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最悪の一途 〜悪女と悪竜と女帝の一方通行三角関係〜

作者: Nejime Kirimori

 女王マユは「世界でいちばん悪い赤き女王」。

 あの真っ赤な瞳に見つかれば、女王マユの口紅の赤色に変えられてしまう。だから、赤き女王マユの国には決して近づいてはいけないよ。


 女王マユの家来は「世界でいちばん強くて恐ろしい悪竜」。

 悪竜と目が合えば、自分のお国を滅ぼされてしまう。だから、決して悪竜を見つけてはいけないよ。


 ◇◇◇


 神聖アーリマン王国のマユ女王は(よわい)十四にして、四十以上年上(としうえ)だった夫アーリマン国王を殺し、王位に就いた。

 その後、マユ女王はたった十年ぽっちでこの大陸の東半分の国々を「悪竜」を以て滅ぼし、完全に支配してみせる。

 故に、マユ女王は「大陸史上最悪の悪女」と大陸全土にその悪名を広く深く刻み、大陸西部の残った諸国では歌にされるほどに永く恐れられた。

 

 ◇◇◇

 

 私は、神聖アーリマン王国に他国から献上された、奴隷の子供。

 蛙の子は蛙であるように、奴隷の子も奴隷。だから私も、生まれながらの奴隷だった。

 マユ女王は奴隷の消費が途轍もなく速く、激しかった。

 マユ女王の好きな色は自分の髪や瞳と同じ色の、赤色。「赤き女王」と呼ばれる所以だ。

 マユ女王は赤色をたくさん見たいからと、奴隷一万人を野に放ち、その奴隷一万人が「なるべく派手に血を撒き散らすように殺し尽くせ」——そう、家来の悪竜に笑いながら命じたらしい。


 そういうことで、私も、その奴隷一万人の中にいる。


 野に放たれてから、もう一日は経ったんじゃなかろうか。野原は、マユ女王が望んだとおり血の色で真っ赤に染まっている。どこからともなく、女の美しい高笑いの声が聞こえる気がした。

 昼間はあちこちからひっきりなしに聞こえていた、奴隷の皆の悲鳴はもう聞こえない。皆、悪竜に食い尽くされてしまったのか。それとも、夜になってしまったからか。


 私は、いつか腹が空きすぎて堪らなくなった時に食べようと肌身離さず隠して持ち歩いていた、熟すどころか腐りつつある林檎をひとつ胸に抱いて、野原の血だまりの中でいつの間にか眠っていた。

 どろりと、ぬめった血の海の中から身体を起こして、辺りを見回す。満月の銀光に照らされて、肉塊となった奴隷たちが赤の中から真っ白に浮かび上がる。私のすぐ隣には、私の何倍も大きい奴隷の大男が身体を奇麗に真っ二つにされて、血の中に沈んでいた。


 私は、生き残ったのだろうか。生き残っても、良かったのだろうか。


「……生きてるのか、死んでるのかも……わからない」


 未だに生きている心地がしなくて、私は喉を震わせて独り言ちる。

 昼間は奴隷たちの波に押し流されて、その波に踏み殺されないようにひたすら無我夢中に走っていたけれど。

 そういえば私は、まだ「悪竜」を見たことがない。世界でいちばんの悪女、マユ女王は遠目で見たことがあるが。


「悪竜……見てみたい、な」


 唐突にそんな衝動に駆られて、私は林檎を抱えたまま血の海から立ち上がった。

 悪竜に見つかれば、死んでしまうのは必然。それでも私は何故か、冒険に旅立つような熱情が胸を躍らせ、ようやく生きている実感が湧いてくるのだった。


 こんな気持ち、生まれて初めてだ!


