31 ヌレミアの治療
リーゼは、地下室で丸一日以上魔法文字に取り組んでいたこともあり、ヌーレミディアにドラゴンの血を渡すと、安心して眠ってしまった。
目覚めたのは、鼻を衝く刺激に満ちた匂いによってだった。
「お目覚めですか? リーゼ様、すぐにお食事と着替えを用意させますね」
リーゼに声をかけたのは、片腕を吊ったままのヌーレミディアだった。
リーゼは、療養中のヌレミアの部屋で、治療用の薬剤や調合道具が溢れる中で、眠っていたようだ。
目覚めたリーゼに声をかけたものの、ヌーレミディアは机の上に組み上げられた複雑な調合道具に粉末を注いでいたところで、その手を止めなかった。
「私は……どのぐらい寝ていたのでしょうか?」
「丸半日といったところですね。もう昼になります。マーベラが話してくれました。この子を救うために、魔法文字を一日中解読していたのでしょう。お疲れになるのも当然です」
「……マーベラさんはどこですか?」
「帰りましたよ。リーゼ様が寝入った直後に。あの子は、仮眠をとったから平気だと言っていましたね」
それは事実だ。リーゼが夜を徹して魔法文字の解読を試みていた間、マーベラは寝ていた。
だが、卵から出てきたドラゴンを倒せたのは、マーベラがいたからだ。
マーベラに徹夜をさせていたら、今頃は二人とも死んでいたかもしれない。
ヌーレミディアが手配した食事と着替えが運ばれてくる。王宮に仕える女官が運んできた。
リーゼは食事と着替えを済ませると、ヌーレミディアに尋ねた。
「ヌーレミディア様は、ずっと一人でヌレミアさんの治療をしているのですか? 宮廷魔術師は、他にもいるはずですけど」
ヌーレミディアは顔をあげずに答えた。
「今、大変な状況なのはご存知かと思います。自分の子を助けたいというのは、私の事情です。今は、休みをとって本来の業務を投げ出しているのですよ」
宮廷魔術師のうち、半数が従軍したと聞いていた。その半分はすでに死んでいるのだろう。
「では、ヌーレミディア様、私にお手伝いできることはありませんか? 片腕しか使えないのでは、ご不便しているのではありませんか?」
「リーゼ様は、魔法学園の成績があまり……いえ、私以上に、この国の状況がわかっているはずです。ヌレミアのことに、これ以上時間を取られてはいけません」
「私は、1人でも多く、1日でも長く、人間を生きながらえさせるのが使命だと思っています。その中には、ヌレミアさんも入っています」
ずっと調合道具を見つめていたヌーレミディアの視線が、初めてリーゼに向いた。
「リーゼ様、お気持ちはありがたいのですが……私が作っているのは、数百年以上、誰も調合したことがないはずの魔法薬です。記録も当時のものしかなく、秘匿するためか、一部が複雑な魔法文字で書かれています。宮廷魔術師でも、この調合が可能な者は何人もいません。魔法学園の学生であっても、将来を魔法使いとして生きるつもりでもなければ、この文字を読み解くのは無理というものです」
ヌーレミディアは、机の上に広げてあった分厚い本を見せた。
普通に判読できる文字も多いが、ところどころに様式の違う文字が使用されている。
「秘密を秘匿するというより……魔法文字自体に力があるため、きちんとした方法で書かれた文字は消えません。調合方が失われるのを恐れて、魔法文字だけでも意味が通じるようにしてあるのではないでしょうか」
リーゼの言葉に、ヌーレミディアの柳眉が寄った。
「リーゼ様、この文字が読めるのですか?」
「あの……いくつかは、ですが。昨日、いえ、もう一昨日のことです。魔法文字の判読表をもらい、ドラゴンの秘術によって展開された魔法陣の魔法文字を読んでいましたので」
ヌーレミディアの視線が、正面からリーゼを見つめた。本を持ち上げて、リーゼに突きつけるように見せた。
「この文字は読めますか?」
細く白い指が、魔法文字の一つを指した。
「『青色に変わり、徐々に温度が上がる。白い煙がたなびく』だと思います」
「たった一文字ですよ」
「一つの文字に、複雑な意味を持たせるのが魔法文字の特徴で、そのために扱いが難しいようです。ただし原初の文字であるため、文字そのものが力を持つのではないでしょうか」
「……なるほど。私は、この文字を紫色と読んでいました。マーベラから、リーゼ様が二晩かけて魔法文字の解読を行ったとは聞いていましたが……これほどとは思いませんでした。ではこの薬の反応は、調合の間違いではなく、正しくできていたということね。リーゼ様……古文書の解読を手伝っていただけますか?」
「喜んで」
リーゼが言うと、ヌーレミディアは無事な手でリーゼの肩を抱いた。
※
リーゼは魔法学園を休んだ。
欠席の届けが、宮廷魔術師であるヌーレミディアから提出済みだと聞かされた。
魔法学園の学園長は、ゴルシカ王国の宮廷魔術師の一人が兼務しているのだ。
講師たちのほとんどは、宮廷魔術師になることができなかった者たちである。
宮廷魔術師の中でも、大魔術師と呼ばれるヌーレミディアに逆らえるはずがない。
リーゼが持っていた魔法文字の判読表に、ヌーレミディアは半信半疑だった。
そんなものがあるはずないと考えていたし、あったとしても手に入れられるはずがないと考えたらしい。
「これを書いたのはどんな魔術師なのでしょうね」
調合の休憩中に、ヌーレミディアはリーゼに尋ねた。
「昔の魔族の姫らしいです」
リーゼは、カレンの中にいるのだとは言わなかった。証拠があるわけでもない。
だが、カレンの中の人格がすでに認めている。
「なるほど。それならあり得るでしょうね。失われた知識といっても、人間の基準に過ぎないのだから。魔族は数百年から千年を越えて生きる者も少なくないはず。リーゼ様……これは預からせていただいて、複写させていただけませんか?」
「もちろんです。お役立てください」
「ありがとうございます」
ヌーレミディアは頭を低く下げ、再び調合に戻った。
リーゼも魔法薬学の講義は受講していたが、魔法学園で学ぶ水準をはるかに超えた技術と知識が要される調合だということだけがわかった。
リーゼが調合を手伝い始めて2日後、治療薬は完成した。
リーゼは、食事と着替え以外の全てを、ヌレミアの側で過ごした。
出来上がった薬をヌーレミディアが娘に与える間、リーゼはやりきった達成感に満たされていた。
「リーゼ様、お疲れ様でした。魔法文字学と魔法薬学については、最優秀を付けるよう進言しておきましょう。もう夜ですね。王宮にお泊りになりますか?」
「いえ。だいぶ学園を休んでしまいました。明日は登校しなければなりません。寮に戻りますわ」
「わかりました。では、近衛に送らせます」
ヌーレミディアが手を叩く。戸口に控えていたのか、王宮つきの近衛兵が姿を見せた。
ヌレミアは起き上がらない。瀕死の重症で寝ているのだ。毒が無効になっても、簡単に回復できる傷ではない。
「ヌレミアさんの回復は、いつになるのでしょうか」
「この子の体力次第です。心配には及びませんわ」
ヌーレミディアに別れを告げ、リーゼは寮に戻った。
ヌレミアの治療のために時間を費やした。人間が絶滅するまで、残り88日となっていた。
女神を名乗る夢の存在が魔族の全滅を予測した日まで、98日である。
人間の滅亡予告日まで88日
魔族が滅びるまで98日




