75 崩壊
リーゼは、白い世界にいた。
懐かしくも感じたし、今更という思いもあった。
リーゼが一歩を踏み出そうとした途端、目の前が鮮やかな庭園に変わった。
見えていなかっただけで、ずっと庭園があったのだろうと感じた。
かつて見たより、はるかに色鮮やかに、現実の花々よりさらに際立って美しく、咲き誇って見える。
庭園の中央に、これだけは白いままのテーブルに向かい、腰掛けた白い姿が見える。
リーゼは進んだ。
見覚えがある。
白い女だと思っていた。
だが、色鮮やかなこの世界では、女は白くはなかった。
透き通るようなみずみずしい肌は白いが、髪は銀色に近く、着ているドレスは目の覚めるような赤色だった。
「リーゼ、お疲れ様。よくやってくれたわね。ぎりぎりで、人間は生き残ることができたわ」
「まだ、終わってはいないでしょう。私が目覚めて、すぐに人間を根絶やしにすると宣言しないと、どうして言えるの?」
リーゼは、女に差し向かって腰掛けた。
テーブルには何もなかったはずだが、リーゼの手元にカップが出現していた。
お茶が湯気を上らせている。
「これほど人間のために尽力したあなたが、最後に裏切るとは思わない。それに……もしそうなっても、実行するだけの力は、魔族にはないわ」
「魔族は、10日後に全滅するの?」
「正確には、9日後ね。リーゼは気絶して、半日目を覚さなかったのよ」
「魔族に、何が起こるの?」
「もう気づいているでしょう? ヌレミアが持ち込んだ薬の中に、魔族にだけ特効を持つウイルスが忍んでいたのよ。どういう経路で拡散するかは、リーゼは知らない方がいいわ」
「私が悪役令嬢を目指すと決めた時、魔族の運命は決したの?」
「とんでもない。不確定な要素はいくらでもあった。ヌレミアの母親ではなく、ヌレミア本人がそれを作ることは定められていたから、死んでもらうわけにはいかなかった。ただ、ヌレミアの天命は短いわ。リーゼが、補完する必要があったのよ」
「それが、『悪役令嬢』っていうこと?」
「私も、確信があったわけではないわ。ただ、ヌレミアの天命を補完できるのは、リーゼしかいないことはわかっていた。リーゼに生き方を変えさせるのに、貴族のご令嬢から、もっと別の何かに変わってもらう必要があったの。これほど、うまくいくとは思わなかったわ。国王に、人間の世界を救うのに必要なのが『悪役令嬢』だと啓示したかいもあったわね」
「……やっぱり。国王陛下が『悪役令嬢』について指南してくれるなんて、話ができすぎていると思ったわ」
「そうね。これほど上手くいくとは思わなかった。でも、リーゼは……幸せにはならないわ」
女は、今までの人を食ったような印象とは違い、真面目に話しているのだとリーゼは感じた。
だからこそ、聞く気にもなった。
リーゼは、お茶を口に含んだ。
飲み込んでから尋ねる。
「覚悟はしているわ」
「立派ね。でも、最悪の結果を避ける方法もあるわ」
「最悪の結果は、人間がひとりもいなくなること。その結果は、もう避けたのでしょう?」
「真面目に聞いて。リーゼ自身のことなのだから。簡単なことよ。差し出しなさい。全ての魔族が死に耐えた後、唯一残った、最後の1人を」
「……それは、私が知っている人?」
「いいえ。知らないわ。でも、あなたの中にいる」
リーゼは、自分の腹部を押さえた。
まだ、兆候はない。
リーゼすら知らないことだ。
女は、しずかにカップを置いた。
「それ以外の方法では、いずれもあなたには破滅しかない。悩む必要はないでしょう?」
「ええ。そうね」
リーゼは決めていた。
女が静かに頷く。
リーゼの視界から、色が失われた。
※
リーゼが目覚めたのは、耳を弄するつん裂くような咳の音によってだった。
目を開けると、魔王の大きな背中があった。
見たことがある場所だ。
一度だけ来たことがあった。
あれはまだ、リーゼが人間の街にいた頃、王に誘われて悪役令嬢について教えられた場所だ。
つまり、王の自室だ。
目の前の魔王の部屋ではない。
ゴルシカ王国、人間の最後の王国の国王の部屋だった。
国王はどうしたのだろうか。
