「娼婦の娘」と言われた公爵令嬢
「ねぇ、あの方が……例の?」
「……きっとそうよ。だって、そっくりじゃない」
青い煌びやかなドレスを着た令嬢が、夜会のホールに姿を現した途端、あちらこちらからコソコソと囁き合う声がする。本人たちは、その令嬢に聞こえないようにしゃべっているつもりなのかもしれないが……、全部の内容が彼女に聞こえてしまっている。
その令嬢は、小さく皆にわからないように息を吸い気合い入れた。そして、陰口を叩く令嬢たちに向かって堂々とした佇まいで「聞こえている」という圧をかけるために、力強い視線を飛ばす。そうすればコソコソと囁き合う令嬢たちは、気まずくなって視線を泳がせ大人しくなる。
「セシーリア、大丈夫か?」
隣でエスコートしてくれる兄のアクセルが、心配げに声を掛けてくれた。
「大丈夫ですわ、アクセルお兄様。いつものことですもの。私、ああいうこと言う方には、睨みつけてやるって決めていますの」
セシーリアは、ツンとすまして何でもないことのようにしゃべる。
「そうか……。でも、無理するなよ。何かあったら、俺やレーヴィーに言うんだぞ」
優しい兄は、そう言って妹を気遣う。そんな優しい兄が大好き。だからセシーリアも、心配しないでという気持ちを込めて笑顔を返した。
兄と仲睦まじく笑顔で談笑している令嬢は、セシーリア・ブランシェットといい公爵家の長女。彼女には、エスコートしてくれている兄の他に兄妹が三人いる。父と母、兄妹5人そして祖父母の九人家族。セシーリアの家名であるブランシェット公爵家は、社交界では有名な家柄。有名であるのは、国で四つしかない公爵家だからという理由ではない。そこには、とても残念な理由が隠されている。
セシーリアの父であるエディー・ブランシェット公爵は、社交界きってのプレイボーイ。結婚しているのに、常に堂々と愛人をそばに置き、正妻と一緒にいるところを見た者がいないほど女性にだらしが無い。しかも、五人いる彼の子供たちは、みな愛人の子で母親が違うと噂が飛び交う始末。だけどその噂は本当で、正確には次男と長女の母親が同じというだけで、みな愛人の子供なのだ。
そんな事実は公にできないので、表向きには子供たちは全員彼の正妻であるセレスティーヌ・ブランシェットの子ということになっている。
ブランシェット公爵家とは、そういう家で有名なのだ。だから社交場で、ブランシェット公爵家と聞けば皆微妙な顔をする。そんな家の子供として生まれたセシーリアは、昔から人の集まる所に行くとこうやって陰口を叩かれる。本来ならば、公爵家の令嬢として皆に高貴な目で見られ羨望の眼差しを向けられるはずなのだが……。残念ながら、そんな経験は一度もない。
だけど、セシーリアはもう開き直っている。誰に何と言われても、父親以外の家族は大好きだし何より育ててくれた母親のことが大好きだから。何も知らない人間に陰口を叩かれたとしても、堂々としていようと決めたのだ。
セシーリアは、何事もなかったように兄とおしゃべりをしながらホール内をそれとなく見渡していた。セシーリアが夜会に出席するのは、実はまだ三回目。今年十六歳になったセシーリアは、先日デビュタントを迎えたばかりでまだ初々しさが残る。夜会と言えば、基本的には出会いを求めて来る場所だ。婚約者の決まっていないセシーリアは、素敵な出会いを期待してドキドキしている。どこかに誠実そうで素敵な方はいないかと窺っていた。
「誰か良さそうな人がいる?」
まだこういった場所に不慣れな妹が、ソワソワしながらホールを見渡しているのを横で見ていたアクセルが、耳元でコソッと呟く。
「もう、お兄様ったら……。そんなに簡単に見つからないわ!」
「ははっ。ごめんごめん。とりあえず、僕の友人に挨拶して回ろうか?」
兄の言葉に、コクンとセシーリアが頷いた時だった――――。
「セシーリア・ブランシェット公爵令嬢」
突然、セシーリアの後方から声がかかる。びっくりしたセシーリアが振り返ると、そこには、この国の第三王子であるヴァージル・レイ・インファートがいた。
セシーリアもアクセルも、頭を下げて王族に対する礼を執る。
「二人とも頭を上げてくれないか? 突然、呼び止めてすまない」
ヴァージル殿下の許しがでたので、二人はゆっくりと頭を上げた。セシーリアの瞳に映ったのは、煌めく金髪の持ち主で、端正な顔は、いかにも王子といった美男子だった。
「ヴァージル殿下、お久しぶりでございます」
アクセルが、まず先に挨拶をした。
「ああ、アクセル、久しぶりだな。君の妹が、余りにも美しくて声を掛けてしまったよ。ダンスにお誘いしたいのだが、いいか?」
アクセルは突然の妹への誘いで虚を衝かれるが、冷静にセシーリアと目を合わせる。セシーリアは、驚いているようだったが、どちらかというと歓喜というよりは動揺の方が強そうだった。
「ヴァージル殿下、妹はこういった場にはまだ不慣れでして……。殿下とダンスと言うのは、少し荷が重いようなのですが……」
アクセルの言葉に同調するかのように、兄の腕を握るセシーリアの手に力が入る。しかし、アクセルの言葉など聞いていなかったかのように、ヴァージル殿下はセシーリアの顔を覗き込む。
「セシーリア嬢、どうか私とダンスを踊っていただけないだろうか?」
