憂鬱な理想
真っ暗な部屋で、カタカタと言う乾いた音だけが鳴り響く。華麗なブラインドタッチでキーを叩く少年は、どこか苛立っている様に見えた。
「クソッ、何だよ。勝手なことばっか言いやがって」
そう呟く少年。その顔面はやつれ、目の下に隈を作っている。
その後、少年は思い立った様に、高速でキーを打ち出した。壊れてもおかしくないのではないかと言うくらいの勢いだった。
そして、打ち終わると少年は、フーとため息をつき、近くに放置されている布団にもぐりこんだ。
その表情は先ほどとは違い、何か達成感の様なものが、感じられた。
何だよ、お前。誰だよ? 何で朝っぱらから電話して来てんだよ。まだ、六時じゃねえか。
どうせ、夜起きて、朝寝るんだから変わらないだろうって? ふざけんな。それでも、六時はきついんだよ。もうすぐ寝るんだからよ。
で、何? 俺に何の用だ? 同じ高校の奴か、お前。名前くらい言えよ。クラスは何組だ?
二組? 隣の奴か。俺の知り合いで二組の奴はいねえな。名前は? 駄目だ、聞いた事ねえ。初対面だろ。何で、俺の番号知ってんだよ。俺の番号知ってるの少数の人間だけだぞ。しかも、その殆どが排他的で、仲間内でしか話せないような奴らばっかだぜ。よく番号聞けたな。つうか、あいつらも勝手に教えてんじゃねえよ、くそ。
で、改めて聞くけど、用件は? 下らねえもんだったら、もう切るぜ。こっちはオールで眠いんだよ。
は? 今日学校来れるかだって? 行けるけど行かねえよ。行くわけねえだろ。こんなじめじめした梅雨の日に。大体、俺はここ暫く学校行ってねえんだよ。今さら行ける訳ねえだろうが。
そのために電話してきたのか? んじゃもう切るぜ。教師に頼まれたのか、何なのかは知らねえけど、どうでもいいんだよ。あんな所。
学校来ないなら、俺の家に来る‽
ふざけんな! 絶対来るなよ。来たら殺すからな。俺は学校もお前も大っ嫌いなんだよ。クソやローが‼
朝七時。奇妙な電話を受け取ってから一時間後。一八時間の活動を終えて、ようやく床に就いた俺は、けたたましく、無駄に高音な母親の声によって起こされた。眠さとだるさに、自業自得ながらもいらついた。
どうやら、呼ばれているらしい。珍しいな。学校に行かなくなって以来、話したことなんて殆どないのに。
重瞼を擦りながら、気だるげに足を引きずって、声のする方へ向かう。途中で、何度か倒れそうになった。やはり、一時間では十分な睡眠は取れない。せめて、一二時くらいまでは寝ていたい。
母親は玄関にいた。なんだ? ゴミ出しでも頼まれるのか。普段はそんなことない筈だが。
「ちょっと、こっち来なさい」
母親は俺をドアの前まで連れてきた。何をするのか、何をされるのか、何をすればいいのか、皆目見当もつかない。と言うか、眠くて思考が働かない。今なら、何を言われても頷いてしまいそうだ。
「今から学校に行ってきないさい」
「分かった」
じゃ、行ってらっしゃい。母親はそう言うと、俺に制服と鞄と傘を渡し、ドアの外に放り出した。
「……」
頷いてしまったああああああ‼
失敗した。本当に寝ぼけていた。何で、考えもなしに分かったなんて言ったのだ。馬鹿すぎるにも程がある。
仕方ない、裏口辺りから入って、部屋に隠れていよう。外の空気など、まっぴらだ。何で、あいつはこんなこと思いついたんだ。引っかかる俺も大概だが。
外では雨が降っていた。梅雨の時期の雨は思いのほか冷たく、夏に近づいた空気はその温度を下げ続ける。そんな冷雨の中、俺の前に少年が立っていた。年齢は俺と変わらない位。傘を差し、俺と同じ高校の制服を着ている。
「やっ、おはよう」
彼のそんな挨拶は爽やかさと共に、ある種の鬱陶しさを含んでいた。速い話がイラッときた。
「なんだ、誰だよ、お前?」
口調は自然と強めになっていく。脅す様な言い方で、真っ先に持った疑問を投げつける。
「やだなあ、忘れちゃった? さっき、話をしたばかりじゃないか」
さっき? 俺はここ数週間、誰とも会っていないし、会話もしていない。しかも、さっきまでは寝ていたのだ。話しなど、出来る筈がない。
「あれ、本当に覚えてないの? 今朝、電話したじゃないか」
そこまで言われて、ようやく思い出した。睡魔に囚われ、記憶や思考が曖昧になっていたから分からなかった。
