21 公爵令嬢、不可侵条約を持ちかける
リーゼの部屋の外に浮かび上がったのは、赤黒い肌を持つ馬で、背中に翼を持っていた。
ペガサスと呼ばれる存在がいる。背に翼を持つ馬型の魔物で、その優雅な姿から、神聖視されることもある。
リーゼの前に出現した赤い馬の背に生えているのは、コウモリのような革張りを思わせる翼で、爪と思われる突起が突き出ていた。
ドラゴンが変化したものだと、リーゼは察した。
馬に変化したドラゴンの前足が、リーゼの窓にかかる。リーゼはドラゴンに乗り込まれると身構えたが、その背にいた魔族将軍レジィだけがリーゼの部屋に飛び込み、振り向いて言った。
「あんたは外で待機しな」
赤いドラゴンの目が一瞬威嚇するように輝いたが、何も言わずに伸ばした前足を引っ込めた。
ドラゴンがいなくなり、赤鬼族の将軍レジィはリーゼに向き直った。
メイドのエリザが整えたベッドの上に腰を下ろす。
「あんたのお陰で助かった。あいつら、この国の連中……このあたしを生きたまま水晶に閉じ込めて、魔族軍との交渉に利用しようとしたんだってね。ギェールから聞いたよ」
「ギェール? あのドラゴンの名前なの?」
「ああ。いい名前だろう」
ドラゴンがどういう立場で名前をつけられるのか、リーゼは知らなかった。それを確かめるどころではなかった。
「レジィ閣下……」
リーゼが口を開いた途端、赤鬼のレジィは手で制した。リーゼが黙る。
「あたしは、死ぬよりもひどい仕打ちを受けかけた。それを防いでくれたんだ。あんたには、大きな借りができた。レジィでいい。敬称なんか不要だ。だからあたしも、あんたに『お嬢様』なんてつけないぜ」
レジィは歯を見せて笑う。怪我をしているのは間違いない。将軍にしては軽装で、むき出しの体の至る所から血が流れている。
「それでは……レジィ、助けたのはギェールでしょう。私はただ、あなたが封印されようとしている儀式の場所を教えただけだわ」
リーゼは言いながら、室内に備え付けの救急箱を取り出した。普段は使うことはない。この部屋をあてがわれてから、一度も開けたことはなかった。だが、万が一の時のために、備え付けることが決められているものだ。
「ああ。知っているよ。だけどギェールの奴は、あたしの場所がわからなかった。あたしを助ける義務があるっていっても、あたしの場所がわからなければ仕方がないと、諦めることが出来る程度の義務なのさ。たまたまあんたがあいつを見つけてくれて……あたしが封印されようとしている場所を教えた。ギェールが城の一部を壊して、あたしを救い出したのは、たいしたことじゃない。なにしろ、あいつはドラゴンだ。できて当然のことをしたのさ。でも、あんたは違う。大切に育てられた、ゴブリン一匹殺したことのない、お嬢様なんだろう?」
リーゼは、小さく頷いた。見下されるのは好きではないが、ゴブリンを殺したことはない。魔族たちの間では、珍しい存在なのだろう。
レジィは続けた。
「そんなお嬢様で、しかも、この国で一番偉い奴の子どもと結婚する予定なのに、その決定を破って、あたしの場所をギェールに教えた。これを恩じゃないとしたら、何が恩なのかわからないね。あんた、ギェールと取引をしたんだろう? いいぜ、魔族領に連れて行ってやる。これでも領地に帰れば、でっかい屋敷ぐらいは持っているのさ。あんたには手を出させないよ。しっかり守ってやる」
リーゼは、救急箱から消毒薬をとりだし、ガーゼに受けてレジィの肌を拭った。レジィは顔を歪めながら消毒を受け入れ、リーゼを誘った。
「私は、そんなことを望んではいません」
レジィの前で、リーゼははっきりと言った。レジィが首を傾げる。
「そうなのかい? なら、なんであたしを助けた? おかしいじゃないか。あんたがあたしを助ける理由がない。あたしは、このまま国まで飛んで帰ることもできた。そうすれば、あたしを騙して封印しようとした人間のことを報告して、すぐに魔王様が率いる精鋭が攻めよせる。人間には、もうこの国を守るような軍隊は残っていないんだからね」
「わかっています。でも……私だけが助かりたくて、ギェールに頼んだわけではないわ。レジィを封印するなんて、とても賛成できなかったのは事実よ。だってレジィ、いい人だもの」
「人じゃないよ」
魔族将軍レジィは笑い、リーゼの持つ救急箱から勝手に傷薬を選ぶと、自分で処置を始めた。
「関係ないわ。魔族だから悪いとか、そんなこと……」
