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石板に触れる指先が震えていた。
老人、ローレンは深く息を吸い、ゆっくりと目を閉じる。
店内の空気は水面のように静まり返り、棚の精霊たちでさえ、息を潜めているようだった。
石板の紋様が淡く光り始め、土の中を通じて伝わる鼓動が店全体へ響いてゆく。
(……来る)
ルアが静かに目を閉じた瞬間――。
――低く、古い声が響いた。
『……だれだ……呼んだのは……』
ルアではない。
水鏡でも、ゴーレムでもない。
石板に宿る古い土精霊が目覚めたのだ。
ローレンは震える声で答えた。
「……わしだよ。ローレンだ」
石板の光が揺れ、まるで驚きが滲む。
『……まだ、生きていたのか……人間』
「生きて……しまった。お前に言いたいことがあってな……」
『……人間の言葉など、聞く必要はない。かつて約束したことすら、忘れたのだろう』
その声には怒りではなく――深い失望があった。
ローレンの肩が大きく震える。
「忘れてなどおらん……! だから来たのだ……!」
老人の声は懺悔にも似ていた。
ルアは静かに手を伸ばし、両者の気配を繋ぐように意識を沈める。
「落ち着いてください。どちらの思いも、まだ届ききっていないだけです」
石板の精霊がルアに気づいた。
『……お前は……ただの術師ではないな』
ルアの瞳がわずかに揺れる。
「……そうかもしれません。でも今は、ただの店主として来ています」
土精霊は、それ以上問わなかった。
それほどまでに、今の心のやり取りが重要だった。
◆
ローレンはじっと石板を見つめる。
長い時間を胸に抱えてきた思いが、今にもあふれそうだった。
「……あの日、お前は言ったな。
『庭と家族を守る』と」
『ああ。お前は言った。“代々、わしを受け継ぎ守っていく”と』
「その約束を……わしは守れなかった」
精霊の気配がぴたりと止まる。
『……どういう意味だ』
「わしは……息子に伝えなかった。
この石板の存在も、契約の意味も……すべてを」
ルアは小さく息を飲んだ。
(……これは、“継承の断絶”)
精霊と人間の契りが切れること――
本来、最も避けるべき事態。
『……なぜだ。人間』
「怖かったのだよ……!」
老人の声が震え、拳が白く握り締められる。
「息子は……精霊と関わるだけの力を持っていた。
才能も、心もあった。
だが――」
ローレンの目に、深い後悔が滲んだ。
「息子は、幼い頃病を患い……
わしは怖くなった。
精霊と繋がることが、息子を引き込むのではないかと……!」
石板の精霊は沈黙したまま、ただ光だけが揺れている。
「だからわしは……“息子に継がせない”という決断をした。
代わりに、この石板を封印し、忘れようとした」
声は呟きのようであり、叫びのようでもあった。
「だが……息子は亡くなった。
わしより先に、弱い身体で生きてきたのに……!」
その言葉と同時に、石板の光が一度だけ強く脈動した。
『……人間』
声は、さきほどまでの冷たさが消えていた。
『お前は……約束を破った。
だが……その理由は……』
「……すまなかった」
老人は深々と頭を下げた。
「守りたかったのだ。
精霊ではない――息子の命を」
『……愚かだな。人間というものは』
そう言いながらも、声の震えには、どこか懐かしさが宿っていた。
「それでも、伝えたかった。
長い間……ありがとうと」
その言葉が落ちた瞬間――。
石板から柔らかな光がふわりと広がった。
店全体を包み込む温かな波。
それは怒りでも悲しみでもない。
ただ――長く閉じ込められていた想いがほどけていく音だった。
『……受け取った』
土精霊の声は、穏やかで誇らしかった。
『わしは、お前の家族を誇りに思う。
そして――最後の願いを聞き届けよう』
ローレンの瞳から涙が落ちた。
「願い……?」
『お前が求めている言葉は一つだろう』
そして、精霊は静かに告げた。
『――許す』
老人は崩れ落ちるように座り込み、震える声で泣いた。
その涙は、後悔ではなく――救済の涙だった。
◆
ルアは静かに息を吐き、石板から手を離す。
精霊の気配は穏やかで、まるで眠る子どものようだった。
(……終わった。けれど――)
ルアの胸には、別の感覚が刺さっていた。
精霊の声が届いた瞬間――
街のどこかで別の力が震えた。
それは怒りでも悲しみでもない。
――呼び声。
――探す声。
――この世界のどこかで、ルア自身を求める精霊の声だ。
ルアは小さく目を伏せた。
「……まだ静かな日々は戻らないみたいだね」