そうヴァージル殿下が言った瞬間、周りにいた令嬢から「キャー」という黄色い声が飛ぶ。セシーリアはどうすればいいのかと戸惑っていたが、ヴァージル殿下が手を差し出してきてしまう。皆が見ている前で、王族からの正式なダンスの申し入れを断るわけにはいかない。セシーリアは、どうして自分なのかと疑問に思いながらおずおずと手を差し出した。
「はい。喜んで……」
セシーリアが手を差し出すと、力強い力で引き寄せられる。
「では、しばらく妹を借りて行くよ」
そう言うが早いか、ヴァージル殿下はセシーリアを伴ってダンスホールへと歩きだす。セシーリアの腰に当てられた手が、知らない男の人の手だと思うとドキドキしてしまい頬が赤くなる。
「あ、あの……」
「ん? どうした?」
「どうして、わたくしなのでしょう? わたくし、殿下とお会いするのは今日が初めてではなくて?」
セシーリアは、突然のダンスの申込みに胸がドキドキしていた。公爵令嬢として教育されてきた娘なので、ある程度の免疫はあるつもりだ。でも年頃の娘が、王子からダンスを申込まれてドキドキせずにはいられない。それに実は、セシーリアがダンスに誘われたのはこれが初めてなのだ。
セシーリアは、誰が見ても綺麗な女性だ。真っすぐな赤い髪が目を引き、目力が強く意思が強そうな魅力的な瞳を持っている。年よりも少し大人っぽく見え、本来ならひっきりなしにダンスのお誘いがあっても良さそうなもの。実際に見目麗しい娘だけあって、周りの男性たちも興味は持っているようでチラチラとセシーリアを気にしているのはわかっている。だけど、前述のように父親の悪評のため、そして自分の出自にまつわる噂のために誰も近寄って来ないのだ。だから、どうして王族である方が自分をダンスに誘うのだろうと不思議で仕方がない。
「さっきも言っただろう。アクセルが連れている女性が、余りに美しいからダンスに誘いたくなったって」
そう言って、ヴァージル殿下はウインクを飛ばす。その仕草に驚くセシーリアは、目をぱちくりと瞬く。
「ははっ。とても可愛い反応だ」
ヴァージル殿下は、何が気に入ったのかとても機嫌が良さそうでにこにことセシーリアを見ている。ホールにかかる音楽が、ワルツに変わりそれに合わせて足を動かす。ヴァージル殿下のリードは、兄と踊るのとは違ってとても優しく丁寧で、彼の艶めく紫の瞳に吸い込まれそうになる。セシーリアは、自分がどこかの国のお姫様になったように胸をドキドキさせていた。
♢♢♢
夢のような夜会を終えた翌日、驚く知らせがブランシェット公爵家を襲う。昨日の夜会でセシーリアとダンスを踊ったヴァージル殿下からの手紙によるもので、セシーリアと婚約がしたいという申し出だった。
本人のセシーリアは、夜会の疲れから遅くまで眠っていたところを母親と次兄のレーヴィーに起こされ執務室に呼び出される。そこで、ヴァージル殿下の申し出を聞くことになった。
話を聞いたセシーリアは、突然のこと過ぎて嬉しいと思うよりも怖さの方が先に来てしまう。
「わたくしには無理です! わたくしが殿下の妻になるだなんて……。きっと殿下は、わたくしの生まれのことを知らないんです。知ったらきっと嫌になるわ。それに、殿下のことを何も知らないのに婚約だなんて……」
セシーリアは、戸惑い拒否してしまう。セシーリアの話を聞いていた、育ての親であるセレスティーヌ・ブランシェットは、娘を落ち着かせるように穏やかな口調で話す。
「セシーリア、ヴァージル殿下は、純粋にあなたのことを好いてくれたのかもしれないわ。一度、お会いしてお話してみてからでも遅くはないはずよ」
母親の言葉は、セシーリアもその通りだと思うがどうしても気が進まない。返事を濁していると、母親の隣に座る次兄のレーヴィーが口を開いた。
「何が気に入らないんだ? セシーリアみたいなじゃじゃ馬をもらってくれるっていうんだから、ありがたいじゃないか」
レーヴィーは、眼鏡の奥に意地悪な瞳を浮かべながら妹に言う。次兄のレーヴィーは、セシーリアと唯一母親が同じで他の三人の兄妹たちとは少しだけ距離感が違う。セシーリアの下にいる妹に接する時よりも、自分にはいつも意地悪なことばかり言うのであまり好きではない。昨日の夜会でエスコートしてくれた長兄のアクセルの方が、セシーリアは好きなのだ。
「もう、わたくし、じゃじゃ馬なんかじゃないわ! レーヴィーお兄様には、わたくしの気持ちなんてわかる訳ないじゃない!」
セシーリアは、レーヴィーを睨みつける。そんな二人の兄妹を横目に、母親はあきれ顔だ。
「全く、あなたたちはいつもそうなんだから……。レーヴィー、セシーリアはとても素敵な淑女よ。私の自慢の娘なのだから、そんな風に言うものではないわ」
母親に咎められたレーヴィーは、面白くなさそうに肩を落とす。
「悪かったよ。でも、なんでそんなに嫌がるんだよ。殿下ほどの方なら、それなりの情報は確認してから申し込んでいるはずだ。この家が訳アリなのくらい知っているに決まっているだろ」
「だって……。もしかしたら、ぉ…ぅ…さまと同じかもしれないじゃない……」
「なんだよ? ごにょごにょ言うなよ。はっきり言えよ」
セシーリアは、兄の言葉にカッとなってしまう。
