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PRAYER 01 Bread&Blood

 物語は幾多もの人々の観念によって成り立っている。ならば我々が知る史実と言うのも誰かが誇張した小説に過ぎないのかもしれない……。

 −1887・2月/ ロンドン・イーストエンド-

ホワイトチャペル近辺の路地裏は、今日も逃げ場のない淀んだ霧が立ち込めている。貧困と不衛生が混ざり合った空気は、まるで黒ミサの如く幽々と建物の隙間を這い回っている。皮肉にも、それが、この街のシンボルだ。

その陰鬱な景色を切り取るように、一角だけ場違いに色鮮やかな店構えのパン屋がある。


――【アーク・リット】――

名物は、この街の空気感では少し浮いた香ばしい匂いを放つクロワッサン。

 

 ―6時頃―

「おはっぴよー!モス!パンはいい感じに焼けてるぅ?」

階段を駆け下りる軽快な足音とともに、明るい声が店内に響く。

二階の寝室から降りてきたのは、店長のリシェル。明るいブロンドの後ろ髪を赤い布で大きなリボンのように束ね、華やかなワンピースに派手なレースのエプロンを揺らしている。


リシェルはレコードを古びたプレイヤーにセットしてジャズを流す。そして焼き立ての棚からクロワッサンを一つ摘み上げると、躊躇なくガブリと食らいついた。

「ん〜!やっぱりウチの店のパンはたまんないねー♡」


「ちょっと!ダメですよ、リシェルさん。それは商品です。勝手に食べないでください」

陳列棚にパンを並べていた少年、モスが呆れた声を上げた。キャスケットを深く被り、青のシャツにオーバーオールを着こなした彼は、いかにも真面目な弟といった風情だ。


「ちぇー。いいじゃん♡朝ごはん食べてないんだから」


「はぁ……また給料から引いときますね。」

モスは深いため息をつきながら、伝票に素早くペンを走らせる。

端から見れば、食いしん坊な姉と苦労人の弟が営む、平和な街のパン屋そのものだ。

 

――カラン、コロォン――

 

ドアベルの音が静かな店内に響く。


「いらっしゃいませー♡」

リシェルが満面の笑みで客を迎える。


入店したのは、薄汚れた作業着を着た若い男だった。左手の薬指には、安物だが手入れされた銀の結婚指輪が光っている。製鉄工場で働く労働者だろう。

しかし、その男の顔色は異常だった。陰鬱と窶れた感情が染み付いた顔……その瞳の奥には、今にも叫び出しそうなほどの逆上が張り付いている。


男は、クロワッサンをトレイに乗せた。そして、リシェルの立つレジへと歩み寄る。

「……これを、よく焼きで」


リシェルの瞳の奥で、明るい「店長」の光がふっと消え、ニコやかに言った。

「……かしこまりました。奥の準備ができておりますので、こちらへどうぞ」

リシェルは微笑みを絶やさぬまま、男を店の裏にある「別の部屋」へと促した。


 表の賑やかな通りから遮断された店の奥、小麦粉の匂いと古びた帳簿が並ぶ一室。つまりはただの「厨房」兼「居間」である。

依頼人を椅子に案内しリシェルも机越しに椅子へ座る。

リシェルは、二つ目のクロワッサンの衣をパリパリと音を立てながら頬張り、目の前の男……依頼人の言葉を聞いた。


「……妻は、殺されたんです。あの男、ハリソンに…。」

男の声は震えていた。


彼の妻は、ロンドンでも大手の銀行に勤めていた。そこで上司であるハリソン課長から、日常的に性的嫌がらせを受けていたのだという。

摩耗してゆく妻に、依頼人である夫は「一度、強く言ってみたらどうだ」と助言した。だが、それが妻の運命を変えてしまった……。


「その翌日、妻は死んで見つかりました。首を吊った……。警察は自死として処理しましたが、あいつが手を下したんだ! なのに、警察は証拠不十分でハリソンは無実だ。あいつ…裏工作をしたに違いない!」

