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翌朝、路地の空気はひんやりとしていた。
夜露が石畳に淡く残り、店の前に伸びる細い影は、朝の静けさをそのまま映している。
ルアは店先の木戸を開け、外の澄んだ空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
その瞬間、指先に小さなざわめきが触れる。
(……風が落ち着かない)
昨日のミナと、そのペンダントに宿る風精霊。
表向きには回復したように見えたが、不安の震えが残っていた。
まるで、ミナの心の揺れをそのまま映しているように――。
「……様子を見に行った方が、いいかもしれないな」
そう呟きながら店の中に戻った矢先。
――コン、コン。
控えめに戸を叩く音。
ルアが振り返ると、扉の向こうにはあわてた様子のミナが立っていた。
昨日よりも顔色が良くない。
小さな肩は強張り、胸元のペンダントを握る手は赤くなるほど力がこもっている。
「ル、ルアさん……! たいへん、なの……!」
「ミナちゃん、どうしたの?」
「これ……! また……!」
ミナが手を開くと、昨日は輝きを取り戻したはずのペンダントが――今日は冷たく沈黙していた。
表面は薄く曇り、風精霊の気配はほとんど感じられない。
まるで再び心を閉ざしてしまったかのように。
◆
ルアはミナを店の中へ入れ、椅子に座らせると、ペンダントをそっと手に取る。
「……昨日より、深いところへ閉じこもってるな。ミナちゃん、何かあった?」
「……えっと……」
ミナはぎゅっと唇を噛む。
昨日の少女の優しい風とは違い、今日は心の奥に暗い影が落ちている。
「……友だちと……仲直りできなかったの……」
「うん」
「ちゃんと謝ったの。でも……“行きたくないなら、そう言えばいいのに”って言われて……。その子、怒ってて……」
声は小さく震えていた。
「わたし……それ以上話すのが怖くて……泣いちゃって……。そしたら、これがまた冷たくなって……!」
ミナは涙をこらえて顔を上げる。
「ルアさん……! どうしよう……! 精霊さんが……わたしのこと嫌いになっちゃったのかな……!」
その問いは、ミナがずっと胸に抱えていた恐怖そのものだった。
ルアは静かに首を振る。
「嫌いになったわけじゃないよ。ただ、ミナちゃんの気持ちが“本当のところ”まで届いていないだけ」
「……本当の、ところ?」
「うん。ミナちゃんが“怖い”って思っているのは謝ることじゃない。“嫌われること”が怖いんだろう?」
ミナはびくりと肩を揺らし、ゆっくり頷いた。
「……うん……」
「精霊はね、人の表面の言葉じゃなくて、心の奥を感じ取る。だからミナちゃんが心の奥で“怖いよ”って泣いていると、精霊もそばで泣きたくなるんだ」
ミナの目が丸くなる。
「……じゃあ、どうすれば……?」
「ミナちゃんが、“嫌われるかもしれない”って気持ちも含めて、そのまま友だちに伝えることだよ」
「……そんなこと言ったら、もっと嫌われちゃう……!」
「そう思うよね。でも、嘘でごまかすより、心の奥を伝えた方が……友だちにもきっと伝わるだろうし、精霊も安心するよ」
ミナは涙を浮かべたままペンダントを握りしめる。
「……怖いよ……でも……伝えたい……」
「その気持ちがあれば、きっと大丈夫」
ルアはペンダントに宿るかすかな気配へ意識を向ける。
(……聞こえるかい? ミナちゃんは、逃げてるんじゃない。勇気を出そうとしてるんだ)
微かな風の震え。
閉ざされた翅が、ゆっくりと内側で震えている。
(君はただ、見守っていればいい。ミナちゃんが本当の気持ちを言えたら……きっと、また風が吹くから)
精霊の気配は返事こそ弱かったが、確かに動いた。
ルアは目を開ける。
「……ミナちゃん。今日、学校は?」
「……午後から……」
「じゃあ、それまでここで少し落ち着こう。精霊もミナちゃんも、ゆっくりでいいから」
ミナは胸に抱えたペンダントを見つめ、こくりと頷いた。
◆
そのときだった。
――カラン……。
揺れるはずのない鈴が、勝手に鳴った。
無風の店内。
扉は閉じている。
ルアはゆっくりと顔を上げる。
ミナも驚いたように周囲を見回した。
「ルアさん……いまの、風?」
「風じゃない。……精霊の気配だ」
ルアの声が低くなる。
店の奥――昨日、眠らせたはずの土のゴーレム。
そこから淡い砂の匂いがした。
ルアが歩み寄り、そっとゴーレムのそばに膝をつく。
ひび割れた身体の隙間から、淡い光がこぼれていた。
ほんの小さな、生まれたての火のような光。
(……目覚めた?)
昨日、眠りについたばかりの土精霊が、もう動き始めている。
本来なら半日は深く眠るはずだ。
ルアは眉を寄せた。
(……おかしい。なにか、土の側で強い感情が動いた?)
ミナが不安げに近づく。
「ルアさん……ゴーレムさん、どうしたの……?」
「少し……早く目が覚めただけ。けれど――」
ルアの言葉はそこで止まる。
ゴーレムの身体に宿った光が、ふっと揺らいだ。
まるで誰かに呼ばれたかのように。
遠くから、強い感情が精霊を引き寄せているような……そんな気配。
(……誰かが、精霊を求めている? それも、普通じゃない強さで)
それは昨日の青年でも、ミナでもない。
まったく別の、もっと深い叫び。
ルアは小さく息を飲んだ。
(……この街の“どこか”が、揺れている)
◆
「ルアさん……?」
ミナの声が震える。
ルアはすぐに微笑んで見せた。
「大丈夫。ミナちゃんのペンダントのこと、まずはそっちを優先しよう。精霊を安定させるには、ミナちゃんが一番落ち着くことだよ」
「……うん……」
ミナはまだ不安そうだったが、ペンダントを胸に抱え直した。
ルアは店の奥――光を宿し始めたゴーレムをじっと見つめる。
街の空気が静かにうねっている。
風が、土が、どこかで泣いている。
そして――その中心にある“誰かの強い願い”が、ルアの安穏とした日々を、少しずつ揺らし始めていた。




