堕ちる
わたしが生まれたのは、沈黙という名の檻の中だった。それは、時間という名の埃を積もらせる屋敷であり、冷え切った文机と、擦れた障子の隙間からさす冬陽のような、どこか遠くて、あたたかさを拒んだ光だった。
畳の縁を踏んではならぬ。
箸は右から取り、言葉は選ばねばならぬ。
姉の名は口にしてはならぬ。
父に背を向けてはならぬ。
母の涙を見てはならぬ。
わたしは「わたし」として語ってはならなかった。
家は、家としてわたしを呑み込んだ。名を持たぬ従者のように、わたしはその空気を吸い、湿気を身体に染み込ませ、何も疑わず、何も疑わぬように育った。
廊下の先、誰も開けぬ客間のその奥に、かつて「お父様」がいた。立ち姿は背筋が凛として、しかしそれは虚勢という言葉の彫刻だった。彼の語る言葉には「感情」というものが欠けていた。正確に言えば、そうしたものを一切排除した上で構成された言語、つまり家名を守るための形式とでも呼ぶべきものだった。
母は、美しかった。けれどそれは、“人間の美”ではなかった。あれは器、沈黙の装飾、言葉の抜け殻。父の言葉に反論せず、姉の死に泣かず、わたしの手を取ることもなかった。
姉――名も思い出せぬほど昔、わたしより五つ年上の姉は、ある年の春、池に身を投げた。その死は「存在しなかったこと」として処理された。葬儀もなかった。誰も泣かなかった。仏壇もない。名前を刻む墓もない。彼女は「なかったこと」にされたのだ。わたしが六歳の時だった。
それから、わたしの中には、ひとつの空白が生まれた。
その空白を誰も埋めようとしなかったし、わたし自身も見てはならぬものとして瞼の裏に押し込めた。そしてそれは、いつしかひとつの“欠落”ではなく、“構造”となった。わたしという器は、空白を抱えて完成したのだ。
十代のある時期、わたしは“自分の声”を探そうとした。
ノートに綴った言葉、昼の光の中で一人つぶやいた詩、耳に当てたガラスのコップに響かせた声。しかしそのすべてが、何かの模倣だった。姉の面影、母の姿勢、父の抑圧――わたしの中の声は、他者の残響でできていた。
十八の春、父が失踪した。失踪とは名ばかりで、実際は某所で投獄されていたらしいと、あとになって知った。
横領、権力の乱用、あるいは政治的な関与。
だが、母はその事実を語らなかった。わたしが問いかけても、彼女は茶を淹れ、「このお皿は大正の頃にね……」と過去にすり替える。
それが彼女の“会話”であり、“教育”であり、“沈黙の伝承”だった。
わたしは、ついに沈黙する屋敷を出た。だが、出るという行為そのものが、わたしにとっては“堕落”だった。自らの意思で抜け出したはずの檻の重さが、背中から決して剥がれなかったからだ。
上京し、都会のカフェで働き始めたわたしは、「名前を呼ばれる」ということに、当初ひどく違和感を覚えた。
“◯◯さん、オーダー入りました”という若い店長の声。
“ありがとうございます”と笑ってみせるアルバイト仲間たちの笑顔。
そこには、沈黙を知らぬ軽さがあった。軽さは、自由ではない。軽さは、時に“嘲笑”の別名である。
夜、部屋に帰って、電球ひとつの薄暗い灯の下で、わたしはただ、己の輪郭を確かめるように、ノートに言葉を綴った。だがそれは、言葉にならぬ言葉だった。
思考と声との間に、深く濃い沈殿があった。「わたし」が「わたし」として語るには、あまりに多くの仮面が要った。
それでも、ある日――カフェの窓際で本を読んでいた一人の客、彼の静かな眼差しに、わたしは何かを思い出しそうになった。
彼の名は篠原。その名もまた、わたしにとっては最初、“言葉”ではなく、“匂い”のようなものでしかなかった。深く乾いた書物の匂い、落葉が地面に還る直前の香り。
そう、あれが“語り”の始まりだったのだ。
わたしは沈黙を語り直さなければならない。声を持たぬ人間として育ったわたしが、声というものを得ていくまでの、その過程が、堕ちていくような感覚と引き換えだったとしても――それでも。
語らねばならぬ。わたし自身が、わたしの声を持つために。誰の名でもなく、誰の代替でもなく、わたしがわたしであるために。
そうして、静かにわたしの物語が、ゆっくりと沈みながら、始まったのだった。
都会の午後は、薄絹のヴェールを引いたようにぼんやりとわたしの視界を覆っていた。
カフェの窓辺に腰を下ろし、乱雑に広げた詩集の頁を指で辿る。だが、文字は滑り、声は内側で絡まり合い、遠くへ逃げてしまう。
そこに、ふと現れたのは、篠原だった。
彼の姿は、午后の逆光に溶け込みながらも、静謐な存在感を放っていた。詩を手にしながら、時折指でページの端をそっと押さえる仕草は、まるで時を止めようとするようであった。
わたしは無意識のうちに、彼に視線を向けた。
それは一瞬のことで、彼もまた気づいたかのように、こちらを見返す。
だが、その眼差しは決して捕らえようとせず、まるで光と影の境界線のように、言葉にならぬ何かを伝えてきた。
彼が口を開いたのは、それからしばらく経ってからのことだった。
「君は、詩をただの言葉の羅列だと思っているかもしれない。だが、詩は光の欠片だ。影の裏返しでもある」
その言葉の端々には、凛とした覚悟があった。
わたしは答えを返すことができなかった。
ただ、彼の声が喉の奥で振動し、胸の奥底にそっと落ちていくのを感じるだけだった。
篠原は、静かにカフェの片隅でノートを取り出し、筆を走らせた。その字は乱暴でもなく、過度に美しくもない、しかし確かに「存在」を宿していた。まるで闇の中で一筋の光が途切れずに伸びていくような、そんな感触。
わたしは、その瞬間、自分が長い間忘れていた何かを取り戻す予感に震えた。声にならぬ声が、わたしの内側で静かに芽吹き始めたのだ。
篠原はわたしにとって、かつて失われた父の代替であると同時に、過去を焼き尽くす炎のようでもあった。彼の存在は、光と影が交錯し、決して単純ではない。彼の言葉はしばしば鋭く、時にわたしの心の壁を打ち破ったが、その破片から新たな詩が生まれた。
カフェの窓から差し込む夕陽が、彼の顔に細やかな陰影を落とし、まるで一幅の絵画のように見えた。その光景は、わたしの心の中に刻まれ、忘却の淵から救い出される記憶となった。
篠原と過ごす時間は、まるで深い海の底を漂うようだった。