男はテーブルを拳で叩き、涙を流す。

 

……もぐもぉぐ…んぐっ…


リシェルはクロワッサンを飲み込み、指についたバターをペロリと舐める。その横でモスが「行儀が悪いですよ」と小声で叱る。

 リシェルはハンカチで口元を布で拭ったのち椅子に深く腰掛け、鋭い眼光を男に向けた。

「酷い話だね。やっぱりこの街は、どこまで行っても……生焼けだ」


すると……明るい町娘の面影は冷酷な死神に変わる。

「概要は分かった。引き受けるよ。」


 リシェルは真剣な眼差しで依頼人を見つめ淡々と言う。

「でもね、私のポリシーは『罪なき人、裁くべからず』。あなたがどれだけ悲しんでいても、私は私自身の目でハリソンを調べる。そして、裁くべき『悪』だという確証を得た時だけ、剪定を実行する」


そして身を乗り出し、男の瞳を覗き込む。

「もし私の調査で、彼がシロだった場合、これ以上の詮索もしないし始末もしない。……それで良い?」


男は一瞬、リシェルの放つ威圧感に圧倒され固まるが、絞り出すような声で答えた。

「……ああ。それでいい。あいつの罪を、暴いてくれ」

 

―6時30分頃―

 依頼主はパンの代金を支払い店を後にした。

 リシェルが三つ目のパンに手を伸ばした瞬間、平手打ちがその甲を叩いた。

「こら!ダメです。リシェルさんのつまみ食いだけで店が赤字になります。先代に顔が立ちませんよ。」


「いっ……! もう、いいじゃん一個くらい!」


「全く…貴女って人は……。それより、依頼の件ですが直接、銀行に行って調査されるんですか?」


モスの問いに、リシェルは赤くなった手をさすりながら唇を尖らせた。

「えー。めんどくさい。それに直接行く前に、ハリソン課長の人物像とか勤めてる銀行のこと、もっと詳しく聞いたほうがいいでしょ。一回だけパン屋の融資金の話で行っただけだし。私、あんまり知らないからさ。」


リシェルはエプロンを脱ぎ捨て奥のハンガーから私服に着替えた。

「ちょっと『着替え』の受け取りついでに、あのパペット君のところに行ってくるね。」


ホワイトチャペルのさらに奥まった路地。パン屋から少し歩いた所に、色とりどりの端切れで飾られた風変わりな仕立て屋がある。

 

 ――6時50分頃/【クロロの仕立て屋】――

 店頭には可愛らしいぬいぐるみや帽子が並び、近所の子供たちが腹話術の様な店主を囲んで歓声を上げていた。


「あ、リシェルさんだ。こんにちはー!」


「おはよう♡。みんな元気だねー。ちょっとテルールに用事があるから退いてもらえるかな?」

子供たちの間を抜け、リシェルとモスは店の奥へと足を踏み入れた。


「みんな…朝早い…。まだ店開けてない……。」


『何言ってんだ!テルール。店開けたのはお前だろ!やる気満々だろうよ!』


ボソボソと話すのは、店の主のテルール。深いシルクハットを被り、目の下に色濃いクマを浮かべている。近づくと、微かに薬物の刺激臭が鼻を突く。彼は内気に俯き、リシェルと目を合わせようとはしない。

そして口荒く喋るのは、彼の左手のテルールが信頼し「クロロ様」と呼ぶパペット。


『おっす! パン屋の強欲女。例の服の受け取りだよな? 完璧に仕上がってるぜ!』

と不自然な動きで口を開いた。


「相変わらず口が悪いね、クロロ様www。衣装の事も、そうだけど今日はちょっと聞きたいことがあってさ。大手の銀行のハリソン課長。知ってるでしょ?」


リシェルがそう言うと、テルールはビクリと肩を揺らし、パペットの影に隠れ「テルール様……お願いします。」と言わんばかりの顔を伏せた。彼は…いや?……彼らは、仕立て屋でも裏の顔は一流の情報屋だ。上流階級の衣装を仕立ても担う関係で、彼は富裕層たちの「情報」を、誰よりも多く拾い集めている。


