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ミナが学校へ入り別れたあとも、ルアは校庭の片隅でしばらく空気の流れを読んでいた。
風は穏やか。
空は澄んでいる。
外見上の変化は何もない。
だが――地面の奥で、別の“気配”がわずかに呼吸している。
(……急がないといけないな)
ルアは念のため、ミナのペンダントの状態をそっと遠隔で確かめる。
風精霊はまだ完全には戻っていないが、閉ざされていた殻の隙間から、細い風が漏れ始めていた。
感情の詰まりがほどけ、心が周囲へと開きつつある証拠だ。
「……よし」
ルアは店へ戻ることに決めた。
◆
魔道具店へ戻ると、棚に置いていたゴーレムがかすかに震えていた。
「……起きる前兆か」
ルアはゴーレムの横に手を添え、土の流れを読み取る。
やはり内部の精霊は、深い眠りから浮上する寸前にいた。
生命の火は弱いが、確かに息を吹き返しつつある。
「よかった。ミナちゃんの方も問題ない。あとは……」
――地の底から聞こえてきた“叫び”。
あれが気がかりだった。
その直後、店の扉が荒々しく叩かれた。
「ル、ルアさん! いらっしゃいますか!」
慌てた声が響く。
扉を開くと、そこには市場の陶芸職人である中年の男――ギメルが、顔を真っ青にして立っていた。
「どうしたんです? ギメルさん」
「た、助けてくれ……! うちの窯が、急に暴れ始めたんだ……!」
「窯が?」
ギメルは必死に言葉を重ねた。
「火を使ってるわけでもないのに、勝手に石が崩れて……!
中に入れていた土も全部落ちて、まるで何かが暴れてるみたいで……!」
(……来た)
ルアは静かに目を細めた。
さっき感じた“地の呼び声”。
その震源が、ついに表面へ噴き出したのだ。
「案内してください。すぐに行きます」
◆
ギメルの工房は、街の外れにある。
大きな窯が備えられた古い建物で、奥の作業場に入ると、空気は重苦しく土の匂いに満ちていた。
――ごごごごご……
低い振動音が、床下から響く。
窯の内部では、誰も火を入れていないはずなのに、赤くもない土が泡のように脈動していた。
「まるで……怒ってるみたいだ……! 土が……何でこんな……」
ギメルは震えていた。
「ギメルさん。最近、何か“願い事”をしましたか?」
「願い……? いや、そんな――」
そう言いかけたところで、ギメルの表情が強張った。
「……あ」
「思い当たることがありますね?」
「……女房が、病気で……。どんな薬を使っても良くならなくて……
昨日の夜、酒に酔ったとき……“あの人の病が治るなら、俺の仕事なんてどうなってもいい”って……窯に向かって言った……」
その言葉を聞いた瞬間、ルアの胸がざわりと揺れた。
(……強すぎる“願い”は、土精霊にとって呪いと同じだ)
土の精霊は、守ることに誇りを抱く。
だからこそ、強い願いを受けると、叶えようと無理をしてしまう。
だが――。
「ギメルさん、その願いは……精霊には重すぎる」
「重すぎる?」
「“自分の仕事はどうなってもいい”――その言葉が、精霊には“土を壊してもいい”と聞こえてしまうことがあるんです」
ギメルは息を呑む。
「じゃあ、この暴れ方は……!」
「あなたの願いを叶えようとして、土の精霊が無茶をしているんです」
窯全体がごう、と揺れる。
内部の土が波打つように隆起し、ひび割れがさらに広がった。
「ル、ルアさん……どうすれば……!」
「僕が、一度土の声を“鎮め”ます」
ルアは窯の前に膝をつき、目を閉じた。
手のひらを土に触れると、深い、深い底へと意識が沈んでいく。
◆
暗い地の底は、叫びで満ちていた。
――守りたい。
――守りたい。
――病を治したい。
――けれど壊さなければ届かない。
――もっと力を。もっと。もっと……。
(……無茶しすぎだよ)
ルアは心の声で語りかけた。
(願いを叶えるために、自分の身体を壊す必要なんてない)
精霊の声は荒れ狂った土埃のように渦巻く。
――壊さなければ守れない。
――願いを叶えられない。
――叶えられないなら、僕は存在する意味がない。
(違う。精霊は“結果”で価値を決めたりしない)
ルアは土に深く手を押し当て、静かな力を流し込んだ。
(君は、ギメルさんの願いのすべてを背負い込んでしまった。でもね、人間の願いはね……本当はとても不器用なんだ)
荒れ狂う土が、わずかに揺れを弱める。
(“治ってほしい”という気持ちと、“どうでもいい”という言葉は、同じ願いの形をしていない。君は後の方だけを受け取ってしまったんだ)
――どうすれば……。
(簡単だよ。全部を背負わなくていい。願いの形は、ギメルさん自身に任せればいい)
ルアは最後にそっと語りかけた。
(君はもう十分頑張った。少し、眠りなさい)
その瞬間、荒れ狂う土の波がふっと静まった。
◆
窯の内部の揺れが止まり、工房はようやく静寂を取り戻した。
ギメルは跪き、両手で顔を覆った。
「……俺が、こんな……女房を助けたい気持ちに、嘘はなかった。でも……仕事なんてどうでもいいは、嘘だった……。こんなふうになって初めて気づくなんて……」
「気持ちは分かります。誰だって、弱る時はある」
ルアは静かに窯のひびを撫でた。
「でも、精霊は人よりずっと素直です。言葉をそのまま受け取る。だからこそ……本音を伝えることが大事なんです」
ギメルは震える声で呟いた。
「……ありがとう、ルアさん。本当に……ありがとう……」
◆
工房を出て、戻る道すがら、ルアはふと空を見上げた。
ミナのペンダントは、もう心配いらないだろう。
友達との絆が、風精霊の殻を開いた。
だが――。
(……今日はまだ終わらない気がするな)
空気は穏やかに見えるのに、どこか深く沈んだ揺らぎがある。
それは、まるで誰かの心が遠くで泣いているような気配。
精霊たちの囁きは、いつもよりざわついていた。
「やれやれ……静かな日々は、もう少し先のようだ」
ルアはため息をつきながら歩き出した。
その背に、風のペンダントが遠くからかすかに鳴った。
――物語の幕は、ゆっくりと次の章へと進んでいく。