静かで冷たく、しかしどこか澄んだ青さがあった。彼の言葉の波に身を委ねるたびに、わたしは堕ちていく。
だが、その堕落は決して暗闇だけではなかった。それは再生の予兆でもあったのだ。
篠原という光と影の狭間で揺蕩ったあの日々の余韻が、まだわたしの心に濃密な霧のようにたなびいている。彼の言葉の波紋が静かに広がるなか、わたしはもうひとつの存在、秋津という名を思い出さずにはいられなかった。
秋津は、わたしの人生の鏡の一面であり、同時に暗い深淵のような存在だった。
秋津と初めて出会ったのは、篠原との出会いの少し前だった。その時、わたしはまだ自分の声を見つけられずに、ひとり彷徨う小舟のように都会の波間を漂っていた。
カフェの裏路地にひっそりと佇む古本屋の前、雨に濡れた石畳の上で秋津は静かに立っていた。長い黒髪を軽く束ね、その眼差しはまるで遠い宇宙の星々を見つめるように深淵で、わたしの内側の隙間を凝視していた。
彼女はわたしに声をかけたわけではない。
ただ、無言のまま古本屋の扉を開け、その奥へと誘ったのだ。まるで、わたしという名もなき魂を、忘れ去られた物語のページの隙間へと引き込むかのように。
秋津はまさに“鏡”であった。彼女の存在は、わたしが自分自身に見せたくない影や歪みを映し出す装置のようだった。
彼女と対峙するたび、わたしは鏡の前で見たくない自分の顔に直面した。
堕ちていくわたしの姿、かつての家の檻の中で押し殺してきた感情、そして、取り戻すことのできなかった声。
秋津の言葉は、冬の川の底に潜む氷のように冷たく鋭かった。
「あなたは、自分を騙している。どこか遠くで、嘘をついている」
その指摘は痛烈だったが、同時に解放でもあった。なぜなら、わたしが長年抱え込んでいた自己欺瞞を、彼女は鮮やかに見抜いていたからだ。
しかし、秋津は決して慰めることはなかった。
彼女は詩人であり、真実の探求者であり、同時に冷徹な判事のようでもあった。
「沈黙の檻は壊れる。しかし、檻が壊れた先に何があるかは、誰も保証しない」
その言葉は、まるで薄氷の上を歩くような不確かな未来を示していた。
秋津の存在は、篠原とは異なる性質を持っていた。
篠原がわたしの内面に波紋を投げかけ、声を発芽させる光ならば、秋津はその光を照らし出す影であり、見せたくない真実を映す暗闇だった。
彼女はかつて、わたしの幼い頃の過ちや、母の涙に隠された秘密、父の失踪後に広がった混沌を知っていた。
秋津と過ごす時間は、まるで古びた絵画を解体し、その下に隠された別の絵を見つけ出すかのように、痛みと発見の連続だった。
ある晩、薄明かりの下で秋津は言った。「私たちは、鏡の破片を集めて、何か新しい姿を作らねばならないのかもしれないね」その言葉の中には希望の光も、未来への不安も同時に存在していた。
秋津はわたしにとって、単なる友人でもなければ、師でもなかった。それは、自己の再構築を促す触媒であり、わたしが堕ちゆくなかで出会った最も鋭い反射鏡だった。
彼女と過ごすうちに、わたしはかつての家族の記憶を、断片的に解きほぐし始めた。
それは決して明るい光ではなく、むしろ濃密な闇を孕むものであったが、わたしの中の空白を埋めるためには避けて通れぬ道だった。
「あなたは本当に、自分を知っているのか?」
秋津のその問いに、わたしは答えることができなかった。なぜなら、わたしの中の「わたし」は、複数の仮面と影で成り立っており、その本質は未だ霧の中にあったからだ。
秋津はわたしに、小さな紙片を手渡した。それは亡き姉の書き残した短い詩だった。詩はまるで声なき叫びのように、無言のまま強烈な存在感を放っていた。
その詩を読み解くことは、まるで遠い星の軌道を追うような試みだった。
しかし、その声が、わたしの声の根源であり、家の沈黙を打ち破る鍵になると秋津は信じていた。
わたしは秋津の存在を通じて、自分の内面の複雑さと向き合った。彼女は鏡であると同時に、暗闇の中の灯台であった。わたしの心の闇を照らしながらも、決してその光を与えすぎず、むしろ試練を与え続ける存在。
秋津という存在は、まるで破れた鏡の破片を集めて未来の自画像を描く、重厚かつ切実な作業の象徴であった。わたしは堕ちていく中で、彼女の鋭い視線を恐れながらも、同時にそれに救われていた。
秋津はわたしの「堕ちる」という行為をただ嘆くのではなく、そこにある再生の可能性を静かに示してくれた。堕ちることは、単なる喪失ではない。それは鏡の破片が光を屈折させ、無数の色彩を放つような、複雑で美しい生成の一過程なのだ。
わたしはまだ、完全な自己を見つけたわけではない。だが秋津の鏡の前で震えたあの日から、わたしの堕落は単なる沈黙ではなく、語りの始まりとなった。
あの日、篠原の存在がわたしの内側に波紋を広げた。彼はまるで、破れた日記の頁を一枚ずつそっとめくるかのように、わたしの忘却の深淵を覗き込んだ。
しかし今、わたしが語るべきは、篠原という人間の「沈黙の声」である。彼の記憶の底には、言葉にならぬ叫びが沈んでいる。
篠原は決して語らなかった。彼の過去はまるで古い海図のように折りたたまれ、重く波の彼方に隠れていた。だが、わたしは偶然、彼の秘密の一端に触れたのだった。
それは彼のアパートの狭い書斎でのこと。埃をかぶった写真立ての裏に挟まれた、黄ばんだ手紙。筆跡は震え、言葉は途切れ途切れだったが、その一文一文が篠原の内面の深い闇を語っていた。
「父は海に消えた。真夜中の嵐に呑まれて、わたしの世界もまた荒れ狂った」
その言葉は、わたしの胸を鋭く穿った。彼の沈黙の正体は、失われた父親への喪失と赦しのない怒りだった。
篠原はいつも孤独だった。彼の詩は、その孤独の裂け目から湧き上がった声だった。だが孤独は彼を閉じ込める檻ではなく、同時に糸となって過去と未来を繋いでいた。
彼は語らぬことで、過去の断片を守ろうとしていたのかもしれない。わたしはその沈黙に焦れ、時に苛立ち、しかしそれでも彼を追い続けた。
ある冬の夜、篠原はぽつりと言った。
「声にならぬ声がある。僕はその声を詩に託すしかないんだ」
それは、まるで言葉の限界を嘆きつつ、言葉に希望を託す祈りのようであった。
わたしたちは共に、失われた声の欠片を繋ぐ旅に出た。その旅は、時に傷つけ合い、時に寄り添い、そして常に不確かな未来を照らす灯火であった。
