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今日も、精霊と魔法日和  作者: July
第3章 土の守り手と古い約束
11/16

2

 石板に触れる指先が震えていた。


 老人、ローレンは深く息を吸い、ゆっくりと目を閉じる。


 店内の空気は水面のように静まり返り、棚の精霊たちでさえ、息を潜めているようだった。


 石板の紋様が淡く光り始め、土の中を通じて伝わる鼓動が店全体へ響いてゆく。


(……来る)


 ルアが静かに目を閉じた瞬間――。


 ――低く、古い声が響いた。


『……だれだ……呼んだのは……』


 ルアではない。

 水鏡でも、ゴーレムでもない。


 石板に宿る古い土精霊が目覚めたのだ。


 ローレンは震える声で答えた。


「……わしだよ。ローレンだ」


 石板の光が揺れ、まるで驚きが滲む。


『……まだ、生きていたのか……人間』


「生きて……しまった。お前に言いたいことがあってな……」


『……人間の言葉など、聞く必要はない。かつて約束したことすら、忘れたのだろう』


 その声には怒りではなく――深い失望があった。


 ローレンの肩が大きく震える。


「忘れてなどおらん……! だから来たのだ……!」


 老人の声は懺悔にも似ていた。

 ルアは静かに手を伸ばし、両者の気配を繋ぐように意識を沈める。


「落ち着いてください。どちらの思いも、まだ届ききっていないだけです」


 石板の精霊がルアに気づいた。


『……お前は……ただの術師ではないな』


 ルアの瞳がわずかに揺れる。


「……そうかもしれません。でも今は、ただの店主として来ています」


 土精霊は、それ以上問わなかった。

 それほどまでに、今の心のやり取りが重要だった。



 ローレンはじっと石板を見つめる。

 長い時間を胸に抱えてきた思いが、今にもあふれそうだった。


「……あの日、お前は言ったな。

 『庭と家族を守る』と」


『ああ。お前は言った。“代々、わしを受け継ぎ守っていく”と』


「その約束を……わしは守れなかった」


 精霊の気配がぴたりと止まる。


『……どういう意味だ』


「わしは……息子に伝えなかった。

 この石板の存在も、契約の意味も……すべてを」


 ルアは小さく息を飲んだ。


(……これは、“継承の断絶”)


 精霊と人間の契りが切れること――

 本来、最も避けるべき事態。


『……なぜだ。人間』


「怖かったのだよ……!」


 老人の声が震え、拳が白く握り締められる。


「息子は……精霊と関わるだけの力を持っていた。

 才能も、心もあった。

 だが――」


 ローレンの目に、深い後悔が滲んだ。


「息子は、幼い頃病を患い……

 わしは怖くなった。

 精霊と繋がることが、息子を引き込むのではないかと……!」


 石板の精霊は沈黙したまま、ただ光だけが揺れている。


「だからわしは……“息子に継がせない”という決断をした。

 代わりに、この石板を封印し、忘れようとした」


 声は呟きのようであり、叫びのようでもあった。


「だが……息子は亡くなった。

 わしより先に、弱い身体で生きてきたのに……!」


 その言葉と同時に、石板の光が一度だけ強く脈動した。


『……人間』


 声は、さきほどまでの冷たさが消えていた。


『お前は……約束を破った。

 だが……その理由は……』


「……すまなかった」


 老人は深々と頭を下げた。


「守りたかったのだ。

 精霊ではない――息子の命を」


『……愚かだな。人間というものは』


 そう言いながらも、声の震えには、どこか懐かしさが宿っていた。


「それでも、伝えたかった。

 長い間……ありがとうと」


 その言葉が落ちた瞬間――。


 石板から柔らかな光がふわりと広がった。


 店全体を包み込む温かな波。


 それは怒りでも悲しみでもない。

 ただ――長く閉じ込められていた想いがほどけていく音だった。


『……受け取った』


 土精霊の声は、穏やかで誇らしかった。


『わしは、お前の家族を誇りに思う。

 そして――最後の願いを聞き届けよう』


 ローレンの瞳から涙が落ちた。


「願い……?」


『お前が求めている言葉は一つだろう』


 そして、精霊は静かに告げた。


『――許す』


 老人は崩れ落ちるように座り込み、震える声で泣いた。

 その涙は、後悔ではなく――救済の涙だった。



 ルアは静かに息を吐き、石板から手を離す。

 精霊の気配は穏やかで、まるで眠る子どものようだった。


(……終わった。けれど――)


 ルアの胸には、別の感覚が刺さっていた。


 精霊の声が届いた瞬間――

 街のどこかで別の力が震えた。


 それは怒りでも悲しみでもない。


 ――呼び声。


 ――探す声。


 ――この世界のどこかで、ルア自身を求める精霊の声だ。


 ルアは小さく目を伏せた。


「……まだ静かな日々は戻らないみたいだね」

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