32 学園の噂
夜遅く戻ったリーゼは、自分の部屋の様子が変わっていることに気づいたものの、よく確かめることもなく、着替えだけしてベッドに入った。
スイッチを入れれば電気が点るというわけにはいかない。
夜になれば、闇に覆われることを受け入れざるを得ない。
それは、公爵令嬢のリーゼにとっても同じことだった。
リーゼは朝目覚め、体を起こして、壁際に木箱の山が出来上がっていることに気づいた。
「お嬢様、お目覚めですか? 何日もお戻りにならないから、心配いたしました。公爵家にも知られ、公爵様は半狂乱で……ヌーレミディア様からお嬢様を預かっていると報告があるまでは、誘拐ではないかと大騒ぎでしたよ。突然、ベッドで寝ていらっしゃるなんて……」
侍女のエリザがまくし立てたが、リーゼはまだ疲れていた。エリザの言葉がほぼ頭に入らず、ぼんやりと答えた。
「ああ。エリザ、お早う。学園に行く支度をしなくては」
「お嬢様、今日はお休みの日ですよ」
「そうだった? そう……あの日から、随分経っているのね」
リーゼが思い出したのは、前回の休日だった。
魔族将軍レジィが逃げ、ヌレミアが重体になり、ラテリア王子が医務室でカレンと逢瀬を楽しんだ日だ。
再び休日が来たというのなら、あの日からそれだけの日数が経過しているということだ。
「エリザには、聞きたいことが色々あるのだけれど」
「わかっております。悪役令嬢についてですね」
リーゼは、かつて侍女のエリザに悪役令嬢を知っているかと尋ね、リーゼよりよほど詳しかったのを思い出した。思えば、あれも前回の休日の日の出来事だ。
「そうね。でも、その前に、あれは何?」
リーゼは、壁際に積み上げられた木箱を指差した。
「ああ……あれは、お嬢様に対する贈り物ですわ」
「私の誕生日はだいぶ先だったはずだけど?」
リーゼが悪役令嬢にならなければ、次の誕生日まで生きられることはないだろう。そんな風に考えながら、リーゼは言った。
「お誕生日のプレゼントではございません。リーゼ様に対する、殿方からの心づけです」
「意味がわからないわ」
これまで、誕生日や記念日以外のプレゼントといえば、特に男性からはラテリア王子か、ラテリア王子に取り入りたい貴族の子弟ぐらいだった。
「お嬢様、本当にわからないのですか?」
「ええ。わからないわ」
「お嬢様、すごくお綺麗だし、素晴らしい家柄で、もともと憧れる殿方が多かったのでしょう。その上、ラテリア王子と婚約を解消しましたし、最近のお嬢様は親しみやすくなったと、侍女たちの間でも評判です」
「……ラテリア様との婚約を解消した?」
「違うのですか?」
リーゼは頭を抑えた。最近地下にこもり、ヌレミアの治療の手伝いをしていたために、時間の感覚がおかしくなっていたようだが、学園は休日らしい。
登校しなくてもいい上に、珍しく休日の予定を立てていない。急ぐ必要はない。じっくりと、言葉の意味を噛み締めた。
「もう、噂になっているのね」
考えれば、カレンと取引をして婚約の破棄をしてから、5日が経過している。カレンは狙って婚約破棄をさせたのだ。5日間、何もしないはずがない。
「はい。このうちの半数はお嬢様に憧れていた殿方からですが、半数は婚約を結びたいという親御さんたちからです。ああ……クレール殿下からもきていますよ」
「捨てて。と言いたいけど、ダメね。きちんとお返事を書かなくては。せっかくの休日が、つまらないことで潰れたわ。ところで……エリザ、さっき妙なことを言ったわね?」
「なんでしょう? 覚えておりませんが」
「私が、『最近親しみやすくなった』と評判なの?」
「はい。以前はお綺麗で完璧なご令嬢だったのに、最近はとても話しやすくなったと」
リーゼは、エリザに言われたことを噛みしめた。確かに、エリザ以外の侍女たちと話すことが多くなった気がする。ほとんどが情報収集のためであり、悪役令嬢らしく振る舞う練習だったのだが、結果的に楽しく談笑した記憶しかない。
「……悪役令嬢って、それでいいの?」
「私の知っている多くの物語に出てくる悪役令嬢は、周りから嫌われて、孤独でいますね」
