20 公爵令嬢、庭園でドラゴンに出会う
リーゼが魔法学園の休日であるにも関わらず学園に登校したのは、単に小さなピンクのドラゴンとの約束を果たすためだった。
目的は果たされた。リーゼはカレンに渡した匂い袋を奪い取った。
現在はラテリア王子が持っているが、その後でカレンに戻されようが、リーゼには関係のないことだ。
匂い袋もいつまでも匂いが続くわけではない。
リーゼは、ピンクのドラゴンに報告の義務を感じたわけではないが、近くにいるのであれば一言言ってやりたかった。
ドラゴン避けは排除したが、リーゼはますます、明日からカレンにきつく当たるだろう。その自覚があった。
そのことを言ってやろうとも思っていた。
持ち歩くのが習慣になってしまったドラゴン探知の杖を取り出し、魔力を込めた。
近くにドラゴンがいる。
だが、桃色をした小さなドラゴンとは違う。
リーゼは、王都にいるはずのもう一体のドラゴンを思い出した。
慌てて走る。
魔法学園の建物から庭園に出ると、まるで置物のような立派な馬が目の前に立っていた。
置物のように見えたのは、通常の馬より大きかったからではない。筋肉が発達していたからではない。
皮膚を、赤黒く小さな鱗がびっしりと覆っていたからだ。
リーゼは思い出した。魔族将軍レジィは、乗ってきたドラゴンを馬に変化させたのだ。
「あなた、レジィのドラゴンね? 私を追ってきたの?」
言葉が通じるかどうかはわからなかった。だが、レジィはリーゼに理解できる言葉でドラゴンに命じていた。
リーゼの考えは正しかった。ドラゴンが変じた赤黒い馬は、リーゼを睨んだ。
「奴はどこだ? 死んだというのならそれでも構わないが、生きているのなら連れて帰らなければならない」
荒々しい騒音を思わせる声だった。だが、明確に言葉だ。リーゼがよく知る言葉だった。
「レジィが死んでいても構わないの? あなたの主人じゃないの?」
「ドラゴンの主人はドラゴンだけだ。他の種族と契約をしても、仕えはしない」
桃色のドラゴンが語ったことと違う。魔族に従うドラゴンは、魔族に力でねじ伏せられたのではないのだろうか。
「……そう。魔族とドラゴン族が契約をしたの? それとも、あなただけ?」
「一族として契約するほど、ドラゴン族はまとまっていない。何人かはいるだろう。だが、全部ではない」
リーゼは胸を撫で下ろした。世界のドラゴンが全て魔族に従えられたというのなら、人間は抵抗する暇もなく、圧倒的な暴力で絶滅させられるだろう。
ドラゴンとは、それほどの脅威なのだ。
「そう。でも、どうして私のところに来たの? レジィの居場所なら……」
リーゼは言い淀んだ。魔族将軍レジィの居場所を知らないかと言われれば、見当はついているのだ。
赤黒い鱗のドラゴンは、馬の姿のまま答えた。
「昨日会った中で、覚えている奴がお前だけだった。お前の気持ち悪い匂いは忘れない」
「……失礼ですわね。ひょっとして……これのこと?」
リーゼは、懐から陶器の小瓶を出した。まだ一つ、ドラゴン避けのお香が入っている。
「ああ……そうだ」
馬面のドラゴンは、口の端を釣り上げた。表情だけなら威嚇しているようだが、実際には匂いを嫌がっているだけなのだろう。
リーゼの持つ陶器の小瓶は精巧に作られており、ほぐしてもいないお香が臭うはずがないが、ドラゴンの知覚は別格だとも言われる。陶器に入ったままでも臭うのだろう。昨日の桃色のドラゴンも嗅ぎつけていたようだ。
あるいは陶器に入っているからこそ、ドラゴンはリーゼのそばに居られるのだ。
匂いの正体がドラゴン避けであることは秘密のまま、リーゼは言った。
「魔族将軍レジィは、生きているわ。でも……生きたまま、水晶に封印される予定みたいよ。どうするの?」
「生きているのなら、連れて帰る必要がある。動けないなら、奪い取るまでだ」
目の前のドラゴンは、レジィ本人か魔王軍の誰かはわからないが、レジィが生きている以上連れて帰るという契約を結んでいるのだろう。
リーゼは、昨日会った魔族将軍レジィのことを思い出した。
リーゼが深窓の令嬢のままであったら、魔族たちの動きを知ることはなかっただろう。
人間たちは魔族に従い、従順なまま、皆殺しにされていたはずだ。
リーゼは、魔族の支配を受け入れないように立ち回ることが自分の役目だと感じていた。
だが、本当にそうだろうか。
リーゼの夢の中に出てきた女神は、魔族に対する人間の態度には、ひとことも触れなかった。
ただ、人間を一人でも多く生き残らせたければ、リーゼが悪役令嬢になる必要があると言っただけだ。
リーゼは、魔族に対して人間がどうあるべきかより、リーゼ自身が、悪役令嬢としてどう振る舞うべきかを考えなくてはならないのではないか。
リーゼは、ドラゴンを見た。
「私は、ゴルシカ王国公爵令嬢リーゼ・エクステシア。あなたに契約を果たさせるために魔族の将軍レジィの居場所を教えたら、ドラゴンさんは私に何をしてくださるの?」
足元を震わせながら、リーゼはにまりと笑ってみせた。
※
寮の自室に戻り、その後の休日は穏やかに過ごした。
魔法学園の講義についての予習復習をし、魔法の技術を磨き、時間を見てまどろみ、夜を迎えた。
