1
風が止まった。
店に吊られた鈴が、少女の声に応じるかのように微かに震えたまま沈黙する。
銀色の髪を持つ少女は、店先に立ちながら、一歩も動かない。
その瞳は静かで、しかし揺るぎない意志を秘めていた。
まるで――ずっと前からルアだけを探していたように。
ゴーレムが戸惑いの声を漏らす。
「……い、今……精霊王、と……」
少女はゆっくりとルアへ歩み寄る。
足音は軽い。だが、その存在は空気よりも重かった。
「あなたを探していました。……ずっと、ずっと前から」
ルアは穏やかな笑みを浮かべたが、その奥には緊張が走っていた。
「……名前を聞いても?」
「――ミレイア。
“境界の精霊”です」
ゴーレムが驚愕する。
「境界……!? そんな存在……とっくに――」
「消えた、か。そう思われていることは知っています」
ミレイアの声は淡々としていたが、どこか哀しみが滲んでいた。
「でも私は消えていません。消えない理由がありました。
――あなたを、迎えに来るためです」
ルアは微かに目を伏せた。
「僕はもう、“精霊王”ではないよ。
ただの、人間界で魔道具を修理する店主だ」
「……いいえ。世界はあなたを忘れていません。
精霊たちも、人も。
本当は――あなたの帰りを待っています」
静寂が落ちる。
店の奥の水鏡が震え、棚にいる火の精霊が小さく火花を散らした。
ミレイアはゆっくり視線を落とし、店に並ぶ魔道具を見つめる。
「……ですが、あなたが《戻らない》なら、世界は変わり始めるでしょう。精霊たちは、自分の居場所を見失い始めている」
「居場所……?」
「はい。精霊は“願い”と“契り”によって存在しています。しかし今、人々の願いは迷い、歪み、途切れ始めています。あなたが感じている揺らぎは――その前兆です」
その言葉に、ルアの胸がざわめいた。
(……やはり、あの震えは偶然じゃなかった)
◆
ミレイアは柔らかく息を吸い込み、静かに続けた。
「わたしは――あなたに頼みたいことがあります」
「頼み?」
「はい。
“灯し火の導き手”――火の精霊のランタンを修復してください。
今夜が限界です」
ルアは眉をひそめた。
「ランタン……?」
「街の北、小道を抜けた先の古い家にあります。
持ち主は少女――夜に迷う心を持つ子です」
ゴーレムが不安げにルアを見る。
「……迷う心……?」
「おそらく、感情の暴走。
“怒り”か、“孤独”……もしくは――」
ミレイアは静かに言った。
「――“助けて、と言えない泣き声”」
ルアは息を飲む。
(……それは、精霊が最も反応する感情だ)
精霊は涙に弱い。
特に――抑え込まれた涙に。
ミレイアは続ける。
「そのランタンの火は、持ち主の心の揺れに引きずられ、今――暴れようとしています。
止められるのは、世界でただ一人――」
彼女はルアに手を伸ばした。
「――精霊王。あなたしかいません」
しばらく沈黙があった。
ルアは視線を落とし、少し寂しげな笑みを浮かべた。
「僕は王になるためにここに来たんじゃない。
ただ、人の声を聞きたかった。精霊の涙に寄り添いたかった。
あの日を忘れるためでも――その続きを望むためでもなく。……逃げたんだよ。王座から」
ミレイアはゆっくり首を横に振る。
「いいえ。あなたは“逃げた”のではありません。
――選んだのです。
精霊も、人も見捨てず、どちらにも背を向けなかった」
その声は柔らかく、しかし揺るぎなかった。
「だからこそ――今、あなたが必要なんです」
ルアはしばらく考え、やがて静かに頷いた。
「……分かったよ。案内してくれる?」
ミレイアの表情が初めて、ほんの少しだけ和らぐ。
「はい。
今夜――火が暴走する前に」
ルアはマントを羽織り、小さな道具袋を腰に結び、店の灯りをひとつ消した。
精霊たちが息を飲むように、静けさが満ちる。
「行こう。
迷子の心を迎えに」
ミレイアは一歩先を歩き、夜の街へと進む。
その背中を追いながら、ルアは思う。
(――奇跡は、“壊れた魔道具”ではなく、“壊れそうな心”から始まる)
そして、路地裏を抜けた先の夜の街に、ランタンの火が――揺らめいた。