篠原の詩は、彼の父への複雑な想いを織り込みながらも、わたしの存在と重なり合った。
彼の言葉は深海のように暗く、しかしそこでしか見えない光の微かな煌めきを宿していた。
篠原は決して過去を美化しなかった。むしろ、過去の傷を無造作に晒し出すことで、その痛みを剥き出しにし、わたしに見せた。
彼の記憶は迷宮であり、わたしはその中で迷いながらも、少しずつ真実に辿り着いていた。迷宮の中心には、失われた父の影が揺らめいている。
わたしは篠原の詩を読む度に、自分の中の闇と対峙した。その言葉の一つ一つは、闇の中の小さな光であり、わたし自身の沈黙の声をも照らし出した。
篠原の詩は決して簡単ではなかった。むしろ難解で、時にわたしの理解を超えた。しかしその難解さこそが、彼の内面の豊穣さを示していたのだ。
篠原の記憶とわたしの過去は、互いに絡み合い、決して断ち切れぬ連鎖を成していた。彼の喪失は、わたしの堕落と不幸せを呼び寄せ、わたしの再生は彼の救済へと繋がった。
二人の人生は、悲劇の連鎖の中で交錯しながらも、わずかながらも幸福の兆しを模索していた。
わたしと篠原は、沈黙の声を抱えながら、それでも言葉の海へと漕ぎ出す。沈黙は決して無言のままではない。それは語られざる物語の始まりであり、詩の胎動である。
その日、秋津の瞳はいつになく曇っていた。あの冷たい鏡のような瞳に潜む微かな揺らぎは、まるで硝子細工の迷宮に閉じ込められた小さな蜃気楼のようだった。
わたしは気づかぬふりをしながら、彼女の奥底に棲む秘密の影に触れたかった。
秋津の過去は、暗い森の中で迷い続ける旅人のように断片的だった。彼女は言葉少なに、しかし時折、まるで脆く砕け散る硝子の破片を集めるかのように、その断片を口にした。
「私の家も、かつては堅牢だった。だが、風が吹き荒れて、壁はひび割れ、静寂は狂気に変わった」
彼女の言葉は、まるで冬の夜に鳴る遠雷のように、不穏でありながらどこか哀しみに満ちていた。
わたしは秋津の秘密の一部を知るため、彼女の住まう小さなアパートを訪ねた。そこは、外界とは断絶されたような静謐な空間で、硝子の破片が光を屈折させ、無数の影を壁に映し出していた。
彼女は言った。
「この迷宮に入るには、覚悟が必要だ。扉の向こうには、誰も知らない自分が待っている」
その声は囁きであり、誘いであり、同時に警告でもあった。
秋津とわたしの関係は、まるで複雑に絡み合った糸の束のようだった。彼女の秘密は、篠原の沈黙とも微妙に重なり合い、三人の過去の陰影が交錯する迷宮を形作った。
「わたしたちは皆、自分の影を持ち歩いている」
秋津は言葉の端々にその影を滲ませた。
秋津の秘密には、家族の崩壊と裏切りが静かに横たわっていた。その記憶は、まるでゆっくりと溶けていく硝子のように、彼女の心を切り裂いていた。
わたしはその痛みを理解しようと必死だったが、彼女の内なる深淵は果てしなく、言葉にできなかった。
秋津の迷宮は、闇と光の狭間にあった。彼女はその中で、破片のように砕けた自我を拾い集め、新たな形を模索していた。
わたしはその模索を間近で見つめることで、自身の堕落と再生を重ね合わせた。硝子の破片が光を屈折させて織りなす幻想のように、私たちは複雑に絡み合いながら、それぞれの真実を照らし出していた。
秋津の秘密は迷宮の闇に潜みながらも、わずかな光を放っていた。その光は未来への道標であり、わたしたちの再生の兆しでもあった。
わたしは硝子の迷宮を彷徨いながら、自分自身の影と向き合い、やがてそこに見える光に手を伸ばすことを決意した。
あの硝子の迷宮を抜けた先に待っていたのは、微かに香る秋の庭だった。薄紅の葉が風に揺れ、ひそやかなざわめきを立てるその場所は、まるで忘却の縁に咲く花のように儚く美しかった。
わたしはその庭に足を踏み入れるたび、秋津の存在が自分の中で微熱のようにじんわりと広がっていくのを感じていた。
庭の片隅には一本の古びた欅の木があり、その樹影はわたしの記憶を掻き乱す。
その影の濃淡は、まるで過去の傷跡のように、心の奥底に刻まれた痛みを揺らす。
秋津は言った。「ここは私の心の庭。人に見せられない棘と花が共に咲いている」
その言葉は、薄氷の上を歩くような危うさを孕みながらも、確かな真実を秘めていた。
秋津の瞳は庭の光に揺れ、微かな微熱を帯びていた。彼女の吐息は、枯葉とともに風に溶け込み、わたしの頬をそっと撫でた。
その瞬間、わたしの胸に堆積した堕落と孤独が溶解し、再び光の粒となって宙に舞い上がった。
秋津の微熱は、彼女が長年かぶり続けてきた壊れた仮面の裏側に宿っていた。彼女は誰にも見せぬ涙を秘め、日々を演じていたのだ。
わたしはその仮面の割れ目から覗く彼女の本心に触れ、初めて二人の距離が限りなく近づいたことを知った。
二人の心は庭の静謐の中でゆっくりと共鳴し始めた。それは言葉にできぬ旋律であり、絶え間ない対話であった。
わたしは秋津の苦悩と希望を、秋津はわたしの堕落と再生を、互いに見つめ合いながら受け入れていった。
その庭の奥には、小さな灯火が揺れていた。それはわたしたちが交わした約束の象徴であり、未来へのささやかな誓いでもあった。
「この庭で、私たちはもう一度、光を探そう」
秋津の声は確かな意志を帯び、わたしの心に深く刻まれた。
微熱の庭は、影の終焉と光の始まりを示す場所だった。わたしたちはそれぞれの傷と孤独を抱えながら、しかし確かに歩みを進めていた。
硝子の迷宮と沈黙の声を経て、微熱の庭は新たな物語の扉を開く。
揺らいだ約束の灯火を背に、わたしは静かに思考の迷宮へと沈んでいった。秋津の庭の微熱はまだ肌に残り、その余韻がまるで淡い刺青のように心を刻む。
しかし、闇の奥底から聞こえてくるのは、もう一つの声。父なる幻影――それはわたしの知らぬ過去から、遠く遠く呼び覚まされる沈黙の呼声であった。
父はいつも、わたしの記憶の端に朧げな影として存在していた。彼の顔はぼんやりとしていて、はっきりと掴めない。まるで夢の中で揺らぐ蜃気楼のように、近づくほどにその輪郭は溶けていく。
母の口から語られる断片的な話は、まるで色褪せた古写真のように、不完全なままわたしの心を揺らすだけだった。
「あなたのお父様は、あの時、海に消えたのよ……」
この言葉が無限に反響する心の洞窟に、わたしは一人、閉じ込められていた。
