Sideスル:裏切り者として
深い深い峡谷。
夜の闇にまぎれて、暗黒の神殿は存在した。
人が寄りつかない沼地。未踏の大地。法の目が届かぬ場所。灰色の地点の中でもとりわけ濃くて、灰色と灰色が重なりあった暗黒地点。
魔性の住処を、スルは歩いていた。
いつもは怯えた表情で魔王の彫像が並ぶ廊下を歩くのだが、足取りはまっすぐだった。
(そーしていないと挫けそーだしね)
たとえ挫けても屈する気などなかったが。
両開きの扉が目の前にあらわれる。スルはいつもどおりに告げた。
「三邪王様、スルがまいりました」
ギギギと扉がひらいていき、濃い魔性の霧が床下から漏れてくる。
邪王の間の空気はあいかわらず重苦しいものだが、普段とは意味合いが違った。
背もたれの長い椅子に座っている三邪王たちは不機嫌さを隠していない。
特に邪王ウオウが苛立っていた。
「どういことだ⁉ 邪鬼ヴァニーがどうしてあっさり倒された⁉⁉⁉ 人間共も怯えてやがらねぇ! バニー祭りだと……ふざけるな‼」
「くひひっ……お、落ち着きなよウオウ。落ち着くんだ……落ち着くんだ……」
邪王サオウは自分に言い聞かせるようだった。
邪王チュウオウも口にはしないが悔しいようで、ローブの裏で歯ぎしりしていた。
「愛しいスル、君は間近で見ていたのだろう? 説明してくれるかな」
スルは恭しく膝をつく。
いつもみたいに目を伏せることはなく、見あげていた。
「スル! どういうことだ! 早く説明しやがれ‼‼‼」
邪王ウオウが怒鳴り散らし、邪王の間がビリビリとふるえた。
彼らが本気を出せば自分なんか粉々になってしまうとスルにもわかっていた。
「……どうもなにも邪鬼ヴァニーが弱かっただけのことです」
「んだぁと⁉」
「名を馳せたといっても、しょせん大昔にです。恐怖なんて風化もしますし、人間たちが都合よく名も利用もしましょう」
スルがすらすらと答えると、今度はひりついた空気を感じる。
邪王サオウだ。
「ふひっ……ところでさ。君、寝首をかかずに帰ってきたようだけど……?」
「する必要がないからです」
「……くひっ? 言葉の意味が読めないなあぁ くひっ、くひっ」
邪王サオウの神経を逆撫でしたようで、ひきつった笑い声をあげていた。
今度は肌にまとわりつくような、ねっとりした空気を感じる。
邪王チュウオウだ。過去最大の殺気を感じる。身を溶かしそうな魔性の霧がスルの足元から這いあがってきていた。
「愛しいスルよ。しょせん大昔に名を馳せたとは、私たちのことも含めて言ったのかい?」
「……含めて言ったつもりだけど、わからなかった? じゃあキッパリ言うよ」
空気が一気にザラつく。
「アンタたちの時代はさ、とっくの昔に終わったんだ」
言ってやったとスルは思った。足はふるえているし、舌がいきおいよく乾いていく。恐怖で瞳孔がひらきっぱなしなのがわかるぐらいだ。
それでもスルの頭は冴えていた。
内側から熱がどんどんと溢れていくのを感じていた。
「……愛しいスル、君とはよい関係を築けていたと思うのだけどね」
「はあ? 冗談言わないでよ! 一方的に支配する関係じゃないか! だいたいアンタらだけじゃなにもできないくせに、せこせこ隠れる魔性が大物ぶるんじゃないっての!」
邪王ウオウがいつもみたいに黙らせようと、大声で怒鳴る。
「スル‼‼‼ 俺たちの力を知らないようだな‼‼‼」
「知ってるよ! 魔王には及ばない、たまたま生きのこっただけの魔性だろ!」
「ぶ、ぶっ殺されてええか⁉」
「殺したら困るのはアンタたちだろ⁉」
スルは立ちあがろうとしたができなかった。
邪王サオウが、スルの体に激痛がはしるよう血の祝福を働かせていた。
「ス、スル、スルスルスル……スルー? ず、ずいぶんと見くびっているようだね? き、君が調子にのったのはー……あの連中が原因かなああああ?」
「……見くびっているのはアンタたちだろ」
「に、人間共がボクたちにかなうわけ――」
「認めたくないんだろ! もし自分より強い存在なのだとしたら! もし勇者ダンのような強さだったら! もう、この世界に居場所がないとわかるのが……怖いんだろ!」
息ができないほど肺や心臓が傷めつけられる。
このまま気絶したらどれだけ楽かと思ったが、スルは汗をぼたぼたと流し、歯を食いしばってでも立とうとした。
邪王チュウオウがどこまでも冷たい声でたずねる。
「愛しいスル、私たちが怯えている……そう言いたいのだね?」
「そうだよ! アンタたちはさ、魔王が滅んでいると認めたくないんだ‼‼‼」
ぶっちゃけ、スルも確証がもてなかった。
門番の人知を超えた力と、彼の仲間たちと力を合わせればどうにか勝てたかもしれないと思うぐらいだ。
もう滅んでいると思えたのは、門番のひどい勘違いっぷりだ。
彼本人があの圧倒的な強さに気づいていない。強すぎるのに大きな騒ぎにならない。なにか誓約があると、スルは考えた。
事実、彼を最初に調べた悪魔族は、もう彼のことを忘れていた。
おそらくだが、血の祝福に似た儀式が施されている。
それも闇に隠れひそんで暗躍しようとする者を想定した儀式だ。
対魔性を想定した存在。何者かが施した儀式は……もしかすれば、神々の祝福なのかもしれない。
魔王分身体なんて存在しない。
彼らが魔王を倒したのだと、スルは勇気をふりしぼって立ちあがる。
「アンタたちの時代が訪れることはないよ」
邪王の間のよどんでいた空気が驚くほど澄み、激痛が消え去る。
自分の命をどうすべきか、冷静に見定められているのがわかった。
邪王チュウオウは興味をなくしたかのようにささやいてくる。
「スルよ、私たちを裏切るのかい」
「アンタたちとはもう付き合えない。それを面と向かって言いにきただけだよ」
つまるところ、これは自分のケジメだとスルは思った。
半端にアリスとクリスを助けてしまい、半端にココリコを受けいれて、門番一行のはちゃめちゃに笑ってしまった自分へのケジメだ。
「そう怯えなくても、この場所もアンタたちの存在も誰にも言ってないよ。これ以上裏切りをつづけるのがイヤになっただけ。それにさ――」
スルは最高に悪そうに微笑んでやった。
「うちの目指す楽しいに、アンタたちはいらないんだよねー?」
邪王に力を貸したところで、仲間が心の底から笑える世界なんてやってこない。
鼻からわかっていたことをキッパリと言ってやっただけだった。
(いつか、また、か)
彼がどんな気持ちで言ったのかわからないが、その言葉を本当のことにしたかった。
けれど、三邪王の強烈な魔性を浴びて、スルは覚悟を決めた。