「思い出した? まっ、そんな訳で、君を学校に連れ戻しに来た。親御さんも大賛成みたいだし、今日からよろしくね!」
馬鹿らしい位快濶に、怖い位快闊に少年は語る。その意味は、分かる。が、納得は出来ない。俺を学校に? 誰の為に、何の為に? と言うか、母親はこいつにそそのかされて、俺を外に放り出したのか。
「誰の為? それは勿論君の為さ。それと同時に僕の為でもある。他の何物でもない。ある筈がない。だって、ここに居るのは、僕と君だけじゃないか」
俺の為で、彼の為。嘘だ。そこに利益はない。俺が学校に行ったって、何の意味も見出せない。何もありはしない。無さえも、ありはしない。粗雑でマイナスな害悪が、そこに生まれるだけだ。
少年が、俺の腕を掴んで、そのまま引きずって行こうとする。俺は抵抗したが、そんな物は通用しない程、彼の力は強かった。俺はされるがまま、学校に連行された。
教室の中は騒々しかった。俺は周りからの言及や陰口を恐れていたが、幸か不幸かそんな事は皆無で、皆一様に俺に対して無関心だった。
授業前には、担任によるホームルームがあり、それが終わると一時間目が始まる。科目は数学。教師は教室に入ってくるなり、唐突に、機械的に授業を始めた。勿論、休んでいた俺が分かる内容ではない。その時間は、とても長く感じられた。
一時間目が終わり、二時間目。現国の授業だった。入ってきた教師は、授業で使うのであろう資料を教卓の上に置くと、授業を始める前に出席を取り始めた。
前の奴から順番に、名前が呼ばれていく。窓際の一番後ろ。最後の奴が呼ばれた。それで、点呼は終了。
俺の名前が呼ばれることはなかった。
単なるミスなのだろう。それは分かる。何時もいなかったから、そのまま、何時も道理に飛ばしてしまったのだ。これは、自業自得だ。俺は誰にも文句は言えない。それに、文句を言うほど、大した事でもない。正常に、誠実な現実がある。それだけの事だった。気にすることじゃ、ない。
午前の授業を全て終わらせ、昼休みに入る。俺は、荷物を纏めて玄関に向かっていた。この時も、俺に関心を向けた生徒はいなかった。
帰ろう。そう思った。黒板の数字や文字は不可解な物ばかりで、教師の声はまるで呪文で、生徒の談笑は呪いの様だった。こんな所に、一秒でも長く居たくはなかった。
外は雨だろうが、関係ない。朝の奴も知らない。気にする物も、気にかける物も何もない。なら、帰ったとしても、問題はないだろう。
玄関で靴を履き替え、傘を差し、学校を出る。この時間の外の世界は久しぶりだ。
朝や夜は、腹が空く度にコンビニに行ったりしていたけど、昼間は基本的に家に居るからだ。
そう言えば、昼飯がまだだった。朝も食べてないから、空腹が激しい。家まで持つかどうか分からない。雨の中、余り外にいたくはないが、仕方なく近くのコンビニで、パンを購入した。自動ドアを潜り外に出ると、急に前から声をかけられた。
「あれっ? お前、何でこんなとこいんの?」
俺は内心ドキリとした。それは、一番聞きたくない声だった。一番会いたくない人物だった。二度と拘わらないと決めた事だった。汗が、雨に混じって体を伝う。俺は、恐怖していた。
「ホントだ。いやー、久々に見たわ。お前、引き籠ってなかったっけ? 制服着てるってことは、学校帰り? いや、今昼だからサボりか!」
一緒にいたもう一人が、珍しい動物を見たかの様な感じで、話しかけてくる。
お前らサボりだろうが。と言いたかったが、抑える。無駄に突っかかりたくはない。
「まあ、久しぶりに会えたし、丁度いいや。ええと、お前名前なんだっけ? 確か…… 思い出せねえからいいや。取り敢えず、お前。また、前みたいに頼むは。ちょっと今困っててね。一枚位で良いからさ、今ある?」
俺は黙って首を振る。
「そう、じゃ、俺達、何時もの公園にいるから取ってきて。待ち金合わせて、二枚ね。んじゃ、宜しく」
円滑に軽快に綺麗な恐喝だった。今までの積み重ねがあるからこそ出来る方法。それが当然であると言う法則を、相手の中に植え付けるこの方法は、単純な暴力よりもえげつない。
その法則が、俺の中には既に根づいてしまっている。それは、一年近くたっても消えていなかったらしい。
俺は家がある方向へと足を向ける。重く、竦んだ足を一歩一歩、丁寧に動かしていく。
「君は、どうするつもり?」