「ダメじゃない」
「えっ……でも、私に言われましても」
「私は、悪役令嬢にならなくちゃいけないのよ。侍女たちと親しくしたり、贈り物を山ほどもらったりしていてはいけないのよ」
リーゼが真剣に訴えると、エリザは思い切ったように口を開いた。
「実はお嬢様……私はある秘密の組織に参加していまして……」
「突然、どうしたの?」
リーゼは、話題を変えたエリザを見つめた。エリザは頷いて続ける。
「ロマンス小説の読書研究会というのがありまして、その場ではお気に入りのロマンス小説を持ち寄り、紹介し合うのです。お嬢様が知りたがっていた悪役令嬢が出てくる小説もありまして」
「エリザ、よくやりましたね」
リーゼは、とっさに専属侍女の手を取っていた。
悪役令嬢という語彙のイメージで行動していたリーゼにとって、行動の羅針盤となる情報だ。
「今日、集会があります。会員の紹介があれば参加できます。参加者は……様々な身分の方がいますので、全員マスクを着用します。リーゼ様が参加していることは、誰にもわかりません」
エリザが力強く言ったが、リーゼは疑った。
「そう言えば、私が寝室に殿方を泊めたとあらぬ噂があると……先日クレール殿下から聞かされたわ」
「えっ? そ、そんなことが……」
「血のついたシーツを、誰かが洗っていたとか……エリザ」
リーゼは、握っていた侍女の手をしっかりと握り直して問いかけた。
「リ、リーゼ様、お許しください。言いふらしたわけではないのです。私がシーツを洗濯していて……侍女仲間と、お嬢様方の出血の原因などを噂しあって……リーゼ様の月のものが来る日ではないはずなのに、その前に訪問者らしき声がしていたと……その話が広がるとは思ってもみなかったのです」
リーゼは手を離した。
エリザは立ち去ろうとする。リーゼはスカートをつまんで止めた。
「お待ちなさい。私は殿方を連れ込んではいないわ。その点だけは、誤解しないで。立ってしまった噂をどうにかできるとは思わないわ。せめて、信じてくれる人には、事実を伝えておきたいだけよ。エリザは、信じてくれるわね。あの日来たのは女性の友達で、怪我をしていたのよ。誰かまでは、言えないわ」
「も、もちろんです。ラテリア様という婚約者がいたリーゼお嬢様が、不貞を働いたりするはずがございません」
リーゼは摘んでいたエリザのスカートを放した。
「この贈り物をした方々は、噂を聞いていない人たちと思っていいのかしら」
リーゼは、壁際に積み上げられたプレゼントの山を見つめた。
ラテリア王子との婚約破棄が表沙汰になったのなら、リーゼに男性が付け届けをするのも理解できる。
だが、男を寝室に連れ込んだという噂を聞けば、近づこうとする男などいないだろう。リーゼはそう考えた。
部屋を出ようとしていたエリザは、立ち止まって振り向いた。
「リーゼお嬢様、おそらく逆でございます。各貴族の皆様は、リーゼお嬢様に親しみを持ち、結婚できないまでもあわよくば……高貴な身分で美しいお嬢様と関係を持てるのではないかと、一縷の望みを託したくなったのでしょう」
「エリザ、詳しいわね」
「世の中の全ては、ロマンス小説の中に」
エリザは深くお辞儀をした。
ロマンス小説とは、男女の関係を中心に描かれたさまざまな物語だとリーゼは理解していた。
庶民を中心に読者を集め、識字率の向上と印刷技術の発展に貢献したとも言われる。
紙の製造技術が低く、10年で虫食いだけらで読めなくなるが、ゴルシカ王国の市民の娯楽として親しまれている。
「経典や歴史文書ではない空想の物語が、そこまで優れたものなの?」
「お嬢様、経典や歴史文書には、悪役令嬢が出てまいりませんよ」
「そうね。仮に聖母と呼ばれる女性が、本当は悪役令嬢であったとしても、そう書いてあるはずがないものね」
「さすがお嬢様、ご慧眼です」
「……マスクは、これでいいのかしら?」
リーゼは、仮面舞踏会で使用する目元だけを隠すマスクを見せた。
「午後2時、一緒に参りましょう」
「ええ。楽しみにしているわ」
リーゼは、心から言った。
人間の滅亡予告日まで87日
魔族が滅びるまで97日