 だって、世界でいちばん悪かろうと、この近くに「竜」がいるのだ。「竜」なんて伝説上の生き物、会ってみたいに決まっている。

 私は、見渡す限りの血の海を、ひたすら歩いて悪竜を捜し回った。悪竜を呼び寄せるように、歌をうたってみたりもした。


「女王マユの家来は『世界でいちばん強くて恐ろしい悪竜』。悪竜と目が合えば、自分のお国を滅ぼされてしまう。だから、決して悪竜を見つけてはいけな——あ」


 ふと、たくさんの奴隷の死体が見上げるほど山積みになっているところに、黒づくめの男が一人、死体の山に背を預けながら片膝を立てて座り込み、目を閉じている姿を見つけた。

 私は死体の山に駆け寄って、男をじっと観察する。一目見てわかった。この黒い男は死体ではない。死にかけてはいるが、確かに生きている者なのだと。


「……」


 男は、ずいぶんと憔悴しきっているようだった。肩辺りまで伸びきったぼさぼさの艶のない黒髪に、蒼白い頬は痩せこけ、濃い隈に縁どられた目は落ち窪んでいる。

 その腹からは、ぎゅるるるると、腹の虫が悲痛な声を上げていた。どうやらずいぶんと腹が減っているらしい。

 私は腕に抱いている林檎をちらりと見た後、黒い男に声を掛けた。


「お前、だいじょうぶ? 腹、減ってるんだろう」

「……」

「私の林檎、あげるよ。ほら」


 私は男の瘦せこけたほっぺたに、林檎をぐいぐいと押し付けた。すると、死んだように身じろぎすらしなかった男がようやく、眉間に皺を寄せながら気だるげにゆるゆると瞼を持ち上げて、私を見た。


「……」


 男は喉も乾ききって声が出せないのか、私を睨みながら口を薄く開閉させる。

 私は「しかたないな」と零しながら、手に持つ林檎を大きくかじってよく咀嚼すると、そのまま男に口づけた。


「! ……ん……は……」


 男の驚愕したような吐息が漏れるのも構わず、私は男の顎を片手で掴むと、その口内へ、嚙み砕いてやった甘酸っぱい林檎の柔い果肉と果汁を注ぎ込む。やっぱり、林檎は腐ってからが美味しいなと痛感しながら。


「……ん、あにしやがる……クソガキ!」

「ん。喋れるようになったか。ほら、林檎。食べな」


 喉が潤って声を出せるようになったのだろう男に、私は齧りかけの林檎を持たせた。

 男は持たされた林檎と私へ交互に視線を何度もやりながら、困惑も混じったような、しかし警戒するような声で低く唸る。


「……てめぇ、俺が誰だかわかってて、こんなふざけたことやってんのか……?」

「そんなの知らない。だけど、私は悪竜を捜してるんだ。なあお前、悪竜を見なかったか? 口が利けるようになったんだ、何でもいいから教えてよ」

「……」


 男は何故か呆れたように深いため息を吐いて「最悪なもん思い出した……」と、片手で目を覆うように頭を抱える。私はそんな男に首を傾げながらも、「悪竜、見てないか? 私、どうしても悪竜を見つけて、会ってみたいんだ」と再び問う。

 男は目を覆っている指の隙間からわたしを覗き見しながら、低い声で逆に私へと問い返してきた。


「悪竜……それにどうしても会ってみたいなんざ、てめぇの気が知れねぇ。んなもん、見つけちまっていいのか? さっきてめぇ、歌ってただろうが。悪竜を見つけると、てめぇの国が滅ぼされるんだぞ。くわえて、てめぇもぶち殺される」

「いいんだ。悪竜を見つけて逢えるなら、死んでも。今の私の楽しみは——生まれて初めて、ようやく見つけることができた楽しみは、それだけだから。それに」


 私は胸を張って、片方の口の端を釣り上げて笑って見せる。

 たぶん、悪戯するときって、こんな気持ちになれるのか。悪くない。


「私、国持ってないし。悪竜を見つけても何も奪われない! もし、国を持っていたとしても。私は私の国を悪竜に滅ぼさせはしないよ。なんか、自信がある!」


 私の自信満々な宣言に、男は大きく目を瞠って、何か幽霊でも見たかのような顔をしてしばらく私を見つめていた。でも、男は一度目を伏せると「ふ」と吐息と共に小さな笑いを零して、私の林檎を懐にしまいながら立ち上がった。首が痛くなるほどに見上げないといけないくらい、大きな男だった。


