に満たされている。
部屋の奥では、カルデア王国女王――正式にはこれから戴冠する――、シシリア=プレケス=ド・リーベルタースが泰然と腰かけており、そこから数メートル下がった位置に、一人の男が跪いていた。
俯いているので顔の表情を読み取ることは出来ないが、黄金に染まった髪は、質の良い調度品に埋もれることなく輝いていた。その姿に一分の隙も見当たらない。
「面を上げよ」
女王の良く通る声が、部屋に広がっていく。
声に応えて頭こうべがゆっくりと持ちあがり、それに伴って、相貌が明らかになった。
年の頃は20ぐらいか。王宮殿の中枢部に上がるには明らかに年若い男の顔に、動揺がざわめきを伴ってさざ波のように広がる。壁際に立つ高官たち、軍司令官、貴族院の代表者たちは、誰もがその年端も行かぬ、しかし美しい顔立ちから目を離せなかった。
肌は雪のように白く、いかなる感情も浮かべない怜悧な面差しが鮮烈な印象を与えて、男が『神の造形』と呼ばれていることをまざまざと思い出させる。
「フォンビレート=メイリー=オ・ペルフェクティオ。そなたを、第32代リーベルタース家筆頭執事に任命する」
リーベルタース家、つまり王家の筆頭執事に任命されるということは『内政の要となる者として任命される』ということと同義であった。もちろん、王国法に定められた役職ではない。だが、その職務の性質上どうしても国王の側にいることが多くなるため『影の執政官』と呼ばれる。
過去の歴史を振り返れば、その才で王政を支えた執事は数多けれど、王政を歪めた執事の記録もまた多い。そのため、任命式を執り行う前に王国議会の承認が必要であることが不文律として定められていた。
此度の任命においても、先だって議会で可決されていた。
「先日開かれた王国議会にて、異議10沈黙80により承認されている。よって、そなたにこの任の如何は委ねられた。この任、受けるか否か? 」
女王の問いかけに応えて、男は伏せていた視線を徐に上げる。一点の曇りもない瞳が女王の姿をとらえた。
緋色の宝石にも似て輝く瞳は、美しさとは裏腹に、そして若さには不釣り合いなほど、平淡に重さを宿していた。まるで老獪な政治家を相手取ったような感覚。心の奥底まで見つめられているような、あるいは地獄の底から見つめ返されているような。
少しの慄きも見せてはならぬ、と女王は力を込めた。
彼の誓いの言葉を、力ある言霊を受け取ることが、王になるための第一関門でもある。居並ぶ配下に決して侮られてはならなかった。
「初めに神は天と地を作った――」
彼の口が、ほんの少しの音も残さず滑らかに言葉を紡ぎだす。
創世の物語から、この国の始まりまで、どんな詩人でもこれほどには謳いあげることは出来ないだろうと思うほどに。
「――混沌の時代に表われしは”リーベルタイス”。自由の祖、自由の覇者、自由の守護者。この国の光、永遠に消してはならぬ灯火。」
王家への賛歌を高らかに。
「――ゆえに、私は今日この神聖なる受任の誓いを、リーベルタイスの守護者、天地創造の神、至高者に固く誓う。」
一度大きく息を吸い込むのが、誰の目にも見えた。
そして、女王にだけ、勝ち気で悪戯な笑みが。
そうして、彼は艶やかに宣誓する。
「私、フォンビレート=メイリー=オ・ペルフェクティオはこの職務を忠実に遂行し、全力を尽くし、生涯の全てを懸け、シシリア=プレケス=ド・リーベルタースの御為だけに働き、忠節に歩み忠実を保つことをここに確約する」
歴史書は語る。
『彼の男。
紅の瞳を持ち、頂に金色を纏い、黒衣を翻し、その純白の肌は朱が染め上げた。
唯唯王と共にあり、皇帝と共に死した』と。
カルデア史上唯一、君主のみに忠誠を誓った男。
『カルデアの誉れ』『草原の栄光』とたたえられた有能な執政官。
その才でもって、史上最高の為政者シシリア=プレケス=ド・リーベルタースのそばにあり続け、王国と帝国に繁栄をもたらした、完全無欠の執事。
フォンビレート=メイリー=オ・ペルフェクティオ卿。
彼の波乱に満ちた生涯は、この任命式を持って、表舞台に刻まれることになったのである。