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石板に宿る土精霊の光が落ち着くと、店の空気がゆっくりと緩んでいった。
精霊はもう怒っていない。
傷ついてもいない。
ただ長い年月分の言葉を受け取り、静かに休息を求めているようだった。
ローレンは震える手で石板を抱きしめ、深く頭を下げた。
「ありがとう……精霊よ。長い間、我が家を見守ってくれて……」
その声は、崩れ落ちるような弱さではなく、祈りにも似た静かな敬意だった。
ゴーレムがゆっくりと歩み寄り、老人の袖を小さく引いた。
「……あなた……泣いているのか」
ローレンは涙を拭いながら、微笑む。
「……ああ。だが、悲しみの涙ではない」
ゴーレムは小さく、こてりと身体を傾けた。
「……なら、よかった」
ルアはそっと二人(ひとりと一体)を見守りながら、机に置いていた契約用の小道具を手に取る。
古いものと新しいものを繋ぐための儀式――**継承契り(けいしょうのちぎり)**だ。
「ローレンさん。あなたの願いが終わった今、次に決めるべきことがあります」
「……次?」
「精霊を眠らせるのか、それとも――新たな契約者へ引き継ぐのか」
ローレンは驚いたように目を見開いた。
「この子は……まだ、役目を果たせるのか?」
ルアは微笑んだ。
「ええ。むしろ、今だからこそ。
精霊は“役割”ではなく“願い”で動きます。
守りたい相手がいる限り、役目は終わりません」
ローレンはゆっくりと視線を落とし、考えるように目を細めた。
「……ならば……孫に……」
「ローレンさん……確認ですが、あなたのお孫さんはリメルという名では?」
「そうだが……孫を、リメルを知っているのか?」
リメル……その名前に、ゴーレムの目の光がふるりと震えた。
「……リメル?」
「ローレンさん、このゴーレムの契約者はあなたの息子さんで、リメルさんがここに預けに来たんですよ。ゴーレムに謝りたいと。」
「ああ。リメルらしい……あの子は優しい。少し不器用で、時に自分を責めるが……心はまっすぐだ」
ゴーレムは静かに拳を握る。
「……守りたい。今度こそ……リメルを」
その瞬間、ゴーレムの胸の契約紋が淡く輝き始めた。
精霊自らが、次の契約者を選んだ証だった。
ルアは頷き、契約道具を広げる。
「では……始めよう。
これは精霊と人を結ぶ、新たな誓いだ」
◆
静かな儀式は、炎や呪文とは無縁だった。
必要なのは――指先に刻む簡素な印と、たったひとつの言葉。
「――繋ぐ(つなぐ)」
ローレンとゴーレムが同時にその言葉を口にした瞬間、淡い光がふわりと舞い上がった。
光はゆっくりと老人から離れ、遠くにいるリメルへ向かうように、路地の風へ溶けていった。
まるで――**「ちゃんと、見守ってるよ」**と伝えるように。
ローレンの瞳に宿る涙は、もう震えていなかった。
「……これでいい。ようやく、胸が軽くなった」
ルアは微笑み、小さく頷いた。
「あなたの願いは届きました。精霊も、もう恨んでいません」
「……ありがとう、ルア殿。本当に……」
老人は深く礼をし、静かに店を後にした。
去り際の足取りはゆっくりだが――迷いは消えていた。
◆
扉が閉まると、店内は再び静けさを取り戻した。
ゴーレムはしばらく扉を見つめ、そしてぽつりと呟いた。
「……人は、不思議だ」
「そうだね」
「嘘をつき、間違え、傷つき……それでも、願いを持ち続ける」
ルアは少し考えて、答えた。
「精霊は正しいことを求める。
でも人は――“正しいより、後悔しない答え”を求める」
ゴーレムはゆっくり頷いた。
「……なら、私は……守ろう。リメルとその願いを」
「うん。それが君らしい」
ゴーレムはルアの言葉に小さく胸を張った。
◆
その瞬間――。
――カラン。
あの、風のない店内では鳴らないはずの鈴が響いた。
ルアの表情が、わずかに変わる。
(……またか。いや――これは違う)
開いた扉の向こうに立っていた人物を見て、ゴーレムも息を飲んだ。
そこに立っていたのは――
少女。
しかし、ただの少女ではない。
淡い銀色の髪。
透き通る瞳。
その身体から、精霊と同じ気配が漏れ出している。
少女はルアを真っ直ぐに見つめ、静かに口を開いた。
「――やっと見つけた。
精霊王ルア」
店内の精霊たちが、一斉に震えた。
世界が、静かに動き出した気配がした。