「だから、お父様みたいに他に愛人を作るつもりなのかも知れないじゃない。だって、あんなに素敵な人が、わたくしに結婚の申込みなんておかしいもの! わたくし、お母様やカロリーナ様みたいになりたくないの!」
言ってしまってから、セシーリアはハッと口元を手で押さえる。後悔の嵐が襲い泣きたくなる。カロリーナとは、父親の愛人でセシーリアを産んだ女性の名前だった。
母親を見ると、悲しそうな辛そうななんとも言えない表情をしている。
「おい、なんてことを言うんだよ!」
レーヴィーが、声を荒げる。
「違うの! わたくし、わたくし……」
「ごめんなさい」の言葉が出ないセシーリアは、座っていたソファーから立ち上がり駆け出すと執務室を出て行った。その時に、後ろから「待って」と母親の声が聞こえたけれど、素直になれないセシーリアは振り向かずにそのまま部屋を出てしまう。
それからの数日間、母親を避けるように暮らした。早く謝ってしまいたかったセシーリアだったけれど、どうやって謝っていいのかわからなくてどんどん時が過ぎてしまう。大好きな母親に言って良い言葉じゃないのは分かっている。だけどそう思う気持ちは止められなくて、自分だけの胸の中にしまっておくつもりだった。レーヴィーお兄様が、意地悪ばかり言うからついつい言葉にしてしまったのだ。
セシーリアは、気が強くて意地っ張りで、可愛くない性格なのだと自分でわかっている。こんな自分は嫌いなのに、どうしても素直になれない。
今日は、同年代が集まるお茶会に出席していた。いつもと同じように遠巻きにされているセシーリアは、一人ぽつんと浮かない顔で佇んでいる。ガーデンで開催されているお茶会では、出席している令嬢たちが笑顔を浮かべて楽しそうにおしゃべりに花を咲かせていた。
いつもだったら、もう少し自分から周りに溶け込むように努力しているのだが、今日はそんな元気もない。家にばかりいても仕方がないと気分転換に出席したお茶会だったが、やはり欠席すれば良かったと後悔していた。
すると、ガーデンの入り口付近で何やらざわざわとにわかに騒がしくなる。セシーリアが「何かしら?」と入り口に顔を向けると、ヴァージル殿下の姿が目に入った。突然のことでセシーリアは、固まってしまう。どうしようと思っていたのだが、たくさんの令嬢たちに囲まれたヴァージル殿下は身動きが取れないようだ。安堵の息をもらすセシーリアは、漏れ聞く令嬢たちの話に耳を傾けた。
どうやらヴァージル殿下は、今日のお茶会の主催である令嬢の兄の元に遊びに来ていたらしい。折角だから妹たちのお茶会に顔を出してくれと頼まれてやってきたとのことだった。
それを聞いたセシーリアはホッとする。自分に会いに来たのかと一瞬考えてしまったが、よく考えたらそんなはずはない。あの話はお断りするように、母と兄に伝えたのだから……。頬を染めながらヴァージル殿下と話をする令嬢たちを見ながら、やっぱり彼の隣にいるのは自分ではないと改めて感じる。
セシーリアは、そこにいるのが辛くなりそっとその場を後にした。お茶会が終わるだろう時間まで、ガーデン内を散策しようと会場を離れる。歩いていると綺麗な花がたくさん咲いているので、沈んだ気持ちが少しだけ癒される。鮮やかな黄色や、はっきりとした赤い花、艶のある緑に囲まれていると、段々と気持ちも落ち着いてきた。
セシーリアは、自然の中にいるのが好きだ。ありし日の母親と過ごした夏を思い出すから。
数年前のセシーリアは、自分で言うのもなんだがかなり性格の悪い令嬢だった。貴族の学園に通う前で、社交デビューもまだの思春期真っ只中。目に映る全てが気に食わなくて、周りに当たり散らしていた。メイドにわざと意地悪なことを言ったり、我儘ばかり言って母親を困らせて、兄妹ともぎくしゃくしていて喧嘩ばかりだった。手にする物は最高級の物じゃなきゃ許せなくて、歳に合わない高価な物ばかり買い漁って白い目で見られていた。
そんなセシーリアを心配した母が、夏の休暇を使って自分を田舎の領地に連れ出したのだ。しかも嘘をついて、従者やメイドを一切連れずに二人だけで小さな空き家の一軒家で二週間を過ごした。
その家は、母親の実家の領地にある空き家だった。いつもならおじい様とおばあ様に会いに領主邸に向かうのに、着いた場所は平民が暮らすような家でびっくりしたのを覚えている。
馬車を降りて不思議に思ったセシーリアが「ここはどこなの?」と母親に聞くと、「ここで、二週間二人だけで暮らすのよ。楽しそうでしょ?」と言われたことを今でも鮮明に覚えている。
セシーリアは、母親が何を言っているのか理解できずにその時は怒鳴り散らした。それなのに母親は全く動じずに、笑顔で早く入りましょうと言って自分を置いて家の中に入って行ったのだ。当時のセシーリアは、自分で荷物を持つなんてしたことがなかったし、メイドがいない暮らしなんて想像もつかなかった。
だけど馬車はすでにいなくなっていて、強制的にその家で二週間暮らさなくてはいけなくて、母親の言うことを聞くしかなくて渋々その家に足を踏み入れた。中は豪華とは程遠い造りで、簡素でみすぼらしく公爵令嬢の自分が住むにふさわしいとは言えるものではなかった。
