62 魔術師ヌレミアの使命
ヌレミアは起きていた。ベッドの上で、まるで置物のように壁に立てかけられている。
実際には背を預けているだけなのだが、全身が包帯に覆われているので、置物のように見えている。
「ヌレミアさん、大丈夫……ではないわね」
リーゼは声を震わせた。
リーゼが近づいても、ヌレミアは動かなかった。
ベッドの下に膝をつき、手に触れた。
「……リーゼ……様……マーベラ……」
途切れがちな声で、ヌレミアが声を絞り出した。声を出すことで、全身が痛むのだろう。その度に身震いしている。
「ああ。リーゼ様を連れてきた。確かに、リーゼ様はあたしたちを裏切った。だけど……」
リーゼが片手をあげた。マーベラが黙る。
「ヌレミアさん、この部屋の会話には気を付けて」
「リーゼ、ヌレミアは、もう目が見えないんだ。拷問の最中に、視力を失った」
マーベラが言った。つまり、筆談はできない。
「リーゼ様……」
ヌレミアが声を絞り出す。
「ヌレミアさん、無理はしないで」
ヌレミアは、リーゼをまだ敬称をつけて呼ぶ。
リーゼがそのこと自体を恥ずかしく感じた。
ヌレミアは続ける。
「……殺してください」
「ヌレミアさん?」
リーゼは、聞き間違えかと感じた。マーベラが補足する。
「レジィは、ヌレミアの悲鳴が聞きたいために、決して死ぬことを許さない。もう……ヌレミアは戻らない。まともな生活はできない。リーゼ、ヌレミアは、死ぬことしか望んでいない。歯も全て抜かれた。舌を噛むこともできない」
「私を呼んだのは、そのためなの? どうして、マーベラさんがしないの?」
リーゼは、涙をこぼしていた。ヌレミアの惨状に、自分を責めた。
「ヌレミアの頼みです」
「私は……どうすればいいの?」
ヌレミアが、はじめて声以外の動きを見せた。
腕を動かし、何かを指そうとしていた。
「ヌレミア、もう、あたしたちの荷物はない。全て奪われた」
マーベラの言葉に、ヌレミアが荷物を探しているのだとリーゼは理解する。
「ヌレミアさん、薬ね?」
リーゼが尋ねると、ヌレミアは頷いた。
「私がレジィの屋敷を出る時、少しもらったのがある。それで足りるかしら」
リーゼは立ち上がり、城に持ち込んだ荷物の中から、バッグに入ったヌレミアの薬瓶を持ってきた。
「ヌレミアさんの侍女が、私にくれたの。どんな効果があるか、わからないけど」
再びリーゼがヌレミアのそばに膝をつく。
バッグを開ける。ヌレミアには見ることができない。
「ヌレミア、やるぞ」
「……うん」
「マーベラさん、何を……」
リーゼの問いには、行動で示された。マーベラはヌレミアの包帯を解いた。
痛むのか、ヌレミアが呻く。
包帯が解かれ、腕が現れた。
爪が剥がされ、骨が砕かれ、皮が剥がされていた。
もはや、手であることすら疑われた。
「リーゼ、ヌレミアは、瓶に触れば中身がわかる」
マーベラは言った。ヌレミアから聞いていたのだろう。
ヌレミアがリーゼに薬瓶を贈ったことも、中身の正体も、まだまともに話せるうちに、伝えていたのだろう。
リーゼは頷いた。
マーベラが、薬瓶の中から一本を、ヌレミアに傷ついた手に握らせた。
ヌレミアはしばらく掴んでいたが、やがて手を離した。瓶が床に落ちる。
マーベラは、別の瓶を握らせた。
しばらく、それを繰り返す。
最後の一本になり、ヌレミアは別の動きを見せた。
わずかに、握った手をマーベラに近づけた。
「わかった。これだな」
「マーベラさん。一体……」
「ヌレミアが国から持ってきたのは、ほとんどがただの飲み薬だよ。これだって、大差ない」
「なら……いいえ。いいわ。これは、ヌレミアさんに飲ませればいいの? それとも……」
リーゼが尋ねると、マーベラは声に出さず、リーゼが自ら飲むように促した。
「ヌレミアの命は、付きかけている。死ねないのは、心残りがあるからだ。それを、無くしてほしいってさ」
「……わかったわ」
ヌレミアの心残りとは、持ってきた瓶の一本を、リーゼに飲ませることなのだろう。
その意味はわからない。だが、断ることはできなかった。
リーゼは渡された瓶の封を切り、中身を飲み干した。
