30 ドラゴンの血
リーゼが左手に持っていた鮮やかな小瓶が、熱を持っていた。
熱い。持っていられないほどに熱くなっている。
「リーゼ様、どうしたのですか? それが熱くなっているのですか?」
魔法陣に入らないようにリーゼが忠告し、リーゼに従って離れていたマーベラが声をかけた。
リーゼは、鮮やかな小瓶を床に置いた。
「ええ。明らかな危険が近づいているのよ」
ヌレミアから受け取った小瓶は、リーゼが期待したとおり、ドラゴンの卵から再びドラゴンを召喚するために必要な魔法文字を教えてくれた。
その手掛かりがなければ、リーゼはまだ半分も魔法陣を解読できなかったと断言できる。
すでに夕方になっている。
つまり、小瓶の助けがなければ、リーゼがどう頑張ろうとドラゴンの血を手に入れるのは間に合わず、ヌレミアは死んでいたのだ。
リーゼは、ドラゴンの卵からドラゴンを孵化させるために必要な、魔力を注ぐ順番を探り当てていた。
「危険って、なんですか?」
「卵から孵化したドラゴンは、ドラゴンとして孵化した場合、魔力を注いだ者に襲いかかる。だから……小瓶が警告しているの」
「では、魔力を注ぐ順番を変えればいいのではありませんか? 魔力を注ぐ順番で、変えられるのですよね?」
「それでは、ドラゴンとは別の何かが生まれることになるわ。この卵になったドラゴンは、カレンの側にずっといるために、ドラゴン以外の何かになるために、ドラゴン族の秘術で卵に戻ったとカレンは言っていたわ。再びドラゴンとして生まれたのであれば、それはカレンの敵の仕業に違いない。そう考えたのでしょうね」
卵になる前、ドラゴンのキッシモは桃色の小さなドラゴンだった。
生まれてくるドラゴンのサイズまでは、魔法陣からは読み取れない。
時として、ドラゴンには常識が通じないと言われる。
卵から、卵そのものより巨大なドラゴンが出てくる逸話は数知れない。
「リーゼ様、お任せください」
マーベラが剣を抜いた。
魔法陣の範囲に入り、リーゼと卵の間に立つ。
「マーベラさん、どんなドラゴンが出てくるのがわからないのよ。危険すぎるわ」
「リーゼ様、ほかに選択はないのでしょう?」
「でも、マーベラさんにもしものことがあったら……」
「父も褒めてくれるでしょう」
マーベラは、振り向いて笑ってみせた。
「……うん」
リーゼは覚悟を決めた。
襲いかかってこないドラゴンを孵化させるために、魔法陣の読み方を変えるだけの時間はない。
リーゼは、熱をもった鮮やかな小瓶を握りしめ、手のひらが焼けるような痛みを感じながら、魔法陣に魔力を注ぎ始めた。
魔法陣に描かれた魔法文字は、リーゼが事前に予測したとおり、一つの文字に魔力を注ぐと、相反する意味の文字には魔力を注げなくなった。
見た目には、暗く沈んだように映る。
ドラゴンを意味するように魔力を注ぐ。鮮やかな小瓶はさらに熱を持った。
「これが最後よ」
「わかりました」
魔力を注ぐために魔法陣の上をリーゼが移動し、その度に追い続けていたマーベラは、リーゼにとってはただ邪魔なだけだと途中で気づいて、離れて見る位置に戻っていた。
リーゼが言うと、再び剣と瓶を持って、卵の前に立った。
最後の一文字に、リーゼは魔力を注ぐ。
それまで注ぎ続け、魔法陣に滞留していた魔力が、卵に向かって流れ出すのがわかった。
「マーベラさん、始まるわ」
「はい」
マーベラが剣を構える。
巨大な卵にヒビが入った。
リーゼは、自分の荷物から最後の一つとなったドラゴン避けのお香を取り出し、指先で潰した。
卵が割れた。
巨大な影が見えた。
リーゼは絶望した。
卵から生まれたドラゴンは、建物のように大きかったわけではない。だが、巨大な魔獣と呼ぶのに相応しい程度の頭部がある。頭部だけで、卵の大きさを超えている。
「マーベラさん! 逃げて!」
リーゼは叫んでいた。だが、その指示は無用だった。
卵から飛び出たドラゴンの頭部は、マーベラのいる場所を迂回してリーゼに迫ったのだ。
誰が卵を孵化させたのか、つまり誰が卵の願いを奪ったのか、明確に理解しているようだった。
向かって来たドラゴンの頭部に、リーゼは念のためにほぐしておいたドラゴン避けのお香を投げつけた。
巨大な頭部に比べて、あまりにも小さなお香の屑だ。
だが、効果はてき面だった。
リーゼを避け、苦しそうに床に突っ込んだ。
血がほとばしる。