それからの毎日は、セシーリアにとって最悪だった。何をするにも使用人の手を借りていたのに、ここでは全部自分でやらなきゃいけなくて。どうして公爵令嬢であるセシーリアが、こんなことをしなきゃいけないのだと母親にぶつかってばかりいた。
その度に母親は、決して声を荒げることなく優しく言葉で諭してくれた。兄妹の多いセシーリアだったから、母親とこんな風に一対一で向き合ったことがなくそのことにも戸惑いが隠せなかった。
この時まで知らなかったのだが、母は何でもできる女性だった。元々、母の身分は子爵令嬢で公爵家の嫡男と結婚できる身分ではなかったのだけど、父親のだらしない理由からそれを補える優秀な女性が正妻として迎えられた。特殊な事情を抱えた婚姻だったのだが、母の方も実家への援助がどうしても必要で結婚せざるを得なかったそうだ。
そんな訳で下級貴族だった母は、公爵家のように使用人を雇える実家ではなかった為、自分ができることは何でもやっていたのと教えてくれた。だから、セシーリアにも一人で何でもできるようになって欲しいのだと話す。
最初は、母親の言っている意味がわからなかった。公爵令嬢である自分は、使用人を使うのが当たり前だし、綺麗に着飾って美しくなければいけないのだと思っていた。だけど、その家で一日二日と暮らすうちに段々と母親が言いたいことを理解してくる。
セシーリアは、使用人がいなければ何もできない娘だったのだ。ドレスから簡素なワンピースに着替えることもできなかったし、お風呂に一人で入れない。荷物を持って運ぶことが、こんなに重くて大変だってことも知らなかった。料理を食べることは好きだけれど、それがどんな風に作られているかなんて知らなかった。こんなに手間がかかって作られていたなんて、知ろうともしなかった自分が恥ずかしい。だけど、そんなに簡単に素直になることができず意地を張っていた。
母親が言いたいことを段々と理解していたセシーリアだったけれど、ある日夕飯の用意を手伝っていて包丁で誤って指を切ってしまう。自分の指を流れる血を見て、何かがプツンと切れてしまった。我慢の連続だった生活が限界だったのだ。
「もう嫌! 何でわたくしがこんなことしないといけないのよ! わたくしは、公爵令嬢なのよ? この国でトップの令嬢なのに、こんなことできる必要なんてない!」
セシーリアは、泣きながら母親に訴えかけた。だけど母は、真剣な瞳でいつもとは違う意思の強さで言葉を紡ぐ。
「セシーリア、公爵令嬢だからって何だと言うの? セシーリアは偉いの? 何もできないのに? 豪華なドレスを着て着飾って、価値のわからない宝石を買い漁って。身分の低い者を馬鹿にして。貴方から公爵令嬢という肩書を取ったら一体何が残るの? ただのセシーリアになったら、何もできないただの女の子じゃない。生きていく為に必要なこと何もできなくてどうするの!」
今まで声を荒げてこなかった母が、セシーリアを叱り飛ばす。言われた言葉は本当で、今のセシーリアには痛いほど理解できた。だけど、セシーリアにはずっと誰にも言えずに抱えていた想いがあった。
零れてくる涙が止まらなくて、もう顔はぐしゃぐしゃ。セシーリアは、堪えきれなくて思いの丈を母にぶつけた。
「だってわたくしは娼婦の娘だから、公爵令嬢でいる為に誰よりも気高く綺麗でいないといけないじゃない! それなのに……それなのに……。わたくしって、こんなに何もできないのね……」
セシーリアは、母の顔を見ることができず頭を俯け手で顔を覆う。すると、母に強く強く抱きしめられた。
「誰があなたにそんなこと言ったの! あなたは私の子供なの! 産んでくれた人がそうであったとしても胸を張りなさい。あなたを産んでくれた人は、とても気高くて綺麗な人よ。赤ちゃんだったあなたを私に手渡してくれた時に『預けるのが、貴方で良かったと思っているから』って言ってくれたのよ。実の母親から娘を取り上げる罪悪感に押しつぶされそうだった私が、どんなに救われたかわかる? どんな気持ちでその言葉を言ったのかわかる? あなたを産んでくれたのはそういう人なの。誰かに何かを言われたら、あなたのその強い瞳で睨みつけてあげなさい!」
セシーリアは、ずっとずっと言えなくて抱えていた気持ちが、スッと消えてなくなる気がした。セシーリアを産んでくれた人は、父親が客として行っていた娼館の女性だった。それは紛れもない事実で、思春期の少女が背負うには重たく辛いものだった。だけど、母が言うような素敵な人なのなら、これからは胸を張って生きていける。
セシーリアは、今までの性格の悪さを流すように母親の胸の中で声を出して泣いた。
そこからのセシーリアは、人が変わったように母に教えを乞い本当に素敵な淑女になるために努力をしてきた。その時に二週間暮らした家が、自然の中の素朴な屋敷だったから、花や緑に囲まれていると落ち着く。あの思い出は、セシーリアにとってとても大切なものだから。
昔を思い出していたセシーリアだったが、ふと我に返る。かなり長時間、そこにいたことに気付く。もう、お茶会もお開きになっているだろうと思い、自分もお暇させて貰おうと先ほどいた場所に戻ろうと足を向けた。