「……てめぇ、名は?」


 男が私を見下ろして、静かに問うてくる。私は胸を張って答えた。


「ナヒトア! 自分でつけた名前だ」

「ナヒトア……太古の創世神話に出てくる巨神の名か。たいそうな名を名乗りやがって、生意気な」

「いい名だろう。あと、マユ女王が嫌いな女神の名前でもあるからな! それにもあやかった」

「まったくもってあやかってはいねぇだろ。怖いもの知らずかてめぇは……」

「それで、お前の名は? 私が名乗ったんだ、お前も教えてよ。名前」


 私がそう尋ねると、男は神妙な顔をして一つ間をおき、静かな低音で名乗った。


「……イエルク」

「あれ。それって、確か……」


 悪竜の名前じゃ。


 そう呟こうとした瞬間、凄まじい突風が巻き起こって、私は咄嗟に両腕で顔を覆う。

 風が弱くなって、ふと顔を上げると、目の前にいたはずの男が——蛇のように長い身体をうねらせる、狼の顔と山羊のような長い角と耳を持った巨大な黒竜の姿に変わっていた。

 そして、私が驚きのあまり声を上げる間もなく。私の身体は竜の身体に攫われて、私はいつの間にか竜の長い(たてがみ)を掴み、空高く飛んでいる竜の背中に乗っていた。


「俺は……俺を見つけて腐った林檎を分け与えやがった女には、真名(まな)を教え、共に空を飛んでやると昔から決めている。しばらく寝てろ、ナヒトア。次に目が覚めた時には、神聖アーリマン王国の外だ——はあ。それにしても、こんなこと。姫さん……マユ女王以来だ。最悪」


 黒竜——イエルクのぼやくような声を耳にしながら、私は顔に吹き付ける強風に目を細めて、空を見上げた。


 流れゆく藍紫色の星空は、いつもより色とりどりの光の瞬きが鮮やかに、輝いて見える。

 イエルクの身体を覆う艶やかな黒い鱗は、星々の光を映してきらめき、銀色の(たてがみ)もまるで夜空を流れる星の川の如く美しい。

 地上は星空よりも遥か遠く思え、母なる大地を離れた足が宙に揺れる度、ぞくぞくと興奮にも恐怖にも似た激情が、腹の底から湧き上がってきた。


 同時に、何故か凄まじい眠気に襲われる。イエルクが、何か魔法をかけたのかもしれない。私は今眠ってしまっては堪らないと、とにかくイエルクにたくさん話しかけた。


「イエルク。イエルクは何で、死にかけてたの?」

「マユ女王の(めい)だ。奴隷一万を使い、血の海を造るまで、飲み食いを許さねぇとな。三月(みつき)は水すら口にしてなかった」

「そうなのか。マユ女王はやっぱり、無茶苦茶を言う……よく、そんなとんでもないわがまま女王さまに忠誠を誓えているな。イエルクは、マユ女王がすきなのか?」

「……」


 イエルクがあからさまに黙り込んだので、私は思わず噴き出した。


「なに。図星? まあ、マユ女王は最悪だけど絶世の美女だからな。気持ちはわからなくもないよ。イエルクは面食いなんだ」

「違ぇ。顔じゃねぇ。確かに顔はいいが。俺は——昔、飢えて独り死にかけてたところを姫さんに見つけてもらった。そんであの人は、当時の夫だったアーリマン国王にぶん殴られながらも、飢えた俺に腐った林檎を分け与えた。その代わり、『死ぬまで私に平伏し付き従わなければ、焼いて食べてあげる。だから、私のモノになって、私の夫を殺し、私をこの世界でいちばん偉い女王にしなさい』とかいう、とんでもなく最悪な契約を交わしちまったがな」


