63 花嫁衣裳
リーゼは朝起きて、右手が痛まないことに気がついた。
右手には包帯がダンゴ状に巻き付けられている。
痛みはないが、恐々と、包帯を解く。
大きな布の塊が、しだいに赤く染まっている。
だが、その赤は黒く変色したものだった。
包帯を解いても傷まない。
リーゼは、全ての包帯を取り去った。
布に覆われていたためか記憶しているよりも白い手が、包帯の下から出てきた。
ただし、小指はない。
小指があった場所は、初めから指などなかったかのように、肉が盛り上がっている。
「……凄い。治っている」
「リーゼ様、陛下がおいでになっています」
リーゼの呟きが終わるか終わらないかというところで、エリザが戸口で告げた。
「あの……身だしなみを整える時間をくださるようにお伝えして」
「わかりました」
リーゼがベッドから降りると、リーゼが求めたことで置かれた化粧台の鏡に、髪が乱れた青白い顔の女が写っていた。
人間の社会では、自分の姿を見るために磨いた銀板や銅板を使用する。
それは、貴族でも変わらない。
だが、魔族は違うようだ。
人間よりも劣った技術もあれば、はるかに高度に洗練された技術もある。
この世界の主人が、必ずしも人間である必要はないのだろう。
リーゼは、複雑に思いながらも髪をくしけずる。
寝巻きを脱ぐために首裏のボタンを外したところで、鏡に映った影に驚いた。
「キャアァァァァァッ!」
「リーゼ、余だ。怯えるでない」
「陛下、魔王様だといっても、嫁入り前の娘が身支度を整えているのです。私の名節をお考えください」
リーゼは振り返り、外したボタンを押さえた。
ぎりぎり、肌を晒す前だった。
「す、すまん。ま、待ちきれなかったのだ」
魔王は相変わらず醜く、年老いていた。
肌は弛み、皮膚は垂れ下がり、皺は深かった。
言い訳をしながらも、足を止めずに部屋に入ってくる。
「陛下、申し上げたはずです。正式に妻となるまで……」
リーゼはボタンを止め直し、魔王を制しようと両手を挙げた。
魔王の足が止まった。
魔王が、何に気をとられているのか、リーゼは理解した。
魔王は絶叫した。
「おおっ! 治って、治っておらぬではないか! このような痛ましい姿になって、余は、余は何度心臓を抉り出せばいいのだ! あの人間ども! リーゼを癒すこともできぬのか!」
魔王がマーベラたちに怒りを向けたことで、リーゼは慌てた。
「陛下、落ち着いてください。完治いたしました」
リーゼは、魔族と人間との意識の違いを察した。魔族にとって、体が欠損したままなのは、治ったとは見做さないのだろう。
「リーゼ……しかし、これはどうしたことなのだ?」
魔王は、綺麗に肉が盛り上がった、小指があった場所を手に取り、見つめた。
「人間は、失った指が生えてくることはありません。私にとっては、このままでも、治ったことになるのです」
「……では、リーゼはずっと、指を失ったまま生き続けるのか? 魔族であれば、そのような屈辱には1日とも耐えられん。リーゼは、その屈辱を受け入れるというのか?」
「屈辱ではございません」
リーゼは笑ってみせた。昨日までは笑えなかった。それほど、手が痛んだのだ。
「屈辱でなければなんなのだ?」
「この指は、陛下に差し上げたのです。この指がないことで、私は陛下への思いを、生涯忘れることはないでしょう」
「おおっ……リーゼ、わかった。これから余は、リーゼの小指となろう」
「もったいないお言葉です」
リーゼが腰を折る。
魔王は言った。
「では、式は今日か? 任務に出かけた者もいる。明日のほうが、皆が集まれるはずだが」
魔王から提案してきた。
リーゼは頷く。
「明日でお願いいたします」
リーゼにとっては願ったりだ。それは、ヌレミアの死を悼む時間が欲しかったからだが、それを魔王に知られることは避けた方がいいだろう。
リーゼは続けて言った。
「魔王陛下、それともう一つ、お願いがございます」
「どうした?」
魔王の態度は、これまで見たことがないほど優しかった。
リーゼが間違いなく妻となるのだと、安心しきっているのがわかる。
「指を失った姿は、陛下がおっしゃったように、魔族の方々には耐え難い屈辱なのでしょう。そのような姿で、魔族の花嫁衣装を着るのは、皆さんに誤解を与えることになるかもしれません」
「……ふむ。そうだな。リーゼの美しさを自慢できないのはもどかしいが」
「人間式の花嫁衣装を着させてはいただけないでしょうか? 人間の娘なら、幼い頃から誰もが憧れるのです」
「ふむ。検討はしよう。明日までに準備できるのか?」
「はい」
リーゼははっきりと首肯した。魔族の花嫁衣装は、ほぼ全裸だと聞いていた。
男は違うらしい。花嫁だけが、裸体を晒すのだ。