ガーデンパーティーが行われていた場所の近くまで来ると、誰かの話し声がどこからともなく聞こえてくる。セシーリアは、主催者の令嬢がまだいるのならば一言挨拶をとそちらに向かった。
話し声に近づくにつれて、どうやら複数人の声だということがわかる。まだ、おしゃべりが続いているのかと疑問に思いながら歩いて行くと、数人の令嬢に囲まれたヴァージル殿下がそこにはいた。
セシーリアは、咄嗟に植木の陰に隠れて令嬢たちの話を聞いてしまう。
「ヴァージル殿下、まだ話し足りないですわ。お部屋に戻って、もう少しお付き合い下さいませ」
「いや、私はもう失礼させてもらうよ。本当は、話したい人がいたのだけど……。もう帰ってしまわれたみたいなので」
木の影からそっとセシーリアが、声のする方を見るとヴァージル殿下は三人の令嬢に囲まれていた。しかもセシーリアがヴァージル殿下に気づくのが遅れたため、かなり近くまで来ていたので話し声が鮮明に聞き取れてしまう。
「まあ、話したい人だなんて一体どなたですの? 今日来ていた令嬢とは、皆さまと言葉を交わしていたと思うのですけど?」
今日の主催者である令嬢が、不思議そうに首を傾げている。セシーリアも、こんな盗み聞きなんて良くないと思いながら令嬢が投げかけた質問が気になり聞き耳を立ててしまう。
「セシーリア嬢が来ていると聞いたんだ。探したけれど見当たらなかったのだが、今日は来ていなかったのだろうか?」
ヴァージル殿下の声は、心なしか残念さを醸している。自分の名前を聞いたセシーリアは、ドキンッとひと際大きく胸が跳ねる。
「セシーリア様ですか? どうして彼女とお話を? 彼女は、殿下とお話するのに相応しくありませんわ」
セシーリアも顔見知りの侯爵令嬢が、扇子を顔に近づけてそう断言する。今まで、幾度となく聞かされてきた言葉にセシーリアの心は傷つく。そんなことは自分でもわかっているのに、他人から聞かされるといっとうズキズキと胸が痛い。ヴァージル殿下が何と答えるのか、怖くて手をギュッと握りしめる。
「それはどういうことだ?」
ヴァージル殿下の声に怒りが混じる。
「だって、あの方は娼婦の娘なのですよ。殿下がお相手する女性ではありませんわ」
セシーリアは、ひゅっと息が止まる。
「私は好きじゃないな」
ヴァージル殿下が、令嬢の言葉に返事をした。その声は重く、そんなに大きな声ではなかったのにその場によく響きセシーリアにもよく聞こえた。セシーリアは、やっぱりそうなのだとじわじわ瞳に涙がせりあがってくる。言われ続けてきた、もう慣れっこになっていたけれど、こんな風に聞いてしまうと悔しく悲しくてもうその場にいられない。
セシーリアが一歩後ろに後ずさった瞬間、小枝を踏んでしまいパキッと音が鳴ってしまう。
「誰だ!」
怒ったようなヴァージルの声が飛んでくる。音に気付いた四人は、一斉にセシーリアの方を見た。セシーリアとヴァージル殿下の目が合い、セシーリアはその場を駆け出した。
「セシーリア嬢! 待ってくれ!」
後ろでヴァージル殿下の声がしたが、セシーリアは止まらずに走って逃げる。だけど、高いヒールを履いているセシーリアが、男性よりも早く走れるわけもなくあっさりとつかまってしまう。ハーハーと息を切らせたセシーリアの腕を、ヴァージル殿下に掴まれてしまい、せめてもの抵抗で顔を背けた。泣いている顔を見られるのが嫌だった。
「すまない。嫌な言葉を聞かせてしまった。だけど、お願いだから聞いて欲しい」
ヴァージル殿下は、先ほどとは違って必死にセシーリアに懇願している。セシーリアは、彼の必死さに負け赤くなった目を伏せてコクンと小さくうなずいた。その様子を見たヴァージル殿下は、セシーリアにハンカチを差し出す。大人しくハンカチを受け取ったセシーリアを確認すると、すっと腕を背中と膝裏に回しセシーリアを持ち上げた。
「キャッ。殿下、降ろして下さい。一体何をなさるの!」
突然のことに驚き、ハンカチで目を覆いながら強い口調で告げる。
「走らせてしまい脚を痛めただろう? 屋敷まで送るから一緒に出よう」
必死に走っていたので気づかなかったが、ヒールの高い靴で走ったため靴擦れができてしまっていた。足に注視すると痛みがじわじわと広がってくる。
ヴァージル殿下は、セシーリアの返事を待たずにスタスタと歩き出す。
「ごめんなさい。わたくし重たいわ……」
「君が重たかったら、私は甲斐性無しだな」
ふふっとヴァージル殿下が笑みを零す。その顔を、セシーリアは間近で見てしまい頬がぽっと赤くなる。どうしていいかわからないセシーリアは、抱えられている間ずっと下を向いていた。
ヴァージル殿下の馬車に乗せられて、ゆっくりと走り出す。ヴァージル殿下は、セシーリアが乗ってきたブランシェット家の馬車に、先に帰るように促し自分が送っていくことも伝言で頼んでくれた。
ヴァージル殿下は、セシーリアの向かいの椅子に座りこちらをずっと見ている。見られていることに耐えられなくなったセシーリアは、先ほどのことを問いただす。
「ヴァージル殿下、わたくしに聞いてもらいたいことってなんですの?」
「きっと君は誤解しただろうと思って。それは嫌だったんだ」
セシーリアは、ヴァージル殿下が言う意味がわからなかった。自分は何も誤解なんてしていない。娼婦の娘が王族に好かれるはずがないのだから……。