「魔族は人間を食う」
「ひっ……」
「あまり、魔族を甘く見ないことだ。しかし、あんたには助けられた。あんたが、魔族側に亡命したいってんじゃなければ、あたしを連れて来るように言ったんだろう? どんな用なんだい?」
リーゼは、赤黒いドラゴンのギェールに、情報の対価を要求した。
結局ギェールは、リーゼが求めるような対価は何も用意できないとわかり、リーゼは直接レジィに対価を要求すると言ってあったのだ。
「……そうね……」
リーゼは言い淀んだ。リーゼは、ギェールにレジィがいるであろう場所を教えただけだ。
その場所に確実にいるという保証はなかったし、王城がドラゴンに襲撃されたという噂も聞かなかった。
リーゼへの情報は、たいていがラテリア王子からもたらされる。
ラテリア王子は、午前中にカレンと一緒だった。リーゼに会いに来ることはなく、ギェールがその後どうしたかも、リーゼに知る方法はなかったのだ。
だから、考えていなかった。
リーゼは、レジィに何を求めればいいか。
少し深く息を吐き、リーゼは、レジィの瞳を見た。
「相互の……不可侵条約締結ではいかがかしら」
魔族将軍レジィは、片目を釣り上げ、鼻で笑った。
「あたしを誰だと思っているんだい。魔王軍の一将軍だよ。魔王軍に、どれだけの将軍がいると思っているんだい。そんな約束、できるはずがないだろう」
「……無理なの?」
リーゼは、自分の胸の前で両手を組み合わせた。瞳で訴える。公爵令嬢の奥の手である。今まで、叶わなかった望みはない。
「無理だね。そもそも、人間側には抵抗する戦力はないんだ。魔王軍にメリットがない」
「……100日だけでも?」
「なに?」
リーゼは、夢の中で女神から言われたことを思い出していた。
人間が皆殺しになった世界で、魔族の天下は実に短い。人間が滅亡して、その10日後には、魔族が疫病で死に絶える。
「人間の選択肢は、滅びるか、隷属するか……その二つでしかないことはわかっているわ。でも、尊厳を持って生きる……100日だけ、その時間をくださらない? その間だけでいいのよ」
「その100日で、なにをするんだい?」
「最後の時を、心安らかに待つわ」
リーゼは、自分ならそうすると思ったことを口にした。レジィが笑った。
「あんたの言っていることは無茶苦茶だ。意味がわからない。でも、そんなあんただからこそ、あたしを助けてくれたんだろうね。いずれにしろ、国と国……というより、世界と世界の盟約だ。あたしが決めることはできない。ただ、そういうことを言ったのが、王の娘になるっていうお嬢様で、あたしが封印されるところを助けてくれたってことだけは伝えるよ。結果までは、責任は取れない。その時は……人間の国を滅ぼしに来る時、あたしもまた、ギェールに乗って来る。あんただけは助けてやるから、他の誰かに殺されなさんなよ」
「……はい」
レジィは立ち上がった。そろそろ出発するのだろう。窓の外に顔を向けた。
窓が開いていることを確認してから、リーゼに向き直った。
「それから……以前人間たちが勇者とかいう連中を異世界から招いて、魔王様を苦しめたことがある。そんなことが起きないように、魔王様のご令嬢が、転生の秘術を使って人間の体に入り込んでいるって話だ。勇者がまた現れるか、魔族が滅亡の危機にある時に目覚めるって話だから、全く起きないかもしれないけど、気をつけておくんだね。魂だけを転生させてもなにもできないだろうって魔王様も言っていたのに、独断で秘術を使ったお転婆らしい。あんたとは気が合うかもしれないけど、万が一目覚めていたら、なにをしでかすかわからないからね」
「……ありがとう。気をつけておくわ」
リーゼは、転生したという魔王のご令嬢がどの人間の肉体に入ったのか、知っているとは言わなかった。
「ああ。あんた、簡単には死ぬなよ」
魔族将軍レジィは笑いながら、3階の窓から飛び降りた。
リーゼが窓から身を乗り出すと、赤黒く巨大なドラゴンにまたがるレジィの背中が遠くに見えた。
リーゼは一種の高揚感をいだきながら、ベッドに入った。
もし、レジィが魔王と交渉し、人間と100日間だけの不可侵条約を結ぶことになれば、ひょっとして人間は、誰一人死なずに、魔族が全滅するかもしれない。
リーゼは役目を果たし終えたのだろうか。
だが、リーゼはこの日も、白い世界の夢は見なかった。
人間の滅亡予告日まで94日
魔族が滅びるまで104日




