12 光の聖女カレンと地下室
部屋の中央のくぼみに溜まった血の池に、全身を浸すように手足を投げ出していた少女が、浴びていた血を滴らせながら立ち上がる。
部屋の中は薄暗く、明かりは四隅にある蝋燭の灯だけだった。
はっきりとは見ることができない。
だが、少女が全裸であることは間違いなかった。
全身を浸していた血が全て肌から滑り落ちても、少女の肌はまだらなのではないかと思えた。
様々な色をした肌を持つ。
それは、魔族の特徴だ。
「カレン、あなた、魔族だったの?」
「違うわ。私は人間よ。そうでなければ、厳重な魔法の結界に守られたゴルシカ王国の王都で、活動できるはずがないでしょう」
「では……何をしていたの? これは何の血?」
「『何の血』ですって? おかしいわ。知っているでしょう? どこで、何が行われたか」
カレンが言わんとすることに、リーゼは心当たりがあった。
人間の兵士の多くが命を落とした。あるいは、全滅しているかもしれない。どれほどの被害を受けても、決して負けを認められない戦争が起きた。
だが、その戦場はゴルシカの王都から一月はかかる場所で行われたはずだ。
「遠い戦場でどれだけ死のうと、王都の中央にある魔法学園の地下に流れ込むはずがないわ」
「それはそうね」
少女は上を向いた。天井を見た。
リーゼは視線を追う。天井までは、蝋燭の光が届かない。
だが、何かが動いている。
「あなた……何をしたの? ここで何をしているの?」
「知りたいの?」
少女は挑発的に尋ねた。
「あなたが魔族でないなら、なんなの? 光の聖女でしょう? 光の魔法の儀式だとでもいうの?」
自分の声が震えていることを自覚してはいても、抑えることができなかった。恐ろしかった。人と争ったこともない。そのリーゼが、血の海に立つ少女に面と向かっている。
「光の魔法と闇の魔法は表裏一体なの。光の魔法の力を強めたければ、闇の魔法の儀式も重要なのよ。誰もそれを理解できない。だから……人間は負けたのよ」
「……あなた、人間ではないのね?」
「違うわ。人間よ。私は人間だわ。あなたと、あなたの大切なラテリア第一王子と同じくらい、人間よ」
「私は、あなたとは違う」
「そう? そうかもしれないわね。でも……飛び込んじゃったわね。女神の加護が届かない、闇の中に」
少女が笑った。まるで三日月のように、くっきりと口元が見えた。
血の池の中で、少女が足を動かす。一糸もまとわない肢体を、リーゼに伸ばしてきた。
「……いや。いやよ」
少女に飲み込まれる。リーゼはそう感じた。それが、少女の言う闇の魔法の力かどうかはわからない。
「ラテリア王子は、すぐに受け入れてくれたわよ」
「王子も……ここに?」
「まさか。そんな必要はなかったわ」
少女の腕が、リーゼの首元に伸びる。首の後ろに伸び、同時に顔が近づく。
リーゼに対して過度に怯えていた少女だった。
それは、リーゼが夢の中で会った女神の力を恐れていたのだと、リーゼは悟った。
少女の顔が近づく。唇が触れようとする。
ラテリア王子の顔が思い浮かんだ。
少女は、ラテリア王子との関係を認めた。
ただ、リーゼはそれだけが腹立たしかった。
「この、泥棒猫!」
硬直していたリーゼの体が動いた。少女の頬を張り飛ばした。
リーゼの力は知れている。攻撃力などない。
だが、虚を突かれたのだろう。少女が尻餅をついた。
「……酷い」
少女が、自分の頬に手を当てて、恨みがましそうにリーゼを睨んでいた。
リーゼは怒っていた。ラテリア王子に怒っていた。ラテリア王子を奪おうとした少女に怒っていた。
何より、簡単に奪われたラテリア王子は許せなかった。
「あんたなんかに、ラテリアはやらないわ。あれは私の婚約者なのよ!」
「……くっ。術を破られた……キッシモ!」
少女は、扉の向こうに呼び掛けた。
『なんだい。今、忙しいんだ』
扉の向こうから聞こえたのは、ドラゴンの声だ。
「この女を逃がさないで。抵抗するなら、殺してもいいわ」
「それはちょっと、難しいかもよ」
リーゼが入った時に閉じてしまっていた扉が開いた。
戸口に桃色のドラゴンが見える。その向こうに、リーゼの友人の姿が見えた。
「マーベラさん!」
友人の姿に、リーゼは夢中になって走った。涙が込み上げてきた。
怖かったのだ。
マーベラはドレス姿のまま、反り返った剣を構えていた。
「リーゼ様、こっちへ!」
扉の向こうから、母に宮廷魔術師を持つヌレミアが手を伸ばした。
リーゼが手を伸ばす。
空を掻いた。
ヌレミアがリーゼの手首をつかむ。
リーゼは、知っている手の感触に、力強く引っ張られるのがわかった。
血の臭いに満ちた部屋から飛び出す。