公爵令嬢であり、長い間深窓の令嬢だったリーゼには、絶対に受け入れられないことだった。
魔王が帰った直後、リーゼはエリザに言った。
「これでは、喪服を着ると言う訳にはいかないわね。魔王様が気に入らなければ、強引に魔族式の衣装を着させられるわ」
「そうですね。すぐに衣装を探します」
エリザは応えると、自国から持ち込んだ衣装箱に飛びついた。
リーゼは、元々ラテリア王子の2番目の妻として魔王領に来るはずだったのだ。
王子の妻として恥ずかしくない衣服を用意していた。
どんな服があるのかリーゼも把握していなかったが、喪服用の漆黒のドレスがあるのは確認している。もともと着ようと思っていたが、魔王の気に入らない可能性が高い。
普段の自宅にしても、自らの意思とは無関係に日々追加される衣服の種類は把握しきれなかった。
リーゼは、自分の衣装のことまでは気が回らず、レジィに頼み、衣装の入った木の箱を持ってきてもらっていた。
木の箱を棺として、ヌレミアの遺体を収めた。
リーゼがヌレミアの冥福を祈っているとき、エリザが衣装を持ってきた。
「リーゼ様、ヌレミア様のことを悲しむのは当然でしょうが、明日は魔王様との結婚式です。もし、衣装が魔王様のお気に召さなければ、魔族式の花嫁衣装になってしまいますよ」
魔族式の花嫁衣装ということは、ほぼ全裸ということである。
リーゼは頷いた。
「800年前にいた先妻は、裸で嫁いだのかしら?」
「噂では、そうみたいです。それに、当時のことを知っている魔族の方から聞いたところでは……あまり出自のよくないお方だったようです」
「そう」
リーゼは、エリザが抱えてきたリーゼの衣装を手に取った。
「本当に、魔王様のところに送り込まれた、人間の密偵だったのでしょうね。思いがけなく寵愛されて、子供まで身籠った。どんな気持ちだったのでしょうね」
「芸妓だったみたいですよ」
職業に貴賤はないとはいえ、人間の社会で王族に嫁ぐことはあり得ない職業だ。
「でも、最後には魔王様を裏切って、死んだわ。ああ……えっ? どうして、こんなものを……」
リーゼが手に取ったのは、衣装の一番下で押しつぶされていた純白の衣装だった。
「リーゼ様のお母様……公爵夫人のせめてもの願いでございますよ。私がリーゼ様の衣服を選んでいる時、せめて一着だけでもと、リーゼ様のために用意していた純白の衣装を預けられました」
「……そう。お母様が」
リーゼは、王国を背負う王子の婚約者だった。
すでにその夢は断たれ、あろうことか平民の正妻の側女として魔王領に行くことになった。
もはや、結婚式を挙げることは叶うまい。公爵夫人はそう思いながらも、せめて一着だけでもと、花嫁衣装を荷物の中に入れたのだろう。
ただ純白の衣装ではない。
編み込まれている宝石は、真珠とダイヤだ。
「一度も袖を通していないわ。着られるかしら」
「サイズを直すぐらいでしたら、明日までに私がいたします。それに……お母様は、リーゼ様をことのほか案じておられました。リーゼ様の着る服の寸法を間違えるはずがございません」
「ええ。そうでしょうね」
リーゼは頷いたが、おそらくサイズの調整が必要だと考えていた。
魔王領にくるなり、死にかけた。
魔王との胃が痛くなるような駆け引きを乗り越え、小指を失って大量に出血した。
リーゼは、自覚できるほど憔悴していた。
思った通り、母が用意してくれた純白の衣装は、少しサイズが大きいようだ。
「腰回りを詰めた方がいいでしょうね。他の御令嬢たちが聞いたら、悔しがるでしょう」
リーゼが着た衣装の寸法を確認しながら、エリザが告げる。
「まだ人間の街で、結婚する人たちがいるのかしら?」
「人間が、結婚しないなんてことがありますか?」
「私が言っているのは……まだ結婚をお祝いできるほど、ゴルシカ王国は平和でいられているのかということよ」
リーゼの問いに、エリザは答えなかった。
ずっと、魔王城の中のことしか知らないでいる。
あるいは、すでに人間は滅んでいたとしてもおかしくはない。
そうではないことを、リーゼは信じることしかできない。
リーゼが悪役令嬢として踏みとどまり続けるかぎり人間は全滅しないと、信じるしかないのだ。
「では、明日までにお直しします。この衣装を見れば、魔王様も脱げとは言われないでしょう」
「だといいわね」
リーゼは服を着替えた。
「いい身分ね」
リーゼがエリザと一緒に花嫁衣装をしまおうとしているところに、開いた扉の向こうから、声がかけられた。
そこには、鬼のような形相をした、肉体はあくまでも人間のままの、光の聖女カレンがいた。
人間の滅亡予告日まで23日
魔族が滅びるまで33日




