暴力と愛
暴力は形を変えた愛。愛は形を変えた暴力なのか?
暴力は強い愛と直結している。直接的な強い愛が暴力に繋がるのだ。執着。復讐。憎悪。愛が暴力ならざる物を暴力へと繋ぎ止めている。暴力の背後には愛が。歪んでいて醜く、それでいて見た者を余すことなく魅了する。愛しているが故に破局へ近づく。そんな不条理があって良いものか。それは本当に愛していると言えるのか。
間接的な弱い愛が平和に繋がる。微妙に愛すること。愛はいつも逆説的である。弱さこそが、強い力の不在こそが平和を繋ぎ止める力となるのだ。消極的な選択。現状維持は後退と同じこと。たとえ無限に後退することになったとしても引き金は引けない。余りにも幼稚すぎる? 短絡的すぎる? そうだったとしても。強さは悪夢の温床。地獄への道は善意で舗装されている。
強い愛で救済など訪れるものか。もしそうなら力こそ正義、思いの強さこそが正義となるではないか。祈れば祈るほどに愛が私の元を訪れ、去ることはない。そんな性質が愛だと言えるのだろうか。確かに愛の一面ではある。強い愛で救済されることもある。しかし、今度は救済自体を強い愛から解放せねばならない。強い力に代償は付き物だ。救うことは救われること。救われることは救うこと。強固な愛は文句なしに素晴らしい。それが強固である限りは。強固であるが故の脆弱さに気づくのはいつもそれらが破綻した後。
あなたが心に抱いているような愛。分かりやすく一義的で独善的な愛。万人に広く受け入れられるような愛。これらとは一線を画さねばならない。そう言ってもきっぱりとした線引きは不可能だ。これらの愛はドロドロとしていて胡散臭く、こざっぱりすることなんて金輪際ありえないからだ。そもそも愛を心に宿すなんて奇跡は恩寵に過ぎない。身も心も暴力じみたアイデアに染まりきってしまう前に思い出すことがあろう。強さの訳を。
暴力、ウイルス、イデオロギー、アイデンティティ、ナショナリズム。これらは対象を限定することでより多くの力を得る。狭く深く。限定された視野。幾多の偏見。では、それを逆手にとって広く浅く。狭さは力、広さは懐疑を招くとしても。愛が形を変えた暴力だったとしても。
うすぼんやりとした愛を心に宿そう。ほんのりと弱々しくそしてぽつりと呟こう。ちょっと情けないスローガンではあるが。出会い頭に頭突きをするような振る舞いは避けるのが吉だ。ほのかに賢明であるより徹底的に愚かであれ。身勝手な愛が己の身を破滅へ誘う限りは。




