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私が悪役令嬢にならないと人間が滅亡するらしいので  作者: 西玉


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59 リーゼの小指

 つい最近まで価値がないと見做されていた花が咲き誇る庭園に、重い足音と怒声が響き渡った。


「リーゼ! リーゼよ! そなたもやはり、余を裏切るのか!」


 魔王の雄叫びだった。

 リーゼは答えない。

 小さな怪我もほとんどしたこともなかった。幼い頃から深窓の令嬢として、穏やかな趣味を好んできた。


 それが突然、小指を失った。

 焼けるような痛さに、脂汗が止まらなかった。

 血が止まらない。流れる血の量に、次第に意識が遠のいてきた。


「魔王様、お鎮まりください。先ほど、リーゼ様から預かりました。リーゼ様のお心です」


 どこか遠くで、シャギィの声がしたのがわかった。

 魔王は、リーゼとラテリアの会話を、どうやってかわからないが、聞いたのだろう。

 だから、激怒して庭園にやってきた。

 ラテリアがどうなったのかはわからない。

 顔を上げる余裕もなかった。


「『リーゼの心』? これは指ではないか……指? 指だと? リーゼはどこだ? 余は知っておるぞ。人間の指は、切り落とすと2度と生えてはこないのだ」

「何ですって!」


 驚いたのはシャギィだ。


「シャギィ貴様、まさか……」

「わ、私が、リーゼ様の指を切り落としました」

「何をしておる! リーゼがどれほどの苦しみを味わうか、わかっておるのか!」


「ぞ、存じません。ああ……リーゼ様、だからこの指を、自分の心だと……このシャギィ、死んでお詫びいたします」

「おう。リーゼを傷つけたのだ。死ぬが良い」

「お待ちなさい!」


 リーゼは声を張り上げたつもりだった。

 立ち上がった。

 眩暈がした。

 血を流しすぎている。


 魔王がいた。リーゼを、まるで睨みつけるかのように見ている。睨んでいるわけではない。そういう顔なのだ。

 その隣で、真っ赤に染まったリーゼの小指を持ったシャギィは、ただ狼狽えている。


「リーゼ、リーゼ、リーゼ、リーゼ!」


 魔王は、リーゼの名を連呼した。リーゼは立っていられず、座り込んだ。


「ど、どうして、どうしてこのようなことをしたのだ」


 魔王が駆け寄り、かがみ込むリーゼの腕をとった。小指がなくなった手だ。

 滑らかな傷により出血は少ないのかもしれない。だが、リーゼはこれまでにほとんど怪我らしい怪我はしてこなかった。


 腹を刺された時にはすぐに気絶してしまった。

 痛みには慣れていない。

 魔王に手をとられ、呻いた。


「魔王様と、同じことを」

「余は、その気になればすぐに指は生え変わるのだ。贈りたかったのは指輪で、外すのが面倒だったから指ごと届けさせたのだ。リーゼは人間であろう。もし、万が一、首を失っていたら、死んでいたのだぞ」

「でも……魔王様は私の心をお疑いでした。だから、あの男に怒ったのでしょう? まだ、信じていただけませんか?」


 リーゼは、差し出された魔王のいかつい大きな手に身を委ねた。

 意識を保っているのが難しくなっていた。

 まだ気を失えないのは、切り落とされた指がひどく痛み続けていたからだ。


「リーゼ、余は、そなたのことを疑ってなどおらん。だから、2度と自らを傷つけるな。リーゼにとって指を切り落とすことは、余が心臓を抉り出すのと同じことなのだ」

「魔王様は、心臓を抉り出しても死なないじゃないですか」


 シャギィが指摘した。


「だが、流石に苦痛はある。くだらないことを言っている間に、リーゼを治療せよ。人間は、怪我をすれば治療という行為をするのだ。そうしなければ、すぐに死んでしまうのだ」