また、声をかけられた。今度は後ろからだ。
振り向くと、朝と同じ体制で、同じ人間が立っていた。
「帰るんだよ。あいつらは、俺の家を知らない。帰ったら、籠って出てこなければそれでいい」
俺は前を向き直し、再び歩き始める。足はさっきよりも軽くなっていて、歩きやすかった。それでも、竦みはなくなっていない。
「待てよ。それは、逃げだろ? 僕に逃げるなって言った人間が、僕の前で逃げるなよ!」
少年は急に叫んだ。今までとは、明らかに口調も声高も声音も違う。まるで、別人の様な叫びだった。
振り向くと、彼の表情もまた、今までとはまるで違っていた。怒りと失望と憐れみと叱咤が混じった様な顔をしている。そんな目で俺を睨んでいる。
俺は心底驚愕した。会って間もないけれど、朝からの彼の感じからは想像も付かない様な、シリアスな雰囲気を纏っている。さっきの二人とは、また別の恐怖がある。
「は? 何を言ってんだ? 俺はお前にそんな事言った覚えはねえよ」
この少年とは朝が初対面だ。そんな事、言う筈がない。言える機会がないのだから。
「それに、逃げるなって、何だよ? あの二人と戦えば良いのか? 喧嘩して、殴って、勝って来いってか? それが出来れば、苦労しねえよ! それが出来ないから、逃げてんだよ! 逃げるしかねえんだよ!」
逃げる気持ちは、立っている奴には分からない。立っている奴は、逃げる理由がないから立っている。恐怖を知らないから、立ったままでいられるのだ。
「違う。あの二人と、ただ君の鬱憤を晴らすためだけに闘っても、意味はない。例え勝っても、ただ君の心に様な薄っぺらい歓喜と、下らない解放感が蔓延り、無意味な満足が生まれるだけだ。それじゃ、あいつらと変わらない」
「じゃあ、どうしろって言うんだよ?」
「『物語の世界は、所詮理想だ。でも、それは現実世界で絶対に起こらない訳じゃない。勿論、不思議な力やロボットの類は無理だろうが。それでも、その他なら、努力と運次第で、何とか出来る物だってある。それを知りながら、幻想的な物に、受動的になっている人間は愚かだ。それは、ただ逃げているだけだ。そんな人間が偉そうに、理想を現実世界に臨むな』一月前のある掲示板の書き込みだ。覚えてないわけじゃないだろ? だって、これを書いたのは君だから」
確かに、聞き覚えがあった。ネットの掲示板で論争になり、その時に書いたものだ。こいつも、それを見ていたのか。
「友達に見せたらさ、馬鹿じゃねえの? とか笑い飛ばしていたけどさ。俺は、俺だけはその通りだと思った。それは、その時の、引き籠っていた頃の俺そのものだったから。一日中ネットで泳ぎ、小説、漫画、映画、ドラマ、アニメ。何でも見ていた。こんな事が起これば、俺は引き籠らなかっただろうなとか考えながら。でも、自分から起こそうとは思わなかった。絶対無理だと思っていたから。それが、この書き込みを見て変わった。僕は変えたいと思った。逃げてる自分を。自分の世界を。だから、部屋から出てきた。新しい現実を見たかったから」
「妄想だな。確かにそんな書き込みをしたことはあるが、ホントにそんなこと、出来るわけないだろ」
一時的な感情で、あんな書きこみをしてしまった自分を呪いたい。愚かなのは自分の方だ。あんなこと書かなければ、俺は今日も部屋に居られたのに。
「本当に無理だと思っていないから、ほんの少しでも可能だと思っていたから、君は書いたんじゃないのか? だから、あの時、喧嘩になったんだろ?」
「……」
「君は、小説は読む? 漫画や映画、ドラマは見る? アニメでもいいけど。特に、学園物の」
「ああ、引き籠ってる間は、大体そんな感じの物語にばかり触れてたよ」
確かに、俺が触れてきた物は、学園物やそれに準ずるものが多かった。だが、だからと言って、俺が妄想に取りつかれていたと言うのか。そんなはず、ない。
「『小説を読むことは、人生が一回きりである事に対する反逆だ』こんな感じの事を言った作家がいた。今の君は、正にこれだろ? 自分の学園生活に納得がいかなかった。別の生活を送りたかった。君の母親に聞いたけど、君のそういう物に対する執着心は異常だった。常軌を逸してると。それくらい、君は闘ってきたんだ。本の中で、画面の中で。なら、今度は外の世界で闘おう!」
闘う? 自分の世界を変える? 僕が? こんな妄想で?
