PRAYER 03 Alcohol&Protocol
今もロビーに時計の音が、規則正しく刻み響く。
「アーク・リット」の店長として、屈託のない、笑みを浮かべ対面の椅子に座った。
ハリソンは無表情に書類を開き、冷徹な目で数字を追う。
「あの爺さんから、パン屋を引き継いだ時以来ですね。リシェルさん。貴女は返済計画が非常に堅実です。我々としても、貴女のような『信頼できる』顧客を支援するのはやぶさかではありません。では今回はどう言ったご相談で?」
「はい…うちの店、おかげさまで絶好調でして!パンの量産体制を例える為にも、今度はオーブンの増設を考えてるんですけど……」
リシェルは手際よく収支報告書を差し出した。
「……ふむ。相変わらず、しっかりとした返済計画と使い道ですね。爺さん譲りと言った所でしょうか。……問題ないですよ。融資を引き受けましょう。」
ハリソンの声は、自分より下級明を見下す特有の響きがあった。だが、その言葉はリシェルにとって一次発酵。彼女は身を乗り出し、目を輝かせた。
「わあ♡嬉しい! ありがとうございます。……あ、そうだ。ずっと気になってたんですけど」
リシェルは、ハリソンの胸ポケットの白いハンカチを指差した。
「とってもステキなハンカチですね。その刺繍……『A.S』って。もしかして、奥様か恋人からのプレゼントですか? センスいいなぁ♡」
その瞬間。
彼は無意識に右手を伸ばし、ハンカチの端を愛おしそうに、独占欲と共に強く握りしめた。
「……これですか。ええ、そうです。かつての親しい友人と私との『純愛』の証として残していった……いわば、私の栄光のトロフィーです。」
ハリソンの口元は、隠せなかったのか、ほのかに歪んだ笑みが浮ぶ。
そして目の前にいる「パン屋の小娘」だという油断が、彼の傲慢さを増幅させている。
「残念ながら……その友人はもう故人ですが。せめて彼女の形見をこうして身につけていると、当時の彼女の……満ちた顔を思い出して、仕事が捗るのです。」
「へぇー、そうなんだぁ。……。彼女さんの為にもこの街で生き抜かないとね……。」
リシェルは前髪を指先でくるりと回した。
ハリソンはしっとりした表情で言った。
「……彼女を、もう少し愛してみたかった…。私にできる事は、この飲み込めぬ悲劇に毎日…乾杯する事です。」
ハリソンは鼻がピクつき、融資の承認印を書類にそっと押し付けた。
「手続きは以上です。美味しいパンを焼いて、しっかり返済に励んでください。では……お引き取りを。」
リシェルは立ち上がり、丁寧にお辞儀をした。
銀行を出て、扉が閉まった。
隣を歩くモスの顔は、怒りと嫌悪で青ざめている。
「……アイツの言動……まるで自分の女だと思ってるようだ……まったく反吐が出る」
「ほんと、生焼けだね。」
リシェルは明るい足取りを止め、顎に手を当て考え込んでいる。
その瞳は、もはやパン屋の店長ではない。複雑なパズルを解き明かそうとする、鋭利な探偵に近い。
「……ねえ、モス。まだ、何かが喉に引っかかってるんだよね」
リシェルはテルールから渡されたメモを取り出した。
――――
[ハリソンの身体的特徴]
・頭から爪先にかけてムッチリと太っている。
・お腹だけと言うより腕も脚も満遍なく太ってい る。
・銀行には大手のパティスリーや劇団が訪れるハリ ソンそれらの担当。
・甘いものが好きで特にワッフルなどが好き。
[ハンカチのご注文]
・工場勤務のエドワード・シートンさんのご依頼。
・妻のアリッサ・シートンへの誕生日プレゼント。
・妻のイニシャルの刺繍を赤で入れる。
――――
「メモに書いてある情報と照らし合わせるなら『黒』なのは、ほぼ確定ですが……どう殺したかですよね? 」
モスの言葉に、リシェルは頷いた。
「そうそう。奥さんは『首を吊って』死んだんだよね? 依頼人の夫に相談して意見を実行できる度胸があるなら…自殺の線は薄かなぁ。他殺を自殺に見せかけるには、相手を無力化するか……。たとえ男性でも一人だけでも成人女性の身体を持ち上げるのは難しいし。」
モスは少し考え言った。
「……お酒で酔わせたとか。意識を失わせた後に、首を括らせれば……」
「可能性はあるね。でも、お酒が弱い相手じゃないと成立しないかも。さっき近くで見たけど、ハリソンは確かに太ってた。でも、あれは酒飲みの太り方じゃない。甘いものか、脂っこいものを好むタイプの太り方だよ。……となると、彼自身がお酒の扱いに手慣れているとは思えないんだよね」
リシェルは虚空を見上げ、霧の向こうにある見えない「真実」を手探りで探す。
「奥さんが酒飲みだったかとか……もう一度、あの依頼人の旦那さんに詳しく聞いてみようか。……死因の『裏』が取れないと、綺麗な剪定ができないもんね♡」
「……分かりました。彼と連絡を取り繕っておきます。」
二人は足早に「アーク・リット」への路地を引き返した。
――10時頃/ アパートの一室――
その一室の壁には、新聞の切り抜き、イーストエンドの地図、そして「Ms.リッパー」が関わったとされる事件の現場写真が、無数の赤い糸で繋がれ、蜘蛛の巣のように張り巡らされている。
「……あの月夜の日に、徹夜した甲斐があったな。おかげでこの娘がMs.リッパーという証拠を獲れた。」
ドイルが壁の資料を指先でなぞり優越に入り浸っていたその時、ドアが激しく蹴り開けられた。
「何やってるんですか! 次の締め切りもうすぐですよ!」
入ってきたのは、ドイルの担当編集、ルイスだった。彼は山のような原稿用紙と、今にも爆発した怒りを抱え部屋へ踏み込む。
「新作の探偵小説の話はどうなったんですか! もう編集長に『次は歴史に残る傑作になりますよ』って言っちゃいましたよ! 自分に酔いしれてる場合じゃないですから!」
「おや、ルイス君。君の怒鳴り声は、イラスベスか何かかい?」
ドイルは振り返りもせず、壁に貼られたハリソンの写真にピンを突き刺した。
「小説なら書いているとも。現在進行形でね。この街の死神『Ms.リッパー』……これほどに好奇心を擽るモチーフはあるかい?」
「また始まった! 現実の事件を追いかけて締め切りを落とす常習犯め!こっちだって仕事です。時間制限があります!」
「まぁまぁそう怒るなルイス君。見たまえ……読者は嘘を求めるが、私は『真実』という名の毒を求めている。……Ms.リッパーの通った跡には、ロンドンを焼き尽くすほどの暗い闇が眠っている」
ドイルはルイスの胸に指を突き立てた、その笑みは、狂喜と好奇心に飢えている。
「私は『イーストエンドの死神』が、どう生まれたか。そのルーツを解き明かし、どう追い詰めるか……その時、どんな反応を見せるのか。それが見たい。……締め切りなら待たせておいてくれ。真実が焼き上がる瞬間を逃すわけにはいかないな。」
「もう嫌だ……この人の担当、嫌だ……!」
頭を抱えるルイスを放置し、ドイルはコートを手に取った。
「さあ、取材に行こうか。そろそろ彼らも動き出す頃合いだ、そこで待ち伏せに行くよ。」
ドイルはルイスに袖を引っ掴まれたまま出て行った……。