リーゼが気絶した間に、殺されていなければいいが。
王が殺されているかもしれない。
そう思ったとき、リーゼは意識を失う直前の出来事を思い出した。
リーゼの腕の中で、赤子が死んだ。
まだ産声を上げて、数日しか経たないはずだ。
リーゼが魔王領に向かった一月前には、リーゼは母が妊娠していたことすら知らなかった。
魔法で、妊娠の期間を縮めたのだろうか。
リーゼは、いくつも腑に落ちないことがあるような気がしたが、まずは魔王に話しかけた。
魔王は先ほどから、リーゼを起こした大きな咳を繰り返していたのだ。
「魔王様、お体がお悪いのですか?」
魔王は振り返った。
魔王が体を翻した時、その先に何かが見えた。
リーゼが知っているはずの何かではないかと思えた。
「おお。リーゼ、目覚めたか。なに。余が体調を崩すなどありえぬ」
魔王は、口の端から血を流していた。
吐血するほど肺を痛めている。それほど、咳を繰り返している。
「なら、よろしいのですが。この部屋は、この国の王の部屋だったはずですが……陛下、後ろにいるのは誰ですか?」
「あ……うむ。この部屋の持ち主であれば、余らに自ら部屋を提供したのだ。服従すれば、命は助かるものと幻想を抱いておるのだろう。もはや、あやつらの命に価値などないというのにな」
「そうですわね。陛下、背後にお隠しになったのは、どなたですの?」
魔王はさらに咳を繰り返し、リーゼを見つめた。
大きく息をはく。
「隠してはおけんのだろうな」
魔王が横に移動する。
大きな体で隠されていたのは、赤い肌を持つ魔族だった。
横になり、動かない。
死んでいる。
リーゼは、そう感じた。
「レジィですか?」
「ああ。12人いる将軍のひとり、赤鬼族のレジィだ。リーゼとは、仲がよかった……いや、よくはなかったか?」
「死んだのですか? なぜです?」
「……やはり、リーゼにも原因がわからないか?」
「わかりません。レジィはなぜ死んだのですか?」
リーゼはベッドから立ち上がり、レジィに近づこうとした。
魔王が腕を伸ばし、リーゼの体を捉える。
「レジィは強い。戦場で負けたことはなく、従えるレッドドラゴンは、一頭で人間の国を滅ぼせる。先ほども、人間の妨害に負けず、最後まで余に従っていた」
途中で、12人の将軍が6人に減っていた。
それは、人間の妨害によって離脱したからだ。
レジィは離脱しなかった。
将軍たちの中でも、強い部類に入るのだろう。
「その強いレジィが、なぜ死んだのですか?」
「わからぬ。ただ……余と同じ、咳を繰り返した。血を吐き、死んだ」
「原因は……」
「わからん。魔族に病など存在しないはずだ。魔王城の博士たちに連絡をとっているが、繋がらんらしい。博士たちも、同様に死んでいるのかもしれん」
「他には、誰か死んだのですか?」
「わからん。ここは戦場だ。敵のアジトの中である。勇者を殺したために、残りの人間の死に方は、リーゼに任せることになった。そのため、戦闘を中止していた。僥倖だったのだろう。戦闘中に死者が出ていれば、人間たち殺されたと思うところだ」
魔族として、人間に殺されるよりは原因不明で死んだ方がいいのだろう。
人間はそれほど見下されている。
言い返すことはできなかった。人間を高く評価することは、魔王の不評を買うだろう。
「陛下、流行病であれば、死体を焼く必要があります」
「人間はそうするのか?」
「はい」
魔族は病気にかからないと、魔王自身が言った。
どうすればいいのか、全くわからないのだ。
「リーゼがそう言うのなら、正しいのだろう。リーゼは出るな。これが病だというのであれば、リーゼならすぐに死んでしまう」
「……はい」
リーゼはかからない。それは、魔族のみに致命的な病気なのだ。
だが、リーゼはそれを知っていてはならない。
リーゼは素直に従い、頭の中で警鐘が鳴った。
「どのような危機であろうとも、陛下とご一緒いたします。その覚悟がなくて、戦場までついてきたわけではございませんわ」
「わかった。余が浅はかであった」
リーゼの中で警鐘を鳴らしたのは、読みふけったロマンス小説の悪役令嬢たちだった。