「意味のない喧嘩でなく、目標のある闘いならば、君の中には未来が生まれる。無意味なんて生まれない」
今まで、逃げてきた。逃げるだけの生活だった。人から逃げ、勉強から逃げ、学校か逃げ、自分から逃げた。幻想の世界に。
「もう一度、聞くよ。君は、これからどうするつもりだ?」
雨で土が抉り返った公園に二人の姿を見つける。向こうもこちらに気付いた様だった。
「よう、早かったな。てか、隣の誰?」
俺は答えない。
「そんな事より、速く寄こせ」
もう一人が急かす。そこまで、金が欲しいのだろうか。
「……い」
「はっ?」
聞き取れなかったのか、苛立ち気味に確認しようとする。そいつに、俺は大声で怒鳴ってやった。
「てめえにやる金なんかねえつってんだよ、クソヤローがああぁぁぁあああ‼」
叫びながら、二人で殴りかかる。傘を捨て、平穏を捨て、現実を捨てる為に。己の退路を断つために委細構わず、形振り構わず、拳を握り突っ込んだ。
これが何かを変えるのか、これで僕が変わるのかは分からないけれど。
それでも、全然、全く、これっぽっちも、止まるつもりはなかった。
泥水が制服にしみ込む。雨は体を這いまわり、もう濡れている感覚すらなくなり掛けている。俺達は、二人揃って、公園の地面に体を投げ出していた。体も顔も痣や傷だらけ。所々出血もしているが、血は殆ど雨水によって流され、泥と同化していて、分かりづらい。
結果は大敗だった。
「そりゃ、勝てるわけないよ。僕達、一年近く部屋に籠ってたわけだし」
少年はまるで他人事の様に笑い飛ばしていた。
「ふざけんな! お前が変えようって言ったのに、何笑ってんだ!」
俺は彼の発言に憤慨したが、彼はそれさえも笑い飛ばすように言った。
「変わったよ。君は変わった。この闘いは勝つことが目的じゃない。切掛けにしたかったんだ」
「切掛け?」
彼は笑ったままだ。かなり痛いだろうに、何故笑っていられるのだろうか。怖い位に綺麗な笑顔の秘訣を是非とも知りたい。
「そう。君さ、今の闘い、すごく楽しんでただろ?」
楽しい筈がない。殴られ、蹴られ、踏まれ、捕まえ、投げられの暴力の嵐にさらされて、楽しい訳ないだろう。と普通は考えるのだろう。だが、
「ああ、楽しかったよ」
俺の、正直な答えだった。二人で共に協力し合い、闘う。そして、その後の余韻。それは、俺が今まで味わったことのないものだった。今までは味わうことの出来ないものだった。
「僕の、と言うか君の理想論。それは確かに実現が難しい物だ。でも、子供は実現不可能な夢を持つだろう。例えば野球選手とか。その為に、一生懸命練習する。父親との休日特訓、友達と放課後に遊ぶ、リトルリーグに入る。野球選手になるってのは、叶えるのが難しい夢だ。子供は知らないだけで。でも、それに向かって努力するのって、すげー楽しいだろ! 僕達もさ、叶えるのが難しい事を、僕なら行けるって、思いながら頑張るんだ。その切掛けが欲しかったんだ。親友同士で協力して、どちらかを助けるために、不良と戦う。それって、すげードラマっぽくない‽」
俺達は何時から親友になったのだろう? まあ、それはいいか。
こいつの(俺の)理想論。一般人から見れば、かなり憂鬱なものだ。この雨の様にじめじめしていて、妄想と虚想が降り注ぐ。ただの厨二病。
でも、俺はその妄想と虚想が成功に、真実に近づく瞬間を体験した。そうすれば、もう夏が来る。梅雨の様にじめじめした理想ではなくなる。夏の様に、解放と爽快感に包まれた現実へと変わる。
「そうだな。悪くない」
俺達の梅雨が明けるのはまだ先だろう。例え夏になっても、何度も何度も梅雨に戻されるかもしれない。又は、このまま進まないかもしれない。それでもいい。何もしないよりは、断然楽しい。
降りしきる雨に打たれながら、俺達は笑った。今までにない位に。涙が出ても、顔痛くなっても、笑い続けた。
梅雨はまだ、始まったばかりだ。