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夕暮れ前、魔道具店の小窓から差し込む光は、棚の間を柔らかく縫うように広がっていた。
ルアは店の奥で、レンが預けた水鏡の状態を静かに見守っていた。
水鏡はまだ完全には応えていない。表面に揺れる波紋は小さく、光もちらほらと瞬く程度だ。
それでも、レンの心が少しずつ鏡に届き始めた証拠だった。
「レンくん、もう少しで心が鏡に届くと思う」
「……でも、どうして急に答えをくれなくなったんでしょう」
「人は、時々自分の心を隠すことがある。悲しみや不安、怖さを抱え込むと、精霊もそれを感じ取って動けなくなるんだ」
レンはうつむき、静かに頷いた。
その背中から、誰かに見守られているような安心感が漂う。
ルアは水鏡に手をかざし、精霊の内側にそっと意識を沈める。
(……君、本当は何を伝えたいんだい?)
水鏡の中で、弱々しい風のような声がかすかに響いた。
(……僕は、もう……隠したくない……でも、怖い……)
その声は、レンの感情そのものだった。
願いの奥にある恐怖、拒絶されるかもしれない不安――それが、精霊の動きを止めていた。
ルアは目を閉じ、深く呼吸する。
「怖いと思う気持ちは、否定しなくていい。精霊は、そのままの君を見たいだけだから」
水鏡の表面が、わずかに震えた。
光の輪が一度は途切れそうになったが、再び小さく灯る。
レンは勇気を振り絞って声を震わせる。
「……僕、ちゃんと勉強できないけど……家族に見てほしいんです。僕が努力していることも、失敗してしまうことも……全部、知ってほしいんです!」
その瞬間、水鏡は小さく震え、表面に光が広がった。
鏡の中で、まるで水面が波立つように、レンの家族の笑顔や日常の一瞬が映し出される。
「……見えた……!」
レンの目が潤む。
水鏡の精霊も、波紋を通して感情を返している。
ルアは優しく微笑む。
「まだ全部ではないけれど、君の本心が少しずつ伝わっている。精霊は、それを喜んでいるよ」
◆
しかし、ルアの意識は同時に別の場所にも向けられていた。
街の地下で、微かに揺れている“土の精霊”の気配。
先日、ギメルの工房で暴れた精霊の残響が、未だ深く沈み込んだまま、力を求めてうごめいている。
(……水鏡の精霊は安定してきた。だが、土の方はまだ警戒が必要だ)
ルアはレンに目を向ける。
「レンくん、今日はもう少しここで水鏡と向き合ってみよう。無理に答えを引き出す必要はない。君の心の動きに合わせて、少しずつ鏡も応えてくれる」
「……はい」
レンは深く頷き、水鏡を抱きしめた。
その手の温かさが、鏡に伝わるのか、波紋がゆっくりと広がる。
◆
そのとき、店の扉が再び鳴った。
「ルアさん、ちょっとお尋ねしたいことがあって」
声の主は、背の高い青年だった。
「いらっしゃい。どうぞ、店の中へ」
青年は一歩踏み入れ、周囲の魔道具を目に止める。
「……実は、ある魔道具に異変が起きていまして。何とか直してほしいのですが」
ルアはゆっくり頷き、青年の持ち物に目をやった。
――そこには、小さな木箱があった。
蓋を開けると、内部の水鏡とは違う、不思議な光を宿した古い魔道具が見える。
「……これは?」
「声を失った水鏡です。長い間、家族の願いを映してきましたが、最近、何も映さなくなったんです」
ルアは深く息をついた。
(……この街には、まだ多くの精霊が心の行き違いで苦しんでいる。水鏡も、土精霊も……)
青年は箱を差し出す。
「どうかお願いします。もう手に負えなくて……」
ルアはゆっくりと箱を受け取り、水鏡を手に取る。
「大丈夫。君の願いを、精霊に伝えればいい」
その瞬間、水鏡の表面がかすかに光を返した。
まるで、ルアの言葉を待っていたかのように。