 私は思わず、驚きのままに目をしばたたかせた。

 イエルクのマユ女王との出逢いが、まるでさっきまでの私とイエルクの出逢いに、よく似ていたからだ。


「まあ、それからも色々最悪なことしかなかったが、結局……気がついたら最悪なあの姫さんに惚れちまってた。もう後戻りできねぇくらいに。これが、惚れたら負けってやつだな」


 まるで、運命だ。


 私はマユ女王に惚れているとはっきり惚気(のろけ)るイエルクの言葉もそっちのけで、そんなことに思い至る。


 だって、これは運命でしかないだろう。


 イエルクと話をしていると、イエルクの傍に居ると、イエルクと共に空を飛ぶと、こんなにも——心の臓が、燃えるようにときめくのだから。


 それに、こんな私とまともに話してくれる誰かは、イエルクが初めてだったのだ。


「そうだな。イエルクはマユ女王に本気で惚れてしまった時点で、マユ女王に負けてる。イエルクにはもうどうしようもない」


 私は、続いて口を開こうとするが、強烈な眠気が再び襲ってきて、ろれつが回らなくなる。まるで、イエルクが「もうこれ以上、先を口にするな」とでも言いたいかのように。

 それでも私は、必死にイエルクの銀色の(たてがみ)を握りしめて、言葉を紡いだ。


「だが、私もイエルクと同じだ。わたし、イエルクのことがすきになった。だいすき、なんだ……つまり私も、イエルクにだけは敵わない。イエルクにだけは、負ける……でも、負けたままは悔しいだろう? だから、イエルク。最後に……教えてよ」

「……」


 イエルクは何故か、焦燥に駆られているかのように、私にかけた眠りの魔法を強めていく。何を、そんなに怖がっているんだろう。

 そんなことを考えながらも、私は、意識を手放すぎりぎりで、何とかイエルクに問うた。


「イエルクは、どんな人がすき? 私、次にイエルクと会う時まで……イエルクが思わず一目惚れしてしまうような、そんな女になるから……」


 意識が、イエルクの銀色の(たてがみ)の中に埋もれるように消えてゆく。

 しかし、私は確かに——イエルクの、唸るような低音が、私の問いに小さく答えるのを聞いた。



「世界でいちばん——最悪な女の王」

 

 

 そうして、次に気が付いた時。私はマユ女王の治める神聖アーリマン王国から遠く離れた西方の大地で、目が覚めたのだった。


 ◇◇◇


 イエルクは、確かに覚えていた。


 十年前——一人(ひとり)の奴隷の少女を、密かに神聖アーリマン王国の外へと逃がしたことを。


 それは、ほんの気まぐれだった。

 マユ女王の無茶な命令で、いつものように死にかけていたところを、まさか「腐った林檎」で助けられるとは思わなくて。


 だからつい、気が緩んだ。


 つい、その少女を己が心底惚れている女に重ねて、口をきいてしまって。

 つい、少女の名まで訊いてしまって。

 つい、己の真名まで教えてしまった。


 そしてあの時は飢えて殺す気力もなかったから、何となく外へと逃がしてやった。

 それらは全て、ほんの気まぐれに過ぎなかったのだ。

 ちょっと、惚れた女との懐かしい思い出を柄にもなく感傷的になぞってしまったがゆえの、ただの気まぐれ。それだというのに。


「なあ、イエルク。マユ女王はどこにおられる? ここまで来たら降伏宣言を出してもらいたいんだが。ああ、でも……あの女王さまがそう易々と降伏宣言なぞしないか。くわえて、女王さまにべた惚れのお前は、決して彼女の居場所を教えてはくれないだろうし。さて、どうしたものか」

「……」


 イエルクは(から)の玉座の前で微かに息を乱しながら、目の前でうろうろと玉座の間を歩き回る、魔法を繰る長杖を肩に担いだ一人の女を見つめて、心底過去の己の過ちを悔いている。