入れ違いに、桃色の小さなドラゴンが部屋に飛び込んだ。
けたたましく扉が閉まる。
「ちっ……開かない。なんだか、封印されているみたいだ」
閉ざされた扉の取っ手を掴み、マーベラが舌打ちした。
※
リーゼは震えていた。
自分の見たものが信じられなかった。
自分のした体験を、認められなかった。
リーゼは、光の聖女と呼ばれるカレンを恐れたのだ。
今まではただリーゼを恐れ、二人きりになればリーゼが何もしなくとも這いつくばって慈悲を請うような、無力だと思っていた平民の娘を、公爵家の令嬢であるリーゼが恐れたのだ。
カレンが地下で何をしていたのか。闇の魔法が何を意味するのか。何も考えられなかった。リーゼは、カレンに辱められたという屈辱だけに囚われていた。
「剣じゃ無理ですね。ヌレミアさん、なんとかできる?」
魔法で封じられた扉を見て、マーベラが親友に尋ねた。ヌレミアは、懐から水晶球を取り出した。
水晶球を扉にかざし、ヌレミアは言った。
「私では無理ね。力の質が違う。ママがいればなんとかなったでしょうけど……準備がいるわ」
「リーゼ様、どういたします? リーゼ様?」
マーベラに声をかけられているのはわかっていた。だが、返事をする元気がなかった。
自分の肩を抱いたまま、リーゼは暗い壁の染みを見つめていた。
「リーゼ様!」
「あっ、マーベラさん……助けに来てくれたのね?」
マーベラの手が、リーゼの肩を抱く。温かい。胸が当たる。柔らかい。
リーゼは体を震わせた。マーベラに腕を回し、必死に震えを止めようとした。
「リーゼ様、中には何があったのですか? ドラゴンがいたのは私も見ました。カレンがいたのですか?」
「見ていないの?」
リーゼが地下室で体験したことを、他の誰も理解できない。そのことがリーゼを不安にさせた。
「部屋の中は、暗くて何も見えませんでした。ヌレミアは?」
「中にリーゼ様がいたことはわかったし、リーゼ様が争っているような声が聞こえた気がしたのです。だから、つい手を伸ばして……掴んだのがリーゼ様だっていうことは、すぐに分かったんですよ」
ヌレミアが笑った。リーゼの肩を叩く。
「ありがとう、ヌレミア。あなたのお陰で助かったわ」
「リーゼ様、中で何があったのですか?」
「……この場所は封印するわ。徹底的に調べるの。どうやって扉を開けるのかも含めてね」
「はい。では、この場は撤収ですか?」
「……残念だけど、扉を開ける方法がない以上、仕方ないわね」
リーゼは、自分に言い聞かせた。扉は開けたくない。何より、中であった出来事を思い出したくはなかった。
※
マーベラとヌレミアはリーゼのことを心配してくれたが、リーゼは二人に断って一人になった。
普段から、マーベラは剣の稽古、ヌレミアは魔術の鍛錬に余念がないことを、リーゼは良く知っていたからだ。
わずかの期間人より長く生きることで、末永く生き延びられるかもしれない。そのことを、リーゼだけが知っている。
マーベラとヌレミアには、生き残ってほしいと思っていた。そのために、二人には稽古や鍛錬に励んでほしかったのだ。
一人になったリーゼは、職員室に向かった。
職員室の扉を開ける。
職員室と言っても、事務用の机を突き合わせて日誌を点検している教師の姿などはない。
通っている生徒のほとんどが貴族である魔法学園の教師たちである。本人たちも高位の貴族か、並外れた魔力の持ち主なのだ。
手の内を同じ教師に教えることはほとんどなく、職員室というのは、教師たち専用の談話室のようなものだ。
「エステシア公爵令嬢、どういたしました?」
リーゼが扉を開けると、まるで使用人であるかのように、颯爽とした古代魔術の教師が立ち上がった。
「学園内で危険な場所を見つけました。調査をお願いしたのです」
「この学園は、古代王朝の遺跡を利用しています。生徒たちが使用する場所は、全て安全対策が取られているはずですが」
古代魔術の教師は、周囲にいる教師たちの様子をうかがいながら教えてくれた。反対意見が出ないかどうか、確認しているようだ。
「では、隠されていたのを誰かが発掘したか、あるいは暴いたのでしょう。一階の詠唱室の向かい側にある女子トイレの奥の部屋です。長い階段があり、封じられた扉があります。危険な物かもしれません。徹底的な調査をお願いいたします」
「エステシア公爵令嬢は、その階段を降りたのですね?」
「はい。扉を見つけました」
「それだけですか?」
古代魔術の教師は、にこやかに尋ねた。だが、リーゼは知っていた。笑いながら質問する男には、気を許してはいけない。
経験談ではない。リーゼは、ラテリア王子以外の男と話したことはあまりない。魔法学園の淑女学で学び、母からも同じことを言われてきたのだ。
