第13話 ふかふかの聖域と、森の盟約
完成したばかりの傾斜屋根の下。まだ壁もないその場所を、僕たちは今夜の「寝室」に決めた。
泥だらけの地面をそのままにするわけにはいかない。
僕は、午後の残りの時間を使って、近くの茂みから乾いた冬草や、弾力のある細い枝を大量にかき集めてきた。
「ゆう様、それをこちらに。……層を作るようにして、空気を含ませながら敷き詰めてください」
リアの指示に従い、僕は屋根の下の地面に、厚さ二十センチほどもあろうかという草の層を作っていく。
狭い骨組みの下での作業だ。僕が草を広げていると、隣でリアがそれを平らにならしていく。膝と膝がぶつかり、彼女の長い髪が僕の肩をかすめる。
「……こんな感じかな。結構、弾力があるね」
「はい。ですが、これではまだ『寝床』ではありません。……さあ、これの出番ですわ」
リアが、拾った南京袋の中から、大切に守られていた「大きな二枚の袋」を取り出した。外側の南京袋は泥を被っているが、その中に収められていたこの袋は、驚くほど清潔な状態を保っている。
リアは一枚の袋の端を器用に裂き、大きな一枚の布へと姿を変えた。彼女はそれを、僕たちが作った草の山の上に、ピンと端を引っ張って被せた。
「……あっ、これ、ハイジのベッドみたいだ」
「ハイジ……? どこの国の検索データか分かりませんが、素敵な表現ですわね。ほら、ゆう様。反対側の端を持ってください」
二人で布の端を握り、呼吸を合わせて一気に広げる。
草のチクチクした感触が布の下に隠れ、清潔な布の肌触りが姿を現した。リアはこだわりの強い手付きで、シーツの皺を丁寧に伸ばしていく。
「これで、下の湿気と冷気は遮断できます。……そして、もう一枚の袋が、私たちの『掛け布団』ですわ」
リアは、もう一枚の袋も同様に広げ、二人の身体を覆えるほどの大きさを確保して、シーツの上にふわりと重ねた。
まだ壁のない開放的な小屋だが、その中心に設えられた「ベッド」だけは、そこだけが別世界のように柔らかで、温かな光を放っているように見えた。
「……座ってみてもいい?」
「ええ。……どうぞ」
僕がおそるおそる腰を下ろすと、草の層がギシッと心地よい音を立てて身体を沈み込ませた。
固い地面の感触はどこにもない。
「……すごい。本当にふかふかだ。リア、君も座りなよ」
「失礼します……。……あら、これは……想定以上の快適さですわ」
リアも隣に腰を下ろした。
狭い空間。肩が触れ合い、布越しに伝わってくるお互いの体温。
先ほどまでの泥まみれの重労働が、遠い昔のことのように感じられるほど、その場所は平穏に満ちていた。
「明日は魚を捕りに行って、夜はここで、お腹いっぱいで眠れたら最高だね」
「……ええ。私たちの、最初の『家』。……少しずつ、形になっていきますわね、ゆう様」
リアの瞳が、沈みゆく夕陽を反射して、昨日の夜よりもずっと力強く輝いていた。
僕たちは、完成したばかりの「聖域」の感触を確かめ合いながら、しばしの間、並んで暮れゆく森を眺めていた。
ふかふかの草と清潔な布に包まれ、僕たちはようやく人心地ついた。
だが、屋根の下で肩を並べて座り、自分たちが作り上げた華奢な「家」を見上げたとき、ふとした不安が頭をよぎった。
「……ねえ、リア。もし今夜、またあの鹿たちが来て、この屋根に寄りかかったら……」
「……物理的に全壊しますわね。私たちの生存確率は、彼らの巨大な親愛の情によって、瞬時にゼロへと叩き落とされますわ」
リアは真顔で、細い枝を組み合わせただけの柱を見つめた。
鹿たちの体温は命綱だが、その巨体はこの壊れやすいシェルターにとって、あまりにも強大すぎる「壁」なのだ。
サ、サッ……。
予感に応えるように、夕闇の向こうからあの足音が聞こえてきた。
月明かりを浴びて現れたのは、銀色の角を持つあの雄鹿だ。続いて、仲間たちも音もなく姿を見せる。彼らは昨夜と同じように、僕たちの「家」のすぐそばで腰を下ろそうとした。
「あ、待って……! 鹿さん、お願いだ」
僕は思わずベッドから立ち上がり、雄鹿の前に歩み出た。
リアが後ろで息を呑むのがわかる。僕は、自分たちの頭上にある、今にも壊れそうな屋根を指差した。
「こんばんは。……せっかく来てくれたのにごめん。でも、この場所はすごく壊れやすいんだ。君たちが寄りかかると、僕たちの『家』が潰れてしまう。……だからお願いだ。今夜は、少しだけ、この小屋から離れて座ってくれないかな」
自分でも無茶を言っている自覚はあった。相手は言葉を持たない野生動物だ。
雄鹿は、僕の必死な訴えをじっと聞いていた。その大きな黒い瞳が、月明かりを反射して深く、神秘的に揺れる。
「……ゆう様、やはり無茶ですわ。言葉で伝えるには、あまりに……」
リアが言いかけたその時だった。
雄鹿が、短く、そして力強く鼻を鳴らした。
ブフゥッ!
すると、どうだろう。
小屋に寄りかかろうとしていた他の鹿たちが、まるで号令を受けたかのようにピタリと動きを止めた。そして、互いに顔を見合わせるような仕草を見せた後、一歩、また一歩と、僕たちの小屋から数メートルほど距離を置いて、静かに地面に伏せ始めたのだ。
雄鹿自身も、僕の目を見つめた後、屋根に触れない絶妙な距離を保って、悠然と腰を下ろした。
「……通じたの、かな」
「……信じられません。単なる威嚇ではなく、明確な『指示』として彼らは受け入れました。……ゆう様、彼らには言葉が、いえ、あなたの『意思』が、そのまま届いているようですわ」
リアの驚愕に満ちた声が、夜の静寂に溶けていく。
言葉が通じる。それはこの未知の森で生きていく上で、何よりも心強い発見だった。
「……ありがとう、鹿さん」
僕はもう一度お礼を言い、ふかふかのベッドへと戻った。
外には、僕たちを守るように円陣を組んでくつろぐ、巨大な命の壁がある。
屋根は壊れることなく、けれど鹿たちの体温は、冷たい夜風を遮るように僕たちを包み込んでいた。
「おやすみなさい。……本当に、不思議な夜だね」
「ええ。……おやすみなさい、ゆう様。……今夜は、これまでで一番、安らかに眠れそうですわ」
意識が遠のく中、僕は確かに、彼らと「隣人」になれたような気がして、深く、深い眠りへと落ちていった。