記憶の海は常に波打ち、掴みどころのない真実を呑み込んだまま波間に揺れている。
父の幻影は、その海の底に沈む錆びついた錨のように、重く、そして深く沈殿しているのだ。
それは消えた存在の痕跡であり、同時に失われた時間の冷たい痕跡であった。
わたしはその海の波音に耳を澄ましながら、自身の過去の傷跡をたどり、父という名の不可視の繭を紡ぎ直そうとしていた。
ある冬の終わり、わたしは古い書棚の奥底で埃をかぶった箱を見つけた。その中には、父から母へ宛てられた手紙の断片が残されていた。
文字は滲み、インクは所々剥げ落ちている。
だが、そこに込められた言葉は、時空を超えた生きた声としてわたしの心に響いた。
「愛しい君へ、世界は常に変わり続けるけれど、君と我が子の未来だけは永遠であってほしい」
この断片が、わたしの内側で何かを揺り動かした。消えたはずの父が、まるで遥か昔に囁きかけているように。
過去と現在は、しばしば裂け目となってわたしを引き裂く。父の不在は、わたしの存在に影を落とし、堕落への誘いのように作用した。
だが、今こうして秋津の庭で微熱を感じながら、わたしは思う。欠落した過去の断片を拾い集め、繋ぎ合わせることこそが、再生の第一歩なのだと。
深夜、わたしは一人、父の幻影と対話を試みる。それは言葉にならぬ言葉のやり取りであり、記憶と忘却の狭間での孤独な舞踏であった。
「なぜ、わたしを残して去ったのか?」
問いかけは虚空に消え、ただ冷たい風が答えた。
それでも、わたしは問い続ける。答えのない問いが、胸の奥に静かに燃える灯火となるのを感じながら。
わたしの中で、父の幻影は次第に形を変え、赦しと再生の象徴へと昇華していく。過去の痛みは癒えない傷として残るかもしれない。だが、その傷口から新しい命の息吹が吹き込まれるのを、わたしは信じたいと思った。
わたしは硝子の迷宮を抜け、秋津の庭を経て、今、父なる幻影の海へと降り立つ。その海は深く暗いが、時折煌めく光の断片を湛えている。
それらの光は、消えた父からの贈り物かもしれない。見えぬ手が、わたしの手を取ろうとしているのかもしれない。
わたしは静かに誓う。過去の闇に呑まれることなく、光の断片を追い求める旅を続けることを。そしてその旅路の果てに、わたしたちが求めた再生と幸福が待っていることを信じて。
父なる幻影の海から静かに立ち上がったわたしは、秋津の庭で芽吹いた微熱を胸に抱きつつ、再び硝子の迷宮に戻る決意をした。
そこには秋津だけでなく、篠原という名の影が深く絡みつき、複雑な運命の糸を紡いでいた。篠原の瞳の奥に秘められた深い哀しみは、まるで捩れた絡繰り細工のように、見る者を捕縛して離さない。
篠原は言葉数少なく、感情を押し殺しているように見えるが、その内面は激しく揺れ動いている。彼の過去は、まるで暗闇の中に沈む廃墟のように崩れ落ちており、再建の糸口を探し続けている。
彼はよく独り言を呟く。
「生きるとは、絡繰りの中で踊ることだ」
その言葉が意味するのは、自身が他者の思惑や過去の影に縛られながらも、必死に自由を模索している姿であった。
わたしと秋津、そして篠原の三者は、それぞれが抱える秘密と過去を無意識に織り交ぜていた。まるで絡繰り細工の歯車が噛み合うように、私たちの行動と言葉は互いに影響し合い、時に摩擦を生み、時に共鳴した。
その複雑な絡繰りの中に、父の幻影もまた揺らめいていることを、私は知っていた。
篠原はしばしば夜の街へと彷徨い、酒と煙草の煙に包まれて孤独な宴を開く。その姿はまるで、絡繰り細工の人形が自らの意志を持ち始めたかのような不気味さを湛えている。
彼の口から零れる言葉は、鋭く痛々しい真実を帯びていた。
「俺は何者でもない。歯車の一つに過ぎないんだ」
その絶望と虚無の叫びは、わたしの胸を締めつけ、同時に共感を呼んだ。
秋津の秘密は、篠原の孤独と微妙に絡まり合い、三人の関係に見えざる緊張をもたらした。彼女の迷宮に閉ざされた過去の断片が、篠原の過去の影と複雑に交錯し、しばしば言葉にできぬ葛藤を生んだ。
その影響は微細な亀裂となって、時折三人の間にひそやかな軋み音を響かせた。
絡繰り細工の歯車の如く、私たちは影と光を交錯させながら踊った。その踊りは決して優雅ではなく、時に狂気と哀しみを帯びた激しい舞踏であった。
私は篠原の痛みと秋津の秘密に触れるたび、自分自身の堕落と再生を重ね合わせた。
三人の魂は、言葉にならない共鳴を繰り返し、互いの傷を映し出しては、少しずつ癒していった。それはまるで絡繰り細工の内部で繰り返される調律のように、微細でありながら確かな変化であった。
私たちの絡繰りの肖像は、過去の影と未来の音が交錯する複雑な織物であった。その織物の中で、父の幻影は静かに息づき、三人の物語に深みと哀愁を添えた。
絡繰りの肖像は決して一枚の完璧な絵画ではない。それは割れた硝子の破片の集積であり、それらが光を反射しながら、新たな形を生み出していく過程だった。
わたしはその破片の一つ一つを拾い集め、再構築の儀式を続ける。
絡繰りの中心には、解けない謎が横たわっていた。篠原の孤独、秋津の秘密、そしてわたしの父の幻影。
それらは絡まり合い、解きほぐせない運命の糸の如く、わたしたちを縛り続ける。
それでも、絡繰りの中にはささやかな希望の灯が灯っている。
それは絶望と再生の狭間に揺れる微かな光であり、わたしたちが探し求める幸福の兆しであった。
絡繰りの肖像が奏でる複雑な旋律は、わたしの内奥に秘められた疑念と共鳴し、やがてその響きは迷宮の深淵へと誘った。
篠原の孤独な宴、秋津の秘密の糸、父なる幻影の微かな灯。
それらが絡まり合い、ひとつの鏡面を形成していた。
その鏡は、真実と嘘、光と影を映し出しながら、決して一つの像を映さぬ迷宮であった。
鏡の中のわたしは微笑んでいる。だが、その微笑みは実体を持たず、虚ろに揺らめく蜃気楼のごとく、容易に崩れ去りそうだった。
それは、過去の記憶に染みついた嘘の断片と、今この瞬間の揺れる心の狭間に宿る嘲笑のようでもあった。
わたしはその微笑みに問いかける。
「これは本当にわたしなのか?」
答えは鏡の奥底で、静かに崩れ落ちていく。
わたしの周囲には、無数の嘘が花を咲かせていた。それは秋津の秘密であり、篠原の自嘲であり、父の不在を覆い隠すための仮面であった。