「……それだけです」
「お一人で?」
「それが、重要なことなのですか?」
「いえ。解りました。調査を行うよう、学園長に申し上げます」
「はい。お願いします」
リーゼは軽く腰を曲げた。リーゼの立場では、これ以上頭を下げることはない。
ほとんど位置が変わっていないとはいえ、頭を下げた。だがリーゼは、古代魔術の教師がリーゼの望むように調査するとは、とても思えなかった。
※
リーゼは、学園から寮に帰るときの習慣として、教会の礼拝堂を訪れた。
夢に直接現れるようになってから、教会で祀られている存在に近しい気持ちを抱く一方、敬う思いが薄れていった自覚がある。
夢に出てきたのが、本当に女神だという確証はない。
それでも、リーゼには祈りをささげる対象が他に居なかった。人間のほとんどにとっては同じだ。リーゼのように熱心に礼拝堂を訪れない人たちは、そもそも信仰を持たないのだ。
リーゼは、長い時間祈っていた。
顔を上げる。立ち上がった時、礼拝堂の戸口に立つ綺麗な女性がいることに気づいた。
優し気な笑みをリーゼに向けた。見知っていた。
ヌレミアの母、大魔導師ヌーレミディアだった。
「お久しぶりです」
「リーゼ様、大変な思いをなさったようですね」
祈りが終わるまで待っていたのだろう。ヌーレミディアが寄りかかっていた扉から離れて、リーゼに話しかけた。
「……どのことでしょうか? 最近、色々なことがありすぎて……」
「解ります。でも、誤魔化してはいけません。女子トイレの奥にある階段と、地下室のことです」
ヌレミアから聞いたのだろう。リーゼが礼拝堂に必ず寄ってから帰ることも、ヌレミアなら知っている。
「ありがとうございます。でも、ヌーレミディア様は、お忙しいでしょう。私のためにお時間をとらせるわけには……」
大魔導師は、リーゼに近づき唇に指を立てた。リーゼは言葉を失った。ほんの弱い魔術だったが、微量の魔術を巧みに使う技ほど、強い魔力の持ち主でなければならないのだと、リーゼは聞いたことがあった。
「今、人間全体が大変な危機にあるのはご存知ですね?」
「……はい」
リーゼは、単純な返事しか頭に思い浮かばなかった。それすら、魔術によって誘導されている結果なのだ。ヌーレミディアが、形のよい真っ赤に塗った唇を吊り上げた。
「もし、ラテリア王子から聞いただけの情報しかお持ちでないなら、事態はより深刻だと申し上げておきます」
「いいえ。このまま何もしなければ、人間は全滅します。おそらく……95日後に」
リーゼの頭に、自分が知っている情報が現れた。リーゼは口を動かしていた。言うつもりはなかった。思い描いた言葉を口にしてしまう魔術が使われているようだ。リーゼの言葉に、ヌーレミディアが目を見開いた。
「リーゼ様、それをどこで聞きました? 私でも……そこまで正確には予見できません」
「いえ、あの……」
リーゼが、背後の女神像に視線を送った。ヌーレミディアが頷いた。
「ならば……私がただ、リーゼ様を心配してここに来たわけではないこともご理解いただけるでしょう。魔法学園は、古代の遺跡を改良して再活用したものです。かつては、古代魔法王朝の城だったとも言われています。その地下に、まだ調査の及ばない魔法知識が眠っているとしても不思議はありません。リーゼ様、地下で何があったのか、話してくださいますね?」
リーゼは頷いた。
これが、リーゼの役割なのではないかとすら、リーゼは感じていた。光の聖女であるカレンの正体と、魔法学園の地下で眠っている施設の概要を、現代ではもっとも魔法に長けた大魔導師に伝えることができれば、リーゼが悪役令嬢を演じた甲斐があったともいえる。
リーゼはヌーレミディアに全てを話した。親友のマーベラやヌレミアには言わなかったことだ。ただ、夢で女神がお告げをしたことは黙っていた。直接は聞かれなかったし、大魔導師ヌーレミディアが夢の中に出て来た存在をどう解釈するのかが怖かったのだ。
「リーゼ様は、私が想像していた十倍は勇敢でらっしゃいますわね」
全てを話し終えて、ヌーレミディアはリーゼの肩を叩いてそう告げた。
ヌーレミディアは、魔法学園の調査を約束してくれた。
別れ際、リーゼは尋ねた。
「ヌーレミディア様は、私に魔法をかけましたか?」
ヌーレミディアは笑みを深めた。
「人間が滅びずに済んだら、いかようにも罰をお受けしますわ。その時、リーゼ様が王妃と呼ばれるのであれば、罪を償う価値はあるというものです」
大魔術師のほほ笑みに、少しだけ肩の荷が下りたように感じたリーゼは、魔法学園女子寮の自室に帰った。
人間の滅亡予告日まで96日
魔族が滅びるまで106日