動きを止めた一瞬を、マーベラは見逃さなかったのだ。
喉の下から剣を突き立て、ねじ込んでいだ。
滝のように流れ落ちるドラゴンの血を、リーゼは用意していた瓶に受け、蓋をした。
マーベラが力任せに剣を振る。
突き刺されたドラゴンの頭部が、床に叩きつけられた。
さすがに卵から出たばかりでは、ドラゴンといえども自由には動けないのかもしれない。
床の上に倒れたドラゴンの首を、比較的柔らかい裏側を露出させ、マーベラが切り裂いた。
マーベラが持つ剣は、父である大将軍の形見だと言っていた。
娘の手に渡り、見事にドラゴンの首を切断した。
「リーゼ様、ご無事ですか?」
ドラゴンの血にまみれて真っ赤になったマーベラが尋ねる。
「マーベラさん、あなたこそ大丈夫なの?」
リーゼは、ドラゴンの血をつめこんだ瓶を持ち上げてみせた。
「見事なドラゴンでしたね。さすがはリーゼ様」
マーベラは、横倒しになったドラゴンの死骸を足で転がした。
「私は、魔法文字を読み解いただけよ」
「魔力を流したのもリーゼ様です。それに、リーゼ様は魔法文字学を履修していないじゃないですか」
「そうね。今度、講義を受けてみるわ。もう2度と、ドラゴンの卵を孵化させる必要がないことを祈りますけど」
リーゼが言うと、マーベラは快活に笑った。
時間がない。リーゼはマーベラを連れて、階段を上って女子トイレから外に出た。
すでに学園の講義は終わっている時間だったため、校内は静かだった。
更衣室で血まみれの服を着替えてから、学園を出て王城に向かった。
2日前に来たドラゴンに破壊された城の一部は、相変わらず破壊されたまま、訪問者を締め出すようなロープが貼られていた。
見張りをしていた衛兵に名を告げても、衛兵は立ち入りを拒絶した。
「時間がありません。通してください。ヌーレミディア様にお伝えを。ドラゴンの血を持ってきました。これで、ヌレミアさんが助かるはずです」
「ヌーレミディア様は、どなたにもお会いになりません。お嬢様を亡くされたのです。心中をお察しください」
衛兵の言葉に、リーゼは耳を疑った。
だが、引き下がれない。衛兵の勘違いかもしれない。
「お退きなさい。私は、リーゼ・エクステシア公爵令嬢。公爵家の名誉にかけて、退かなければ後悔させますよ」
「しかし……」
「責任は私がとります。あなたの勘違いでヌレミアさんを死なせたら、首がなくなるとお思いなさい」
「わかりました。お待ちください」
衛兵が、封じられた通路の奥に向かって走っていく。
待つように言われた。だが、リーゼは待たなかった。
「行きましょう」
「ここにいなくていいのですか? リーゼ様」
「マーベラさんに迷惑はかけられないから、待っていてもいいですわ。私は、ヌレミアさんが死んだなんて信じないわ」
「待ってください。私も行きます」
ヌレミアの部屋は知っていた。ヌレミアの部屋というより、ヌレミアが治療を受けている部屋だ。
リーゼが足早に、2日前に来た部屋の入り口に立つと、2日前よりはるかに増えた魔法道具や素材の中に、埋もれるようにベッドがあり、その前に憔悴した大魔法使いが衛兵に厳しい視線を向けていた。
「ヌーレミディア様! リーゼ・エクステシア、お約束のものをお持ちしました」
衛兵と話し込んでいた宮廷魔術師が、リーゼに視線を向ける。
目が大きく見開かれた。
リーゼは、抱えていた瓶を持ち上げた。
ヌーレミディアの頬はこけ、2日前に吊っていた腕はまだ固定したままだった。
「まさか……手に入ったの? ドラゴンを退治したの? それとも……闇市で手に入れたの? 本物なの? 保証できますか?」
「ドラゴンの秘術で卵に戻ったドラゴンを、再びドラゴンとして孵化させました。そのドラゴンをマーベラさんが倒し、生き血を絞りました」
「信じられない話ね。本当のことなの? ドラゴンの秘術で卵に戻るなんて、聞いたことがないわ」
「本当です。ドラゴンは、別の何かに生まれ直すために、卵に戻って魔法陣を展開します。魔法陣に描かれた魔法文字に魔力を順番に注ぐことで、さまざまな魔獣になれるようですが……私は再び、ドラゴンとして孵化させました」
リーゼの説明を聞きながら、ヌーレミディアは瓶を受け取った。
蓋を開け、中のどろりとした液体に杖を向ける。
「リーゼ様……感謝します」
ヌーレミディアが膝を折り、深く頭を下げた。
人間の滅亡予告日まで91日
魔族が滅びるまで101日