「……魔王様、治療とはなんですか?」


 シャギィは首をかしげる。魔王は振り返り、植物の力を体現したシャギィを睨む。


「……知らん」


 魔王はふざけているのではない。あまりにも頑強な肉体を持つ魔族は、人間よりも複雑で高度な魔術を発達させながら、治癒に関しては概念さえ持っていないのだ。

 リーゼは、霞む意識の中で言った。


「陛下、レジィ将軍の屋敷に、私の友達の人間がいます。治療に長けておりますので……」

「わかった。シャギィ、レジィを呼べ」

「承知いたしました」


 シャギィが走る。

 リーゼは、魔王の腕に抱かれ、運ばれた。

 魔王の腕の中で、徐々に痛みが引いていく。それは、たんに感覚がなくなっているだけで、治っているのではない。


 どんなに綺麗に切断されていても、指が生えてくることはない。

 魔王に揺られ、痛みを堪えるリーゼは、庭園の出口にわだかまる、赤い物体を見下ろした。

 全身を血まみれにしたのは、人間だった肉の塊だ。

 リーゼは、それがラテリア王子に成れの果てであることを、疑わなかった。


 ※


 リーゼは部屋に運ばれた。リーゼの部屋には、城に数少ない人間がいるためだ。

 魔王は自分の部屋に運ぼうとしたが、人間の血の匂いに活性化する植物系魔物にリーゼが殺される可能性があった。


 魔王はすれ違った魔族からの忠告を受け、リーゼの部屋を選択した。

 リーゼの部屋で読書をしていた専属メイドのエリザは飛び上がって驚き、魔王はエリザにリーゼを託した。

 リーゼは、かろうじて繋ぎ止めていた意識を振り絞り、背を向けた魔王に尋ねた。


「陛下のお嬢様が連れてきた人間の男は……」

「案ずるな。殺した」


 魔王は本気で、リーゼがラテリアに生きていられると困ると、心配しているのだと判断した。魔王は精一杯の優しげな表情を見せた。


「……よかった」


 リーゼは、むしろラテリアよりも、ラテリアを心配してリーゼに頼み込んだ国王を思い出した。

 リーゼの反応に満足したのだろう。魔王はエリザにリーゼの世話を申し付けて部屋を出た。


「リーゼ様、小指がなくなっております」


 魔王の姿を見ただけで震え上がっていたエリザが、ベッドに寝かされたリーゼの元に駆けつけた。


「ええ。わかっている。治療を……」

「どうしたらよろしいのですか? このような怪我、私には……」

「止血と消毒を。それ以上は、私にもわからないわ」

「承知いたしました」


 エリザが駆け去る。傷口を縛る物を探しに行ったのだろう。

 リーゼは、出血を抑えるための方法も知らなかった。

 ただベッドに横たわり、静かに目をとざした。

 ラテリア王子が死んだ。


 元々、王子には何も期待していなかった。

 リーゼがしくじれば、人間は全て死滅する。

 ラテリア王子には役目はない。そう言われていた。

 それでも、婚約者だったのだ。


 数ヶ月前までは丁寧に扱われていたし、王妃候補として特別な待遇を受けていた。

 最近のことを思い出せば、腹しか立たない。

 だが、死んだのだ。

 リーゼは痛む手を見ると、リーゼ自身が気づかないうちに、エリザによって布の玉が出来上がっていた。


 小指を失った右手に、大量の布が巻き付けられていたのだ。

 布を作るのは、人間なら糸を紡ぐところから始める。

 魔族はどうなのだろう。人間が失われることで、柔らかい布すら手に入らなくなる。

 リーゼは考え、否定した。


 魔族たちが着ているものに、柔軟性を要求されるものはほとんどない。どんなに粗雑な縫製の服でも、魔族は痛いとは感じない。

 リーゼのためだけに、人間は残す価値がある。

 魔王に、そう思わせなければならない。


 リーゼは使命の重大さを噛み締めながら、意識を手放した。


 人間の滅亡予告日まで27日

 魔族が滅びるまで37日

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