その嘘の庭は、実際には荊棘に満ちていて、触れる者を傷つける。だが、それを避けることはできず、歩みを止めることも許されなかった。
鏡の迷宮を歩くわたしは、しばしば透き通る硝子の壁に阻まれる。その壁は、嘘と真実の境界線であり、触れると冷たく鋭く、心の深部に刺さる。
だが、わたしはそれを破ることなく、ただ壁に映る自分自身を見つめ続けた。
ある晩、篠原はついに心の扉を開け放った。彼の告白は、鏡の迷宮に新たな光と影を投げかけた。
「俺は…俺は、自分の過去に嘘をついていた」
その言葉は重く、わたしの胸に深く刻まれた。
彼の抱える痛みは、嘘の庭の荊棘の中でも特に鋭いものだった。
秋津はその嘘の庭のさらに奥底に沈んでいた。彼女の秘密は、父の幻影と交錯し、わたしと篠原を絡繰りの中へと深く誘った。
その秘密は、彼女自身の魂を蝕む毒であり、同時に再生の鍵でもあった。
わたしたちは互いの瞳に映る迷路を彷徨いながら、言葉にならぬ感情を交錯させた。それは時に愛情であり、時に憎悪であり、また時に無理解であった。
その迷路は出口なき迷宮のようで、進むほどに深く、出口が遠ざかる。
しかし、迷宮の中には確かな光の断片が散りばめられていた。それは嘘と真実が交錯する中でのみ見える、かすかな真実の煌めきだった。
わたしはその光の断片を手繰り寄せ、絡繰りの糸を解く鍵とすることを決意した。
鏡の迷宮には影の声が響いていた。それは過去からの囁きであり、未来への予感であり、わたしの心の奥底に眠る恐怖でもあった。
その声に怯えながらも、わたしはなお歩みを止めなかった。
嘘と真実の断片を織り成す織り手として、わたしは自らの存在を問い直す。その問いは痛みを伴うが、それがなければ新たな自分を見つけることはできない。
鏡の迷宮は時空を歪め、過去・現在・未来が絡み合う場となっていた。
そこでは父の幻影も篠原の孤独も秋津の秘密も、一つの物語として繋がり合っている。
やがてわたしは、鏡の迷宮の中心にたどり着く。そこには閉ざされた記憶の箱があり、鍵を差し込むのは自らの手でしかなかった。
わたしは震える指先で鍵を回し、記憶の扉を開け放つ。
扉の向こうに広がる真実は、完璧ではない、むしろ欠け落ちた破片の集合体であった。だが、それこそが真実の形であり、わたしが受け入れるべき現実だった。
真実の形を胸に刻み、わたしは再び歩き出す。迷宮の中で失ったものも多かったが、それ以上に得たものもあった。
それは希望という名の微かな灯火であり、未来を照らす光であった。
鏡の迷宮から抜け出したわたしは、未来への影踏みを続ける。その影は、過去の痛みと向き合う勇気の象徴であり、新たな物語の始まりでもあった。
闇が薄れゆく街の隅、硝子の迷宮を抜けた先に待つのは、まぎれもなく現実という名の舞台であった。そこに降り注ぐ陽の光は、かつてのわたしが知っていた柔らかな光とはまるで違い、冷たく硬質な刃のように肌を突き刺してくる。
時折、記憶の断片がまるで剥がれ落ちるように、過去の残像がざらついた感触を伴いながら脳裏に浮かび上がる。だがその残像は決して鮮明でなく、何処か霞んだヴェールに包まれている。わたしは、その揺らめく真実を捕まえようと必死で手を伸ばすが、いつも指の間からこぼれ落ちてしまうのだった。
あの頃のわたしは、旧家の娘として、堕ちていく家の瓦礫の中で美しくも脆い花のように揺らめいていた。
しかし今、都会のカフェの一隅で働きながら、わたしは自分の内面に積み重なった嘘と真実の狭間を彷徨い続けている。鏡の迷宮の先にあるのは、さらに深い闇であり、そこで待つのはわたしの知らない自己であった。幾重にも織り込まれた運命の糸が絡まり合い、ほどけることを拒む網の目のように心を縛り付ける。
篠原との関係は、その複雑な絡繰りの中心にあった。彼の孤独は私のそれよりもなお深く、冷たく、そして激しい。彼は言葉少なにしかし確実に、過去の傷を露わにし、その痛みの中で必死に立ち上がろうともがいていた。彼の瞳に映る光は、時に闇と交錯し、まるで夜空に浮かぶ星々が一瞬の閃光を放つかのようにわたしの心を揺さぶった。
だが、彼の持つ秘密は、わたしにとって重く、そして恐ろしいものでもあった。篠原の過去の傷跡が、わたしの秘密と絡まり合いながら、逃れようのない運命を紡ぎ出していた。
秋津は一見、静謐で温かな存在に見えたが、その内側には黒い渦巻が潜んでいた。彼女の秘密はただの過去の過ちや悔恨ではなく、もっと深遠な闇のようなものだった。それは彼女の魂を蝕む毒でありながら、一方で再生の契機でもあった。わたしは何度も彼女と向き合い、その秘密の一端に触れようと試みたが、いつも彼女の言葉の裏に隠された真実は霧のように掴めずに消えていった。そのもどかしさが、わたしの胸を締め付ける。
そして父の影。失われたはずの父が、影のようにわたしの記憶の中でうごめく。彼の存在は時に優しく、時に冷酷で、まるでわたしの精神を揺り動かす風のようであった。父の幻影は、過去の罪と重なり、わたしに生きる意味と責任を問いかける。彼の声は遠くから聞こえ、時折わたしの心を突き刺す言葉となって響いた。
私たち三人の間に流れる時間は、まるで絡繰り細工の歯車の回転のように、決して止まることなく、時に摩擦を生み出しながら複雑に絡み合っていた。言葉にならぬ感情が交錯し、信頼と疑念、愛情と憎悪の狭間で揺れ動く。わたしはその渦中で、自分自身の存在を見失いそうになりながらも、何とか足元を踏みしめて歩み続けていた。
嘘はどこから始まったのか、誰のために繕われたのか。真実はなぜこんなにも脆く、遠くにあるのか。問いかけるほどに深まる疑念は、まるで断崖絶壁の縁に立つような心許なさを与えた。
だがその恐怖こそが、わたしを進ませる原動力でもあった。迷宮の中心に光は必ずあると信じ、その光を掴もうと手を伸ばす。たとえそれが幻であっても、そこにわたしの希望は託されていた。
ある夜、篠原がぽつりと漏らした言葉が、わたしの胸に深く刺さった。
「俺は自分を信じられない。過去の嘘に縛られ、本当の自分が見えなくなっているんだ。」
彼の告白は、重く鈍い響きをもってわたしの心を揺らした。彼の孤独はあまりに深く、まるで夜の底なし沼に沈み込むようだった。私はその闇に共鳴し、自らの内にある影と向き合わざるを得なかった。