寝る支度をしているリーゼのシーツを整えに来た専属のメイド、エリザに語りかけた。
「エリザ、私最近、少し悩んでいるのだけれど」
「そんなお噂は、私も耳にしたことがあります。でも、リーゼ様のお悩みを、私のような下々の者が聞くわけには参りません」
エリザは、リーゼの言うことは常に真摯に取り合ってくれる。リーゼが相談したいと言えば、自分が相談相手としてふさわしいかどうか、きちんと教えてくれる。
リーゼは首を振った。
「そんなに大層なことではないのよ。エリザ、『悪役令嬢』って知っている?」
リーゼの悩みとは、まさにその一点なのだ。最初は相談自体を拒んでいたエリザだが、リーゼの口から出た言葉に、驚いたように頷いた。
「創作作家の描いた、一部のロマンス小説に出てくる令嬢を、そのような呼び方をしているようです。でも、リーゼお嬢様とは対極の存在ですよ」
リーゼは、自分でも気づかないうちに、エリザの手を取っていた。エリザは驚いて手を引こうとするが、リーゼが許さなかった。
「こんな近くに、知っている人がいたわ。どうして、もっと早くエリザに相談しなかったのかしら。そうすれば、悩む必要なんてなかったのに」
「リーゼお嬢様……『悪役令嬢』のことでお悩みなのですか?」
エリザが、信じられないものを見たように、目を凝らしてリーゼを凝視する。リーゼは答えた。
「そうなの。私、『悪役令嬢』にならなければいけないの」
「えっ? 無理ですよ。リーゼお嬢様は、公爵令嬢として立派な品格をお持ちです。『悪役令嬢』と呼ばれる登場人物は……わがままで、勝気で、世の中の大部分から嫌われる人物なのですから」
「素晴らしいわ。エリザ、とても詳しいじゃない。どこでそんなことを教わるの?」
「お、教わるのではありません。そ、そういう人物が出てくる小説の愛好会のようなものがあって、実は……その……私も会員の一人で……」
リーゼは目を見開いた。目の前の冴えないメイドが、どれほど神々しく見えたかわからない。
「リーゼ様?」
リーゼは、エリザに抱きついていた。
「エリザ、私はその集まりに参加することはできないのでしょうね?」
「残念ですがお嬢様、公爵家のご令嬢を引き込んだとなれば、『ロマンス小説を語る会』の全員が投獄されかねません」
「……そういう名前の会なのね」
リーゼのつぶやきに、エリザが自分の口を塞いだ。
「あの……お嬢様、今私が言ったことは……」
「ええ。ちゃんと覚えているわ。『悪役令嬢』は、わがままで、気が強くて、周囲の人に嫌われなければいけないのね」
「いえ、そこではなくて……そのような会があることも……」
「わかった。誰にも言わないわ。それに、私が参加したいなんて言わない。だからエリザ、私にもっと教えて。『悪役令嬢』になるには、どうすればいいの?」
「リーゼお嬢様、『悪役令嬢』になりたいんですか?」
エリザが声を裏返した。リーゼは頷く。
「無理なのかしら?」
「『悪役令嬢』は、なろうと思ってなるものではなく、結果としてそう言われる……いえ、それ以前に『悪役令嬢』になる必要もありませんし、なりたい人なんて聞いたことがありません」
「そうなのですか?」
「とても自由な生き方をしますから、ちょっと憧れる部分はありますけど……最後は破局して……小説の主人公の敵ですから、失脚するか、死刑になるかです」
「……そう。『悪役令嬢』の末路は、悲劇が待っているのね」
「それが当然の人物ですから……」
「でも、私は『悪役令嬢』にならなければいけないの」
「お嬢様、このエリザ、今日ほどお嬢様の仰ることがわからなかったことはありません」
エリザが仕事に戻ろうとした。リーゼのベッドメイクに戻ろうとしたのだ。リーゼは、エリザの手を取った。
「お願い。もう少し、悪役令嬢のことを話して」
リーゼの言葉に、エリザが怯む。その時、すでに暗闇を写し込でいる窓から、乾いた音が上がった。
リーゼは気づいた。なにかがぶつかった。一度ではない。続けて何度もぶつかる、小さなものがある。
「風かしら?」
リーゼが首を傾げる。エリザが言った。
「小説では、表立って会いに来られない誰かが、外から小石を投げている場面です。でも、そんなことは現実には起きないでしょう」
「……お話をするのが難しければ、その小説、私にも読ませてくださらない? お願い」
「貴族の皆様には、低俗な読み物と言われているものですよ」
「低俗なんかではないわ。だって……」
リーゼが言い淀む。低俗ではない。夢に出てきた女神が、『悪役令嬢』になれと言ったのだ。だが、夢に出てきたのが本当に女神なのか、女神を語る別の存在なのかは、リーゼには判断できないのだ。
リーゼの答えを待たず、エリザはベッドを仕上げて出て行った。
窓の外からは、まだ小さな音が続いている。
リーゼは窓を開けた。
リーゼの部屋は3階にある。リーゼの窓が開くのを確認して、地面を蹴った者がいる。
翼を生やした赤黒い馬にまたがった魔族将軍レジィが、三階のリーゼの部屋の外に浮かび上がった。
人間の滅亡予告日まで94日
魔族が滅びるまで104日