 漆黒の鎧を身に纏い、星空に瞬く星光にも似た白銀の髪を揺らす、恐ろしいほど美しく、竜である己にも劣らぬほど強い女——その名を、ナヒトア。

 およそ十年前。己が気まぐれで生かしたかつての少女ナヒトアは、今や大陸に名だたる超大国の一角である「ミスラ帝国」という魔法軍事国家を治める「女帝」と成っていた。


 現在、神聖アーリマン王国は女帝ナヒトア率いるミスラ帝国に侵攻されている。

 神聖アーリマン王国が支配していた属国は次々とミスラ帝国に侵略され、今や残っているのはこの神聖アーリマン王国の領土のみ。

 かつては「世界でいちばん悪い赤き女王」と大陸全土に轟いたマユ女王の悪名はすっかり忘れ去られつつあり、今やミスラ帝国の「世界最悪の侵略女帝」というナヒトアの悪名の方が恐れられている。

 そうして本日はなんと、女帝ナヒトアが直々に突如として神聖アーリマン王国の王城に現れ、マユ女王へと「降伏宣言」を迫ってきたのだった。

 イエルクはこの五年ほどの間で既に、数え切れぬほどナヒトアと殺し合った。そして殺し合うほどにナヒトアは末恐ろしくなるほど強くなって、ついにはこの玉座の間まで来た。

 ゆえにイエルクは、この「世界最悪の侵略女帝ナヒトア」を生かしてしまった己の過ちを、現在進行形で深く悔いているのだ。


「そうだ。せっかく今日もイエルクと会えたんだから。アレ、言っておかないと」


 ナヒトアが、にかりと眩しい笑みを浮かべてこちらを振り向く。

 イエルクはますます、過去の己の所業を悔いる気持ちやら、何とも言えぬ感情が混じり合って、苦虫を嚙み潰したような顔をした。


「私と結婚しよう。イエルク」

「断る。……いい加減、それ止めろ。クソ女」


 そう。ナヒトアはこうしてイエルクと会う度、殺し合う度——真っ直ぐに、求婚。もしくは口説いてくるのであった。

 今やもう、数え切れぬほどに、執拗に。死ぬほどしつこく。


「昔私は、お前には負けると言ったな。だが、私は諦めないよ。惚れたら負けなら──惚れさせるまでだ」

「ばーか。そりゃ無理だ」


 イエルクは即座に首を横に振って、否定する。思った通り、ナヒトアは食い下がった。


「私に無理なことはない。だって私は奴隷から『世界最悪の侵略女帝』にまで成ったんだ。お前好みの悪い女。お前が私に惚れるためなら、私は何にでもなれる。マユ女王をも、超えられる」

「無理だっつってんだろ。もうてめぇはあの人を超えられねぇ。俺もあの人を忘れられねぇ。平行線なんだよ。何もかも……永遠に」

「? 何。その言い草……待って。まさか、イエルク。マユ女王は……」


 ナヒトアが、何かを悟ったようにアイスブルーの瞳を揺らす。

 イエルクは言うつもりのなかった事実を、「それ以上口を開くな」と頭のどこかで激昂するもう一つの己の心を差し置いて、ナヒトアに零した。


「一年ほど前か……あの人は事故で死んだ。そんで、今痛いほどに思い知ってんだが。死んだ人間にかかわる記憶は、(おぞ)ましいほど綺麗に頭に焼き付きやがる。だから俺は死ぬまで、あの人に惚れたまま終わるわけだ。生者のてめぇには……どうあがいても、死んだあの人には敵わねぇに決まってる」


 確信をもって己の諦念を口にしたイエルク。しかしそれに、間髪を容れずナヒトアが口をはさんできた。


「馬鹿を言っているのはお前の方だ、イエルク。確かに死者は美しく不変になるが、生者は変わり続ける。いつしか死者への美しい記憶を大きく上回って、より鮮烈に、生者のおもいは燃え上がる。生者たる私は変わるだろう、死者の焦げ跡にいつまでも縋り続けるお前を振り向かせるくらいに。そして、お前自身も生者だ。だから、お前の心も魂も、絶対に変わる。不変なまま終わるものか」