冷たく、ドロリとした喉ごしの液体だった。
味はない。
ただ、鼻をつく匂うが駆け抜けた。
「……これでいいのね?」
「そうだな。ヌレミア……ヌレミア、どうした?」
マーベラが、傷だらけの親友を振り向いた。
リーゼに渡す一瓶を選んだ直後から、反応がなくなっていた。
「ヌーベラさん、ヌレミアさんは寝てしまったの? 深夜だもの。無理はないわ」
「死んだ」
「えっ?」
「でも、よかった。ようやく、楽になれたのだ」
リーゼは、マーベラの脇からベッドに飛びついた。
ヌレミアの手を取り、呼びかけた。
反応はない。
わかっていた。
ヌレミアが死にかけていることは、レジィの屋敷にいた時からわかっていた。
あの時の様子を思い出せば、よく今まで生きてこられたのだと感心したくなる。
だが、信じたくなかった。リーゼはヌレミアの体に触れた。
手に触れた感触があまりにも軽いことに、リーゼは怯えた。
手が濡れた。指先が血に染まった。
「マーベラさん……ヌレミアさんは、私の部屋に着いたときには、生きていたの?」
「何とも言えないな。あるいは、死んだまま動き続けていたのかもしれない。使命を果たすため、死んでも動き続ける呪いを自分にかけていたのかもしれない。ヌレミアなら、それも可能だろう」
「……そうね。ヌレミアさんの使命って……」
「リーゼの体を治すため、適切な薬を選ぶことだ」
マーベラは断言した。
そうではないことを理解しているはずだ。
マーベラには、全てを話してある。ヌレミアにも伝わっているはずだ。
リーゼは、もうじき魔王と結婚する。
リーゼを幸せにすることが、ヌレミアの使命ではない。
リーゼは、少しでも人間を長く生きさせるために、魔王に嫁ぐのだ。
リーゼが健康でいることが、リーゼの使命に役立つのだと言っても、間違いではないだろう。
だが、ただそれだけの薬を、数ある薬瓶の中から選んだとは思えない。
リーゼも、何を飲んだのかはわからない。
だが、リーゼにとって毒ではないだろう。リーゼが死んでしまったら、魔王は人間を生かしておく理由が何もなくなるのだ。
問題は、リーゼが人間を愛しただけで、魔王は人間を根絶やしにするだろうということだ。
「マーベラさん、この薬瓶をバックに戻して。これからは、ヌレミアさんでなくマーベラさんを頼りにするわ。私が怪我をしたら、お願いね」
「あたしに、何を……」
リーゼは、マーベラを真っ直ぐに見て、唇の前に指を立てた。
マーベラの意思に関わらず、リーゼの側にいることで、マーベラは守られる。
そのことを、マーベラ自身も理解した。
「わかった。怪我の治療は訓練でやっている。任せてくれ」
「ええ。頼むわね。明日は、喪に服しましょう。立派なお葬式をあげたいけど、それは叶わないわ。せめて、私たちだけでも……」
「魔王が許してくれればだろうな」
リーゼは、ベッドに横たわるヌレミアの死体を真っ直ぐに寝かせた。
マーベラはヌレミアの親友だが、死体と一緒に寝させるのは酷だろう。
リーゼはマーベラと連れ立って、自分の部屋に戻りながら言った。
「魔王様は、一刻も早く私と結婚したがっているわ。怪我が治れば、すぐにでも式を上げたいはずよ。そのために、ヌレミアさんとマーベラさんを呼ぶことを許したのだもの。もし明日になっても私の怪我が治っていないとなれば……魔王様は私たちを疑い出すかもしれない。少なくとも、マーベラさんはただでは済まない」
「では、どうするのだ?」
「私の怪我は治ったと告げる。でも、ヌレミアさんの死を悼む時間が欲しいと言うべきね。たぶん……待ってくれて一日だわ。それ以上は、魔王様を待たせられない」
「リーゼに祝福を」
「ありがとう。マーベラさんは、エリザの部屋を使って。ベッドが二つあって、一つは余分だから。私と一緒では嫌でしょう?」
リーゼは部屋に戻りながら、マーベラに使用人用の部屋を案内した。
マーベラは答えなかった。
ただ、何も言わず、エリザに与えられた部屋に足を向けた。
リーゼはヌレミアの冥福を祈りながら、寝台に戻った。
人間の滅亡予告日まで24日
魔族が滅びるまで34日




