↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR

セルビシオ

作者: 朝吹龍一朗
掲載日:2026/10/22

 スペイン語は、ほとんど話せない。

 七泊ほどのスペイン旅行に行ったときも、頼りにしたのは「指さし会話」の本だった。

 もっとも、私はラテン語なら読める。

 スペイン語はラテン語から派生した言葉だから、看板や案内表示を見ていると、なんとなく意味の見当がつくことがある。これは後にイタリアへ行ったときも同じだった。

 目は、それほど困らない。

 困るのは口である。

 旅行はツアーだった。

 マドリードで自由時間になったとき、ほかの人たちはガイドさんと一緒に、あちらこちら見て回ったらしい。

 私と家内は、バルに入った。

 といっても、店の中ではない。

 大通りの真ん中、中央分離帯のようになった場所にパラソルが並び、その下にテーブルが出ていた。

 車が両側を流れていく。

 その真ん中で、私たちはワインを飲んだ。

 大きなグラスだった。

 家内と二人でピンチョスをつまみながら飲んでいると、なんだか居心地がよかった。

 三十分。

 四十分。

 結局、小一時間そこにいた。

 そして、大きなグラスのワインを飲めば、当然のことが起きる。

 トイレに行きたくなった。

 さて、困った。

 そのとき、とっさに出てきたスペイン語が、

「セルビシオ?」

 だった。

 英語のserviceに似ているから覚えていたのかもしれない。

 店の男は、すぐにわかった。

 何か言われて、私はさらに、覚えていた言葉を一つ返した。

「Vale」

 すると男は、急にうれしそうな顔をした。

「¡Ah, vale, amigo!」

 そこから、なんちゃらかんちゃらと続いた。

 わからない。

 ちょっと待ってくれ。

 私のスペイン語は、いま使った二語でほとんど終わっている。

 それでも男は楽しそうにしゃべりながら、私を奥のトイレまで案内してくれた。

 通じた。

 それだけのことで、妙にうれしかった。

 七泊のあいだ、「指さし会話」の本を使って、それなりにいろいろな人とやり取りした。

 帰国してから、そのスペイン語をろくに覚えていないのは、私が悪い。

 けれど、不思議なもので、言葉そのものより、通じたときのことはよく覚えている。

 スペインが好きになったのも、そういう小さなやり取りがあったからかもしれない。

 バルを出てから、少し後悔した。

 ほかのみんなと一緒に回ればよかったかな、と思ったのである。

 せっかくマドリードまで来たのに、自由時間のかなりの部分を、道路の真ん中のパラソルの下でワインを飲んで過ごしてしまった。

 そのあいだに、ほかの人たちはいくつもの場所を見たらしい。

 見損なったものは、たぶんあった。

 集合時間が迫っていた。

 私たちは急いだ。

 その途中、ユダヤ人街らしい一角を通った。

 そこだけ、さっきまで見ていたマドリードとは街の表情が違っていた。

 建物も、人の気配も、どこか違う。

 こんなところもあるのか、と足を止めたくなった。

 けれど、今度は本当に時間がない。

 私たちは、その街を急ぎ足で通り抜けた。

 旅というものは、全部を見ることができない。

 一つを選べば、一つを見損なう。

 バルに小一時間いたせいで、私たちはいくつかの観光場所を見なかった。

 そのかわり、道路の真ん中でワインを飲んだ。

 ピンチョスをつまんだ。

 店の男に「アミーゴ」と呼ばれた。

 そして集合場所へ急ぐ途中で、予定表にはなかった街の顔を見た。

 どちらがよかったのかは、いまだによくわからない。

 少し残念だった気もする。

 それでも、マドリードと聞いて私がまず思い出すのは、有名な建物ではない。

 車が流れる大通りの真ん中で、パラソルの下に座っていたこと。

 大きなグラスのワイン。

 そして、奥を指さしながら笑っていた男の顔である。

「¡Ah, vale, amigo!」

 私はあのとき、スペイン語を話していたとは、とても言えない。

 それでも、ほんの少しだけ、スペインの中に入れた気がした。

 セルビシオ。

 たった一語が、ずいぶん長く旅を覚えている。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。