「……」


 ナヒトアの言葉に、思いがけずイエルクは呼吸を止めて、ナヒトアを見つめる。


「お前が不変と(のたま)う、その心。そういう一途なお前が私は大好きだが。それでも私が必ずや、その一途な不変の心ごと全て呑み込んで、お前の魂の根底を変えて見せよう。マユ女王に負けたお前を、私が惚れさせたら。私の全勝ちだろう?」


 ナヒトアは、不敵に笑う。十年前と、変わらぬ眩しさで。


「私は勝つよ。死んだマユ女王にも、死者に囚われ執着し続けるお前にも。だから、楽しみにしていて。イエルクはマユ女王を想いながらも、私に惚れて、私と夫婦(めおと)となり──世界でいちばん幸せな悪い男になる。なあ、イエルク。マユ女王だけでなく、私に惚れて、怖くなるほど幸せにさせられる覚悟は決まったか?」

「は……」


 何も言い返せずにいるイエルクに、ナヒトアが「今日はもう帰るよ。また会いに来る」と言って、背を向ける。

 そうして最後に顔だけ振り向いて、(あで)やかに、たおやかに——もう耳に胼胝(たこ)ができるほど聞き慣らされた、イエルクがナヒトアからしか貰ったことのない、あの言葉を口にした。


「愛してる、イエルク」

 

 ◇◇◇

 

(あのクソ女と最後に会ったのは……半年前か)


 マユ女王の不在を嗅ぎつけた、列強国の連合軍に急襲を受けたイエルクは、崩れた城門の陰で何故かナヒトアと最後に会った時のことを思い出していた。

 空には、「飛行艇」などと呼ばれる、奇怪な兵器が飛び回っている。マユ女王や己が扱えた稀少な「魔法」の力や文明は、時代の流れと共に廃れつつあるらしい。

 連合軍は「もう空の支配者は悪竜だけのものではない。我々、正義の人類のものだ!」などとほざいていた。

 悪竜でも、世界でいちばん悪い女王ですらも、空を支配することなどできなかったというのに。


『イエルク』


 ふと、またナヒトアの声が聞こえた気がした。そういえば、「世界最悪の侵略女帝」は空を侵略することはできたのだろうか。

 血を流しすぎたせいか、何故かナヒトアの事ばかりが頭に思い浮かぶ。

 もうすぐ死んでしまうという時に、何故よりにもよって——己の最大の過ちである、あの最悪の女のことばかりを、想ってしまうんだろうか。

 どうして。死に際になって、いちばんに蘇るのがあの最悪の女が己の名を呼ぶ声で。

 どうして。死に際になると、あの憎たらしい顔を見たいなどと、今まで一度も思ったこともないことが頭を過るのだろうか。


「……生きるのも、大概最悪だったが……死ぬのも、最悪かよ。俺の生は終始、最悪だな」

「イエルク!」


 幻聴かと、思った——そんな声が、すぐ耳元で己の鼓膜を激しく震わせ。己の冷えた体温を燃やすかのように、両肩を熱く細い手によって強く掴まれた。


「まだ、生きてる……! 随分と捜したよ! 間に合って本当によかった……といっても。私も死にかけてるんだが」


 ナヒトアが眉を下げて笑いながら、己の隣に並んで座り込む。

 石のように動かなくなった身体に鞭を打ち、イエルクは首だけを動かしてナヒトアを見ると——彼女の身体は既に死んでいてもおかしくないほどに、重傷を負っていた。

 イエルクは乾いた喉を振り絞って「……何故、てめぇが……」と必死に問いただす。すると、ナヒトアは相変わらずからからと笑って、イエルクの肩に寄りかかりながら答えた。


「神聖アーリマン王国の資源を前々から狙っていた国々の連合軍が『悪竜退治』に向かうと聞いて……居ても立っても居られなくなってね。つい、捜しに来てしまった。悪竜捜しは、私の人生で初めてできた楽しみだから」