「セシーリア嬢。私は、君が好きだよ。だから婚約の申込みをした。それを伝えたかったんだ」
ヴァージル殿下の顔は真剣そのもので、嘘を言っているように感じられない。だけど、セシーリアは彼の言う言葉が信じられなかった。だって、彼に好かれる要素なんて自分は持ち合わせていないから。
「ですが、どうしてわたくしなんですの? 先ほど言われていたことは本当です。殿下が好きになるような女性ではありません……」
セシーリアは、言いながら手の中にあるハンカチを知らぬうちに強く握りしめる。
「セシーリア嬢。君は本当にそう思っているの? 実の母親が娼婦だからって蔑んでいるのか?」
セシーリアは、首をぶんぶん振ってヴァージル殿下をキッと睨む。
「いいえ。わたくしを産んでくれた方は素敵な人です。母に誇りなさいと言われて、恥ずかしいことなんて少しもありません」
「うん。私も同じ考えだ。私は、セシーリア・ブランシェットという一人の女性を好きになったんだ。誰から生まれたとか、そんなのは関係ないんだよ」
「でも、さっき好きじゃないって……」
セシーリアは、さっき間違いなく聞いたのだ。また涙が零れそうになるのをグッと堪える。
「君に言ったんじゃないんだ。その続きの言葉があった。『私は好きじゃないな。そういうことを言う女性は』と言うつもりだった」
セシーリアは、バッと勢いよく顔を上げヴァージル殿下の顔を見る。彼の瞳は、可愛いものを見る愛に溢れていた。自分の勘違いがわかると、途端に恥ずかしさが押し寄せ顔がかぁーと熱くなる。
「そんな、わたくし……。早とちりを……。でも、それでもわたくしを好きになる要素なんて見当たらないわ……」
セシーリアは、困惑の表情でヴァージル殿下を見る。そんなセシーリアに静かに語りだす。
「私がセシーリア嬢をみとめたのは、社交界デビューをしたデビュタントの時だよ。王妃から祝福の祝いを一人ずつもらうために、その日のデビュタントを迎える令嬢たちは、ステージに上がってきただろう?」
「はい。確かその時に、王族の方々も一緒に見守っていらっしゃいました」
セシーリアは、デビュタントの日を思い出しながら答える。あの日は、とても緊張していたけれど確かヴァージル殿下もその場にいたはずだ。
「そうだね。祝福の言葉は高位の令嬢から授かるから、セシーリア嬢は一番初めに言葉をもらい終わったら端に避けていた。そしてその後に続く令嬢たちを、心配そうな顔で応援していた」
まさか、ヴァージル殿下に見られていると思っていなかったセシーリアは驚く。自分も緊張はしていたけれど、一番に終わってしまったので後は気が楽だったのだ。何となく同じ年の令嬢たちを見ていたのだが、後ろに行けば行くほど令嬢たちがカチコチに緊張して顔を強張らせていた。そんな令嬢たちを見ていたら、失敗せずに王妃からの祝福を受けられますようにと自然と応援していた。
「高位貴族の令嬢にしてはいい子だなと思ったよ。そうするうちに、一人の子の髪飾りが取れてしまったことに気付いた君は、スッと彼女に近づいて直してあげていただろ? それを見て、もう目が離せなくなった。きっともう好きになっていた」
セシーリアを見るヴァージル殿下の瞳は、熱がこもり直視できない。
「そんなことくらいで……」
セシーリアは、何て言っていいのかわからず小さな声でそう呟く。
「君はそんなことっていうけれど、それをできる令嬢は中々いないよ。僕は小さい頃からずっとデビュタントを見ている。みんなあの日は自分のことで精一杯。人の心配をする余裕なんてないし、まして高位の令嬢となれば自分を良く見せるのに必死なものだよ」
こんな風に自分のことを、家族以外で褒めてもらうのは初めてで、どう言葉を返していいのかわからない。まして、直球で異性から好意を寄せられたこともないセシーリアは、照れてしまい顔が真っ赤だった。
「私が、セシーリア嬢のことを好きだっていうのは信じてもらえたかな? 婚約の申込みも断らずに、考えてもらえないだろうか?」
ヴァージル殿下の言葉を信じるしかなかった。だって、セシーリアを何の色眼鏡もなく見てくれたのは初めての経験だったから。本当に好きだと思ってもらっているのなら、お断りする理由も見当たらない。
「……はい。考えます……」
初めて告白を受けたセシーリアは、恥ずかしくて顔を上げることができなかった。
ヴァージル殿下から、告白を受けた後の馬車は静かだった。セシーリアは、こんな経験は初めてでどういう風に振る舞うべきなのかわからない。ヴァージル殿下の自分を見る眼差しを感じて、彼の顔を見ることもできず馬車の外の景色に目を向けていた。
セシーリアは、年頃の少女たちと同じように誰かと夢見るような恋をしてみたいと思ってはいた。だけどこんなに突然、その機会が巡ってくるものなのだとは思っていなくて戸惑いの方が強い。ヴァージル殿下が良い人なのはわかったけれど、自分が彼に恋をするのかはわからない。セシーリアに真っすぐに好意を向けてくれた人は、初めてだったから嬉しいけど恥ずかしいし顔を覆いたい気分。
家に帰ったら、誰かにこの気持ちを聞いてもらいたい。兄たちに話すのは抵抗があるし、だからって妹のフェリシアにはまだ刺激が強すぎる。やっぱりお母様に一番に話を聞いてもらいたいって思った瞬間に思い出す。
