第117話 白銀の瓦解、加速する春の日常
今年の冬の終わりは、ある日唐突に、音を立ててやってきた。
夜半、小屋の屋根からドサリと雪が滑り落ちる重い音が響く。
去年の今頃は、その音にいちいち目を覚まし、薪の残数や食料の計算を頭の中で繰り返していたものだが、今の僕たちにその不安はなかった。
「……ゆう様、起きていらっしゃいますか」
暗闇の中、隣で眠っていたはずのリアが、鈴を転がすような声で囁いた。
彼女の気配は、眠りから覚めたばかりの淀みなど微塵もなく、驚くほど澄み渡っている。
「……うん。雪、落ちたね」
「ええ。気圧が急上昇し、南からの湿った風が聖域を叩いています。……あと数刻で、雨に変わりますわ」
彼女の断定は、もはや「予測」ではなく、研ぎ澄まされた五感が捉えた「今の真実」を告げるかのようだった。
夜が明けると、彼女の言った通り、冬を締めくくる激しい雨が降り始めた。
真っ白だった世界が、容赦なく削られ、剥き出しの土色が広がっていく。
泉へと続く道。
去年、分厚い氷を石で叩いて穴を開けたあの場所は、今や轟々と音を立てる濁流となっていた。
けれど、リアはその激しい流れを前にしても、眉一つ動かさない。
「……準備は整いました」
彼女が泉の縁に立つと、荒れ狂う水面が、まるで彼女の意思に従うかのように一瞬だけ凪いだ。
去年、水に触れることを「拒まれない」と知った彼女は、今やこの世界の脈動そのものと、深く静かに共鳴している。
「ゆう様。今年の春は、去年よりもずっと鮮やかに、命の音が聞こえてきますわ」
そう言って振り返った彼女の瞳には、迷いも、未来への気負いもない。ただ、目の前にある春の兆しを、一滴も漏らさず享受しようとする純粋な喜びだけが宿っていた。
家に戻り、濡れた上着を脱ぐ。
冬の間、驚異的な速度で織り上げたあの真っ白な布が、雨粒の透き通った光を受けて、作業台の上で誇らしげに輝いていた。
「……リア。なんだか、去年の春とは全然違うね」
僕がそう言うと、リアは僕の濡れた髪を拭きながら、ふっと柔らかく微笑んだ。
「ええ。去年、わたくしはこの地であなたと共に暮らす『一人前』になりました。……ですが今年は、もっと欲張りになってしまったようですわ」
彼女の手先は、雨を避けるツバメのように鋭く、それでいて深い慈しみに満ちている。
「雪の下で眠る芽の息吹も、あなたが淹れてくださるお茶の香りも……。去年よりもずっと速く、深く、わたくしの心に届いてしまうのです。……ふふ。このままだと、春の忙しさに目が回ってしまいそうですわね」
雪の下から顔を出した泥の匂い。
勢いを増し、岩を噛む水の音。
世界が劇的に形を変えていく中で、僕の隣に立つ彼女だけは、変わることのない平穏を抱きしめ、誰よりも深く、この満たされた季節をその身に宿していた。
「……さあ、ゆう様。春が来ますわ。……まずは、この布で新しいシャツを仕立てましょうか」
加速する春の風が、小屋の扉を叩く。
それは、終わりのない幸せな日常が、また新しく巡り始めるための合図のように聞こえた
僕達はこのまま幸福な時間が、おだやかに続いていくと信じていたんだ。
この時は、まだ。