 ナヒトアが荒い呼吸を繰り返して、十年前にも聞いたような言葉を口にした。同時に、ナヒトアの呼吸が段々と、弱々しくなってゆく。


「とにかく、イエルクに会えてよかった……ふふ。このまま一緒に死ぬのも、悪くないかもしれないなあ」


 冗談交じりのような声だった。しかし、イエルクにはその言葉が冗談には到底思えなくて、唸るようにナヒトアへと怒りの声を振り絞った。


「黙れ……死ぬなんぞ、易々と口にすんじゃねぇ。次言ったら……殺すぞ、クソが」


 イエルクは、血を吐きながら、隣にいる最悪の女の名前を十年ぶりに口にする。もう既に先に逝ってしまった、心底惚れてやまない悪の女王の事を思い出しながら。


「死ぬ、な……ナヒトア」


 ナヒトアが大きく目を見開いて、イエルクを見上げてくる。


「……俺より先に死なねぇと……そういう約束、できるなら。結婚してやってもいい。ただし俺が姫さんに惚れてんのは、永久に変わらん……てめぇには、惚れねぇし。負けるつもりもねぇが……」


 イエルクは流し目で、こちらを見上げてくる零れんばかりのアイスブルーの瞳に己の視線を絡めて、飛びそうになる意識を必死に繋ぎ止めながら、自分でも訳が分からないような言葉を紡いだ気がした。

 そこで、ナヒトアの気持ちの良い笑い声が鼓膜を叩く。


「ふ、っはははは! 婚約の条件が、数百年を生きる悪竜より、永く生きろとは。面白いことを言う」


 ナヒトアの場違いな笑い声を耳にして、イエルクは何だか、とんでもない失言をしたような気がしてきて苦し紛れに悪態を吐く。


「……ああクソ……血を流しすぎて、戯言を……死にたくなってきた……今のは、忘れ……」

「次はお前が黙れ、イエルク。そして、今は死んでも死ぬな。言質はとった、誓わせろ」


 イエルクは思わず、己がまた新たに犯しただろう過ちを撤回しようとするが、それは即座にナヒトアへと阻まれた。


「約束する。私はこれから至極健康第一に人生を謳歌し、お前よりも遥かに長生きしてみせる。何百年と悪竜をやってきたお前より長生きせねば、私も『世界一最悪な女帝』とは言えないだろうしな」

「は……馬鹿言ってんじゃねぇ。今にも死にそうな奴が……」

「もう死ぬ気など微塵もしないな。あと何百年と最高に長生きする気しかしない。だって私達、結婚するんだよ?」


 ナヒトアは死にかけているとは思えない動きで突如立ち上がると、軽々とイエルクを肩下から担ぎ上げて歩き出した。それを目の当たりにしたイエルクは、一瞬呆気に取られて瞠目したまま固まるが、すぐに思わず盛大な舌打ちを鳴らして、怒りと後悔で震えるため息を吐き出す。


「てめぇ……死にかけのフリして、かまかけやがったな……!? この、嘘吐きクソ女が……! 本当に最悪だ、てめぇは!」

「ははは! イエルクは騙しやすくてたすかる。本当にありがとう、愛してるよ」

 

 イエルクは、心底思い知った。

 己はやはり。一生、マユ女王や女帝ナヒトアといった、「世界でいちばん最悪な女」に振り回されて、生きていくしかないのだと。

 



 これは、とある大陸にて永く歌われる伝説。

「世界でいちばん悪い赤き女王」と。

「世界でいちばん強くて恐ろしい悪竜」と。

「世界最悪の侵略女帝」による。

 世界三大悪と恐れられた「最悪」たちによる、世界でいちばん最悪で——いちばん「一途」な恋の伝説である。

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