今は、その母とぎくしゃくしていたことを――――。
不意に、ここ数日間ずっと母親に謝りたいと思っていた気持ちが蘇る。今朝までずっとそのことに頭を悩ませていたはずなのに、ヴァージル殿下の登場でそれが吹き飛んでいたことに自分でも驚く。なんて自分はげんきんな性格なのだと溜息をついてしまう。
「おや、溜息なんてついてどうしたのかな? 私の気持ちが迷惑だった?」
声をかけられたセシーリアは、ハッとしてヴァージル殿下の顔を見る。彼は、とても残念そうだけれどセシーリアを気遣ってくれていた。
「申し話ありません。そうではなくて……」
「ん? 何かあるのかな? 私で良ければ話を聞くよ?」
セシーリアは、話してしまおうか迷う。今まで、母親のことを誰かに相談したことはなかった。相談できるような友達はいなかったし、兄妹たちも皆それぞれ思うところはあるようだったけれど、そういう話はしたことがなかった。年上の男性で、セシーリアを少なからず想ってくれている人になら話してもいいだろうか? むしろ、知ってもらって嫌な女だと思われたらそれは仕方がないのではとも思う。
「あの……わたくし……。実はお母様に酷いことを言ってしまって、謝りたいのに素直になれなくて困っていて……」
セシーリアは、ヴァージル殿下に思い切って打ち明けてみるが段々と声が小さくなる。
「差し障りがなければ、どんなことを言ったのか教えてもらっても? もちろん、誰にも言わないと誓うよ」
セシーリアは、ヴァージル殿下と目を合わせる。彼の真摯な瞳に嘘はないと信じてみたくなった。
「わたくし、お母様のようになりたくないと言ってしまったのです……。お母様のことは大好きだし、素敵な女性だと思っているし、尊敬しているんです。でもやっぱり、お母様みたいな結婚はしたくないって気持ちは消せなくて……」
「ブランシェット家の婚姻事情は有名だね。年頃の娘だったらそう思うのは当たり前だと思うよ。それは公爵夫人だってわかっているよ」
「でも、お母様がお父様と結婚してくれたから、わたくしのお母様になってくれたのに……。それなのにわたくしは、お母様を否定するようなことを言って……酷い娘です……」
セシーリアは、言葉にして初めて自分の気持ちを理解した。言ってしまった言葉に嘘はない。だけど、その言葉は母を傷つける。本当の気持ちだからこそ、謝って終わりにできなかった。
「セシーリア嬢、その言葉をそのまま公爵夫人に伝えてごらん。きっと許してくれるはずだよ。よし、どうせ私もセシーリア嬢を送るついでに、ご挨拶させて頂こうと思っていたからね。一緒に謝りに行こう」
「えっ。そんな……ヴァージル殿下にそんなことさせられません。わたくし、子供みたいです」
セシーリアは、恥ずかしくてツンと拗ねる。
「そんなことないよ。セシーリア嬢にとって、とても悩んでいたことなのだろう? 誰かがいた方が勇気が出せるし、私も好きな人の力になれるなんて嬉しいよ」
「す、好きな人っ!?」
セシーリアは、ヴァージル殿下の直球の好意にたじたじだ。顔を赤くして恥ずかしさで涙ぐんでいるのに、目の前に座るヴァージル殿下は余裕綽綽。自分ばかりがあたふたしていて、何だかひどく悔しい。セシーリアは、いつか自分が逆になってやるんだから! と自然にそう考えていた。
♢♢♢
ブランシェット家に到着すると、屋敷の執事が出迎えてくれて母とレーヴィーが応接室で待っていると教えてくれた。レーヴィーお兄様は、ブランシェット家の次期当主なので家の大切な場には必ずいる。ちなみに、長男のアクセルお兄様は、母の姪と結婚して婿に入った。双方の希望通りらしいので、特に後継問題で争いあったということはないと聞いている。
セシーリアが、ヴァージル殿下を応接室まで案内して連れて行く。
「ヴァージル殿下、こちらのお部屋になります」
「ああ、ありがとう。私も少し緊張するな」
セシーリアが、ヴァージル殿下が緊張するなんて冗談かしら? と心で思うも扉をノックする。すると中から母の声で「どうぞ」と声がした。
「失礼します。ヴァージル殿下をお連れしました」
セシーリアが扉を開け、先にヴァージル殿下を室内に促す。後から自分も入室し扉を閉めた。
「本日は、わざわざ娘をお送りいただきありがとうございました」
母が、頭を下げてヴァージル殿下を迎えた。
「いえ。この前の婚約の申込みの件があったので丁度良かったです。きちんとセシーリア嬢とお話して、検討して頂けることになりました」
「まあ。そうなのですか? それは良かったです」
母は、嬉しそうにニコニコしている。
「こんなに良いお話をいただいたのに、検討するだなんて生意気な返事をして申し訳ないです。兄として謝罪させて下さい」
普段、クールで必要ないことはしゃべらない兄が謝罪をするなんてとセシーリアは驚く。
「いえ。むしろ、きちんとお互いを知ってから決めたいと言われて嬉しかったので、謝罪は必要ありません」
ヴァージル殿下は、緊張するなんて言葉はやっぱり嘘だったのだと思えるほど落ち着いているし表情も朗らかだ。
「失礼ついでに一つお伺いしたいのですが……よろしいでしょうか?」
なにやら兄が不穏な空気を漂わせている。