秋津の秘密もまた、物語の闇にさらなる色彩を添えた。彼女が抱える罪は、ただの過去の過ちではなく、わたしと篠原の関係にも影響を及ぼす波紋のように広がっていた。その秘密は彼女自身を縛りつけるだけでなく、私たちの未来の可能性をも蝕むものであった。わたしは彼女の痛みを理解しようと努めたが、彼女の沈黙の壁は厚く、その奥底は見えなかった。
この複雑な絡繰りの中で、私たちは互いの傷を映し出しながら少しずつ癒し合うことを知った。だが、それは容易なことではなく、互いの影に怯え、嘘に怯え、時に憎悪を抱きながらも、絶え間なく共鳴し続ける。私たちの心は、まるで冬の森の凍った湖の氷のように薄く割れそうで、しかしその割れ目から光が差し込むのを恐れない。
父の幻影はそのすべての交錯の中で、冷たくも暖かい光を放ち続けた。
彼の存在は、わたしにとって終わりなき問いの象徴であり、許しと憎悪、愛情と絶望が交錯する複雑な感情の源泉であった。
彼の声は時折静かに、しかし確実にわたしの心に響き、これからの道を問いかける。父の記憶は、過去の重荷であると同時に、未来への可能性でもあった。
わたしは再び立ち上がる決意を新たにする。絡繰り細工のように複雑で絡み合った人間関係と内面の迷宮を抱えながらも、それを断ち切ることなく歩み続ける。絶望と希望が交錯する狭間で、わたしは光を求めて前進する。まるで星の瞬きのように脆くも確かなその光が、未来を照らす指針となることを信じて。
物語はまだ終わらない。嘘と真実、愛と憎しみ、影と光の狭間で揺れ動く魂たちの交響は、果てしなく続くのだ。だが、その果てしなさこそが、この物語の美しさであり、わたしたちが生きる意味を秘めている。
いつしか季節は巡り、東京の街は秋の淀みを孕んだまま、わたしたちの心象風景に不協和音を奏で続けていた。篠原の影はますます濃くなり、秋津はどこか遠くを見つめ、わたしの内側で蠢く秘密は闇に溶け込む霧のように拡散し続けていた。
わたしは、過去の断片が絡み合う迷宮の中で、己の存在を確かめるかのように、無数の問いと向き合いながら歩みを止められなかった。
都会の喧騒は、古い魂にとってはよく知る嵐である。だがこの嵐は、私の心に鈍い痛みを刻みつけるだけで、決して癒しを与えてはくれなかった。カフェの薄暗い灯りの下、見知らぬ客たちのざわめきが絶え間なく響き、その一つひとつがかつてのわたしの理想や夢を砕いてゆく。指先に残るグラスの冷たさは、生きている証のようでありながら、同時に冷徹な現実の冷たさを容赦なく感じさせた。
「もう一度、あの家に戻ることができるのだろうか。」
心の奥底でひそやかに繰り返すこの問いは、遠い空に浮かぶ朧月のように掴みどころなく揺れていた。あの家――祖父母の時代からの礎が崩れ、わたしの名も、まるで砂粒のように風に飛ばされてゆく。
名門の枷は解かれ、同時に誇りも奪われた。失われたものの重みは言葉にできず、ただ静かな怒りと悲哀が胸を蝕む。
篠原は変わらずわたしの隣にいる。
彼の瞳は幾重にも陰翳を湛え、その深淵にわたしは何度も飲み込まれそうになった。彼の抱える孤独と憎悪は、私のそれと呼応し、やがてひとつの痛みとなって交差していく。
彼は時折、無言で遠くを見つめ、言葉の代わりに沈黙が二人の間に広がる。
だが、その沈黙が語るものは時に言葉よりも重く、鋭く、わたしの心を刺す。
「君は、本当に何を求めているのか。」
彼の問いは、まるで深夜の海に投げ込まれた石のように、私の胸に波紋を広げた。私は答えを持たず、ただ目を伏せる。求めるべき答えは、もはや簡単に掴めるものではなかった。
失われた過去、揺れる現在、そして見えぬ未来――それらが複雑に絡み合い、わたしの心を縛りつけていた。
秋津の存在は、いつもどこか遠くでひっそりと輝く灯台のようだった。彼女の抱える秘密は深く暗く、わたしにとっては理解の届かぬ領域だった。
だが彼女の言葉には、不思議な力があった。時折、彼女は私にこう告げる。
「私たちはみんな、欠けたピースを探しているのよ」
と。その言葉は、壊れた心の破片を拾い集めるための指針のように響いた。
そんなある日、わたしは秋津の昔の手紙を偶然見つけてしまった。そこに綴られていたのは、彼女の幼い頃の願いと、家族の秘密、そして深い孤独だった。
文字のひとつひとつが鮮やかに痛みを宿し、わたしの心を深く揺さぶった。秋津はただの友人ではなく、同じ闇を抱えた同胞だったのだ。わたしは、その痛みを分かち合いながらも、彼女との距離感に葛藤を覚えた。
父の幻影は依然として、わたしの心の奥に潜んでいた。彼の声は、夜ごと夢の中に現れ、断片的な言葉を囁く。それはまるで過去と未来の狭間にある交錯点のようで、彼の存在が生きる意味の重さと向き合わせる。父の記憶はわたしにとって、赦しでもあり、呪縛でもあった。その複雑な感情は、静かな怒りの火花を散らし、何度もわたしの心を焦がした。
この章では、わたしの内面はますます深淵に沈んでいく。かつての誇りも夢も、砂の城のように崩れ去り、残されたのは脆くも熱い魂の残滓だった。わたしたち三人は、それぞれの傷を抱えながらも、互いに依り頼み、時にぶつかりながらも、少しずつ救済の光を探し求めていた。
篠原の視線の先にあるのは、わたしであり、そして過去の自分自身であった。彼の心の奥に隠された孤独と痛みは、わたしの存在と不可分に結びついている。
私たちの関係は、まるで破れた布の織り目のように綻びながらも、決して完全に裂けることはなかった。その織り目の間から、かすかな希望の光が漏れ出していた。
この夜、わたしはカフェの窓辺でひとり、街の灯りを見つめていた。外の世界は何も変わらずに動き続けているように見えたが、わたしの心はその真逆をたどっていた。静かな絶望とともに、しかし同時に未来への微かな憧憬を胸に秘めて。
この物語の終わりはまだ見えない。だが確かなことは、わたしがもう一度立ち上がり、歩き続けなければならないということだ。過去の影、現在の痛み、未来の不確かさを抱えながらも。わたしたちは生きている――その事実だけが、永遠に変わらぬ真実として。
東京の夜は、過ぎ去った季節の匂いを運ぶ冷たい風に濡れていた。街路樹の葉は赤く色づき、ひらりひらりと舞い落ちる。それはまるで、わたしの胸の奥に潜む無数の断片が風に吹かれて散っていくような、儚くも痛ましい光景だった。喧騒の中に潜む孤独は、幾重にも折り重なった影となって、わたしの心をじわじわと締め付ける。