 クロロ様がリシェルの質問に答えた。

『全く……テルールは人見知りだな!いいぜ、死神……。豚野郎のことなら、テルールの帳簿に不潔な記録も特徴も満遍なく残ってるぜぇ。優秀な銀行員だが、裏じゃあ黒い噂の耐えねぇヤツだ。なぁ、テルール?』


テルールは小さく頷き、消え入りそうな声で「クロロ様」に耳打ちした。

『よし教えてやろう!いつも通り報酬よこせよ?』


「はいはい。わかったよ、クロロ様」

リシェルは呆れた表情で、私服のポケットから小さな麻の袋を取り出す。それをカウンターに放ると、サラッとした重みのある音が響く。中には白い粉が入っている。


「お駄賃。これでいいでしょ?」

テルールの虚ろな瞳が、一瞬だけ鋭く細められた。彼は震える手でその小袋を掴むと、大事そうにシルクハットの裏側へと隠した。内気な少年の顔に、歪んだ安堵と、狂った深い「渇き」が混ざり合った。


『 ギャヒヒ!話が早くて助かるぜぇ、リシェル! さすがはイーストエンドの死神様だな!』

クロロ様が激しく首を振りながら、上機嫌に笑い声を上げた。

『よし…話そう。ハリソンはな、ただの課長じゃねえ。銀行の裏帳簿を管理している「隠し金庫の番人」だ。だから、少々のスキャンダルじゃあ銀行もあいつを切れない。警察の警部補ともズブズブだな。』


パペットの動きが止まると、それまで俯いていたテルールが、湿ったボソボソとした声で言葉を継いだ。

「……ハリソンは……独特の癖があるんだ。奴は、自分が支配した女性から奪った『私物』を、常に身につけて嗜む……クセ?……がある。」


クロロ様が再び喋る。

『つまり、警察が家宅捜索しても何も出なかったのは当たり前だな!あいつはそれを肌身離さず持ってるんだからなぁ!』


「だから……ハリソン……その…持ってるんじゃないですかね?被害者の私物を……。」

二人が同時に話し、一人が情報を補完する。それは二重人格のように不気味に魂が同居する。


リシェルはそれを聞き、満足げに爪を見つめ考え込む。

「警察が『証拠なし』で釈放した男が、被害者の遺品を持ってる……。これ以上の『確証』はないね。」


 テルールは帳簿を開いて話した。

「奴はその……甘いものが好きです……上司からもらうんでしょう……だから…よく…その…チョコ食べてます。…良かったらどうぞ……。」


リシェルはテルールから身体的特徴のメモとチョコを受け取り、ニィと口角を上げた。

「じゃあ捜査パートを、ヤっちゃおうか♡ 」


それを相変わらずの人間だと思う顔で見つめるテルールとクロロはリシェルにあるものを手渡した。

「そうだ……忘れてた…リシェルさん。例の衣装……ご注文通りクリーニングしておきましたよ。」


『感謝しろよ!衣類の注文はいいが。武器の手入れは専門じゃねぇんだ!毎度、面倒ごと頼みやがって!』


 それは、派手な装飾のシルクハットと、フリルのついたフォーマルベストとシャツにチョーカー。そして担ぐ程大きなトマホーク。


「ごめんだって。でも頼めるのここくらいしか無いんだよ!いつも、ありがとう。これお駄賃置いとくね。」

 チャリンと音を立て、金を置いてパン屋に帰って行く。

 店を出る後ろ姿を見つめる男の陰……。男はリシェルと反対の道に回り込んだ……。

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