「ああ。何でも聞いて欲しい」
「ヴァージル殿下は、セシーリアを妻にして他に女性を囲う気ですか?」
「ちょっと! レーヴィーお兄様! 何を言うの!」
「どうせお前じゃ聞けないだろ。後でうじうじ悩まれても困る」
セシーリアは、レーヴィーの失礼過ぎる殿下への質問に慌てふためく。レーヴィーは、涼しい顔でヴァージル殿下と相対していた。横に立つヴァージル殿下は、一瞬驚いた顔をしたけれどすぐにいつも通りに戻っていた。
「なるほど。少なからず私にも原因があったと……。はっきり言います。私は、セシーリア嬢のことを好きになって求婚しています。他に女性を囲うなんてありえない。それに私も側室である母を見て育った。女性は生涯で一人だけと決めている」
ヴァージル殿下は、レーヴィーに対してはっきりきっぱりと宣言した。
「ヴァージル殿下、息子の失礼な言動、お許し下さいね。妹が心配で言ったことなんです」
母が、ふふっと笑っている。セシーリアは、色々と恥ずかしすぎて居た堪れない。
「もう! レーヴィーお兄様!」
「これで心配事はなくなっただろ」
レーヴィーは、全く悪びれもせずそっぽを向く。
「あはは。仲の良い兄妹で微笑ましいな。それと、実はセシーリア嬢からも言いたいことがあるそうですよ」
ヴァージル殿下が、セシーリアの方を見てにっこりと微笑む。突然話を振られたセシーリアは、一気に緊張感が増す。せっかくヴァージル殿下がお膳立てしてくれたのだ。今、言わなかったらまた引きずってしまう。
「お母様、この前は酷いことを言ってごめんなさい。わたくし、お母様のことを尊敬しているし素敵な女性だと思っているの。だけど……好きな人と結婚したいって想いがあるのは本当で……。でも、お母様がお父様と結婚してくれたから、わたくしのお母様になってくれたのに……。それを否定するようなこと言って、わたくし酷い娘です」
セシーリアは、勇気を振り絞って言葉に出した。言いながら、自分が何を言っているのかわからなくなっている。上手く母に伝わっただろうかと不安だった。そしたら、背中に温かい手が添えられた。横にいるヴァージル殿下を見ると、優しい顔で微笑んでいる。大丈夫だと言ってくれているみたいだった。
「セシーリア。そんなことを悩んでいたの? あなたは私の大好きな娘よ。酷いだなんてちっとも思わないわ。好きな人と結婚したいって当たり前じゃない。それに私は、あなたたちの母親になれて幸せなの。だから大丈夫」
母親が、セシーリアのところまで歩いて来て手をぎゅっと握ってくれた。大好きな母の笑顔がそこにあって、セシーリアは母の胸に飛び込む。
「あらあら。ずっと悩んでいたのに気づかなくてごめんなさいね。ヴァージル殿下、きっかけを作ってくれてありがとうございます」
母親の言葉を受けて、ヴァージル殿下は「いいえ」と爽やかに笑った。
セシーリアは、母と兄に言われてヴァージル殿下を見送るために玄関まで一緒に歩いていた。今日は、ヴァージル殿下に恥ずかしいところをこれでもかと見られてしまい、消えてしまいたいと思うくらいの心境だった。これから先、どんな自分で彼と接していったらいいのか見当がつかない。
玄関まで来ると、セシーリアはヴァージル殿下に向き合い頭を下げた。
「ヴァージル殿下、今日は本当にありがとうございました。恥ずかしいところばかりで、わたくし消えてしまいたいくらいです……」
セシーリアは、ヴァージル殿下の顔を見ることができずに俯きながら話をする。
「消えるなんて、そんなの困ってしまうよ。今日一日で色々な顔のセシーリア嬢を見られて、幸せだったのだから」
セシーリアは、ゆっくりと顔を上げてヴァージル殿下の顔を見る。自分のことを、熱を帯びた眼差しで見ている。彼が紡ぐ言葉は甘く、セシーリアのような娘ではすぐに囚われてしまいそう。
「ヴァージル殿下。そんな風にわたくしを見ないで下さい」
異性からの好意に慣れないセシーリアは、顔を扇子で隠してしまう。
「それは無理なお願いだな。だって私は、全力でセシーリアを口説いているんだから。覚悟しておいて欲しい」
そう言って、セシーリアの手を取るとちゅっと手の甲にキスを落とす。セシーリアは、ボンっと音がしたように顔が真っ赤に染まる。扇子越しでもわかるほどの可愛いセシーリアを見たヴァージル殿下は、満足そうにふふっと笑みを残して去っていった。
扉を閉めて出て行ったヴァージル殿下。彼の姿はもうないのに、セシーリアの頭の中はヴァージル殿下で占められている。彼のプロポーズを、セシーリアが受けるのはそう遠くない未来。
完
最後までお読みいただき、ありがとうござました。
★★★★★の評価をいただけると嬉しいです。
この作品の本編である、
「優等生だった子爵令嬢は、恋を知りたい。~六人目の子供ができたので離縁します~」の、
コミカライズが配信開始されました。
(セシーリアの母親が主人公のお話です)
一話目が無料です。見てくれると嬉しいです。
https://magcomi.com/episode/2550689798543027249
マッグガーデン様より、書籍も全二巻で発売中。よろしくお願いします。
(下にいくと書籍の表紙やコミカライズのメインビジュアルが見れます!)