カフェの薄明かりの下、わたしはいつものようにグラスを磨きながら、自分でも説明しがたい不安と闘っていた。篠原の静かな存在感は、そこにあるのにないかのように微妙な距離感を保っていたが、彼の瞳に潜む闇がわたしの心と共鳴しているのを感じることはできた。まるで、見知らぬ魂が微かに共鳴しあう一瞬の静寂のように。
「何を探しているのか、わかっているの?」と、誰かが言ったかのように、その言葉が頭の中をよぎった。わたしは答えを見つけられずにいた。探し求めるものは、はるか彼方の蜃気楼のように揺れ動き、触れられそうで触れられない。それは過去の栄光か、それとも未来の希望か、それともただの幻影か。
篠原は無言のまま、カウンターの端に沈み込んでいた。煙草の煙が彼の周囲にうっすらと渦を巻き、まるで彼の内面を覆う霧のようだった。彼の沈黙は重く、言葉のない会話が二人の間に広がる。わたしたちは言葉を必要としなかった。ただ、互いの存在を感じることで十分だったのだ。
わたしの心は幾層にも折り重なった記憶の迷宮でさまよっていた。
父の声、母の嘆き、姉の笑顔。すべてが遠く、そして近い。まるで手を伸ばせば届きそうで、しかし決して触れることのできない蜃気楼のように。
旧家の誇りは泥にまみれ、わたしはその誇りと共にゆっくりと堕ちていった。だが、その堕落は単なる滅びではなかった。そこには、再生の兆しが密かに息づいていた。
秋津の言葉が脳裏に蘇る。
「欠けたピースを探すのは、誰しもが抱える永遠の課題なのだ」
と。
わたしはその言葉の意味を、篠原の沈黙の中に探そうとしていた。彼の過去は謎に包まれているが、その沈黙が語るものは、ひとつの深い痛みであり、それが彼を形作っていた。
夜風が吹き抜け、カフェの窓をかすかに震わせる。わたしは手元のグラスに映る自分の顔を見つめた。そこに映るのは、知らず知らずに変わってしまった自分の姿。強がりと虚勢の裏に隠れた、傷ついた少女の影が揺れていた。
「あなたは、なぜここにいるの?」
篠原の声が低く、しかし確かにその空気を切り裂いた。彼の問いは、わたしの胸に深く刺さり、答えのない問いが幾度も反響する。
「ここにいる理由は…わからない。でも、ここでしか生きられないのかもしれない」
そう呟くしかなかった。
篠原は何も言わず、ただ静かにうなずいた。その背中には重い十字架がのしかかっているように見えた。彼の痛みとわたしの痛みは違うものだが、その重さは同じ次元にある。
わたしたちは、言葉よりもずっと深い場所で繋がっていた。
けれど、それは時に人を引き裂く刃にもなり得た。孤独の共鳴は、優しさにも冷酷さにも変わる。その微妙な均衡の中で、わたしたちは揺れ動いていた。
東京の夜は静かに更け、わたしの心の中にも静寂が訪れた。しかしその静寂は決して安らぎではなく、むしろ嵐の前の静けさのように、不安と希望が交錯する複雑なものだった。
夜が、音を立てて破れる瞬間があった。そう感じたのは、篠原がわたしの手を握ったそのときだった。非常階段の冷えた鉄の隙間から零れる冷気が、暗闇に満ちた夜の奥底をわずかに震わせた。その震えはまるで、大地の核が鳴動し、そこから小さな光が芽吹こうとする胎動のようでもあった。
かつてわたしは、旧家の秩序という箱庭で規則正しく生かされていた。祖母のしつけ、母の沈黙、父の不在……すべてがあらかじめ設えられた駒に過ぎなかった。襖の向こうには誰も覗いてはならない秘密があり、わたしはそこで目を閉じて、言葉ではない号令に従っていた。
だがいま、わたしはその庭の土を両手で掘り返している。爪の間に詰まる濡れた泥、手首に絡みつく根、腐りかけた木の実たち――それらが知る色は、ただ静寂に置かれたままでは決して見えなかった。朽ちゆくものたちの匂いの奥に燈る何かを、わたしはこの夜、感じ取っている。
カフェの薄明の中に居ると、コーヒー豆の焦げた匂いがいつの間にか記憶と交差して、わたし自身がゆっくりと溶けていくような感覚になる。客たちは名前すら覚える必要がない。何気ない言葉こそがもっとも深い傷を包んでいるようで、その齟齬の中にこそ、わたしの傷が息づいていた。
ある常連客が、左耳だけにイヤフォンをしたまま、指でリズムを刻む。その静かな儀式は、わたしの孤独をほんの少しだけ軽くしてくれるようだった。なぜなら、夜もまた、祈りと儀式であることを、わたしは知っていたからだ。
「堕ちるということは、失うことじゃない。奪われたものを探す旅だ」
これはわたし自身が気づいたことだった。皮肉なことだが、すべてが落ちてしまった後、人は初めて自分の素顔を見ることができる。その顔を見て、まだ足があるかどうかを確かめる。
篠原もまた、自分の奈落を歩いている。彼の沈黙には重力があった。言葉を飲むことでしか得られない尊厳と痛みが、その中に潜んでいた。わたしはその静寂に触れるたび、「誰かと同じ暗闇にいる」という安心を覚えていた。
ある夜、篠原はポケットから折れた万年筆を取り出し、テベーブルの上にそっと置いた。
「これ、父の形見なんだ」
その声は風に溶けて夜に消えた。わたしはその瞬間、まるで水底に沈んだ記憶が浮揚するように、自分の父の背中のシルエットを思い出した。
傾いた電灯の下、黙々とペンを走らせる父。その手の震え、紙をめくる音。そのすべてが鮮やかに、夕暮れの記憶の中で息づいていた。
家を出て以来、わたしは日記を放棄していた。過去を文書化し続けていたら、自分ごと記録されてしまうと思ったから。
けれど、万年筆を見た夜から、わたしは再び紙とペンを手に取った。汚れたテーブル、一つの光源の下で、筆は震えながらも走り出した。書くという行為は贖罪であり、復讐であり、そして、沈黙を砕く最初の一撃だった。忘却の海に沈められてしまった声たちを、わたしは一行ごと引き揚げていく。
古道具屋でひと目で、それとわかるブローチを見つけた。瑪瑙の丸に金の糸が巻かれた、それは幼き日の姉が最後にくれた贈り物によく似ていた。その瞬間、わたしの胸の中に姉の記憶が滝のように蘇る。笑顔、声、最後の微かな鼓動――聖遺物を胸に当てるようにして、わたしはひとり泣いた。
わたしは部屋で百貨店の真鍮枠ミラーを覗き込む。そこには過去の亡霊が映り込んで、頬の黄ばみ、唇の輪郭、瞳の奥に潜む罪。
けれども、その映像のどこかに、赦されの光がちらついていた。まるで「赦してくれないか?」と鏡が問いかけてくるようだった。
あの晩――声に出すのは恐れていた、姉の手紙の一節を、夜の闇に向かって読んだ。
「すべてを失ったとき、人はようやく自分を知る」
それはもはや残響でしかなかったが、それでも、凍った魂の奥底を震わせるに十分な力を持っていた。姉は堕ちたわけではない、自ら飛び降りたのだ。その果てに凍結した姿を獲得したというなら、姉は──わたしにとっての光だった。
そしてその決断の日、わたしたちはわずかに濡れた時間の扉を開いた。古びた屋敷は風に叩かれ、枯れ蔦が窓を塞ぎ、壁紙は剥がれ落ちている。墓場のようにひっそりとして、しかしそこにはまだ、柚子の匂いが残っていた。
祖母の仏間、母の縁側、そして父の書斎と廊下――どこもがわたしの過去のモルフォロジー。そのすべてをわたしは一歩ずつ踏みしめながら進んだ。
書斎の本棚には、『漂泊』という古書があった。薄い背表紙に「堕ちることは、天に背を向けることではなく、土に触れることだ」と走り書きがしてある。わたしはそこで初めて知った。父もまた――逃避ではなく、探求だったのだと。わたしは彼を責めることをやめた。
夜、廊下に立つわたしたちを濡らす雨粒。雫は天井から床へ、命のように落ちてゆく。篠原の声が静かに降り注いだ。
「生きている家って、泣くんだな」
それはまるで、過去のすべてが胸に沁み渡るような言葉。わたしは微かに微笑むしかなかった。その微笑みは、雨に溶けることなく、真実としてそこに在ることを知っていた。
暗闇の中、わたしたちは並んで座った。灯りを点さず、闇に身を委ねた。光のない場所にこそ鳴動がある。わたしの胸の奥、形を持たぬ音がほどけていくのがわかった。
篠原が問いかける。
「これから、どうする?」
わたしは答える。
「生きるの、湖底のままで」
これは逃避ではない。わたしたちは深く潜っただけだった。潜水者のように、光を求めず、しかしその存在を意識しながら。それが、わたしたちの静かな誓いだった。
闇の中に、沈黙の花が静かに咲いた。それは声を失いながらも、それでもなお開く――声を以て咲かない花。だが、そこに在ることの意味は消えず、確かにわたしたち自身を証明していた。
夜の余白が、そっと剥がれていく。まるで空が、ひとつずつ言葉を忘れてゆくように。
わたしは目を開ける。けれど、それは醒めるというより、ひとつの夢が静かに死んでいく感覚だった。
窓辺に、光がいた。音もなく、告げることもなく、ただそこに在る。それは祝福ではなく、赦しでもない。けれど、その存在の透明さが、胸を微かに揺らす。
篠原はまだ眠っている。呼吸という名の詩を編むように、彼は静けさの中に沈んでいた。わたしは彼の夢を知らない。けれどその額に落ちる朝の影が、まるで祈りのように見えた。
机の上に、一枚の白紙。それは沈黙の海。すべての言葉が溺れ、浮かび上がれずに消えていった場所。
けれど、今日は違う。今日の白紙は、名もなき種子だ。土に還るためではなく、いつか咲くために沈黙している。
わたしはペンをとる。書き始めではない。それは、名もなき「決意」が、ようやく地上に芽を出した瞬間だった。
「ここから、わたしを始める」
始まりはいつも、自分の声で書かねばならない。誰の引用でもなく、他人の眼差しを借りずに。
夢を見た。姉が坂をのぼっていた。夕暮れという名の黄昏色の血のなかを、彼女は一歩ずつ歩いていった。
わたしは声をかけなかった。なぜなら、その背中があまりに「遠くを見ていた」から。その目に映るものは、わたしの問いではなかった。それでも、風に揺れる彼女の髪が、いまだに心を締めつける。
白い柵の向こうに咲いていた花。名を知らぬまま、ひとひらの花弁が、わたしの足元に落ちた。
拾わなかった。拾わなくてよかった。
それは別れではなく、継承だったのだ。痛みごと、記憶ごと、わたしの中に咲くために。
今ならわかる。わたしはあの頃、誰かを憎んでいたのではない。自分の涙が、あまりに静かすぎて信じられなかったのだ。悲しみが叫ばないことに罪悪感を覚え、傷が血を流さぬことに怒りを抱いていた。
赦せないと思っていたのは、他者ではなく、自分の沈黙。痛みすらうまく持てなかった、自分の不完全さだった。
けれど今、わたしはようやく言える。
それで、よかったのだ。沈黙は、弱さではなかった。それは、わたしという存在が、傷を内包しながらも音を立てず立っていたという、かすかな誇りだったのだ。
夕方、篠原と並んで、湖のほとりに立った。水面に、名もなき風が吹く。そのさざ波のうえに、わたしは夢のなかの白い花をそっと置いた。
それは贖罪でも、追悼でもない。「見送る」ではなく、「渡す」だった。水は静かに受け取り、沈黙の底へ運んでいった。
わたしはその小さな儀式を終え、胸の奥で鳴った音に耳を澄ませる。
鐘ではない。鐘の余韻でもない。
それは、「わたし」というひとつの命が、わたし自身のなかで目を覚ました音だった。
篠原の名を、初めて呼ぶ。その音は、世界に届かなかった。けれど、わたしには確かに響いた。
返事はなかった。だが、それでよかった。声は、返されるためだけにあるのではない。存在を告げるためにあるのだ。沈黙のなかにあっても、世界に「わたしがいる」と刻むために。
わたしは、もう戻らない。痛みを否定しない。悲しみを排除しない。でも、あの場所には戻らない。
わたしは、堕ちた。果てしなく、静かに、音もなく。
けれど、その墜落の途中でしか見えない光があった。それが「微光」だった。
明るくはない。けれど、確かにそこに在る。夜を歩む者だけが出会える、小さな灯火。
それが、わたしだった。わたし自身が、わたしにとっての微光だったのだ。
だからもう、誰かの許しを待たない。わたしは、わたしを抱く。不器用に、ぎこちなく、でも確かに。
たとえこの先、うまく笑えずとも。過去が時折、血の匂いで蘇ろうとも。それでも、わたしは歩いていく。
名前ではなく、赦しではなく、ただひとりの、「わたし」として。
静かに鳴る、その音を携えて。
〜終〜
少し叙情的すぎるかな、と書きながら思いつつもこれで良いんだ、と確信してる自分がいました。
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