一章⑨
9
「はいよ嬢ちゃん! 熱いから気を付けてな」
「ありがとう、おじさん!」
屋台の店主から手渡された出来立てのミートパイを頬張る。口の中いっぱいに広がる肉汁。それは自由の味だった。
白雪寮から抜け出したブリジット・ヴェルランドは学院制服姿のまま、王都の街並みをひとり歩いていた。王国最大の都市であり、人口十万人を超える王都の市場はまさに盛況の一言。その雑多な人混みは、ブリジットの存在を溶け込ませるなによりの隠れ蓑といえた。
フードを被って顔を隠すような真似はしない。そんなことをすれば逆に目立ってしまうだろうし、そんなことをしなくとも自分の素性が露呈することはないとブリジットは確信していた。
なにせ彼女が『王女』となった――させられたのはほんの五年前のことで、それ以降も姿を極力隠してきたのだから。
ほんの数歩進むだけで、一瞬にして何十人もの国民たちとすれ違っていく。しかしそのうち一人として、王女であるブリジットに気付きはしない。あれこれと指図してくる口うるさい教育係も当然いない。
ああ、なんて自由なんだろう! 久方ぶりに訪れた気楽さに伸びをしながら、もう一口パイを齧る。そうだ青空の下で食べるご飯はこんなにも美味しかったんだ。
ふと、前方を歩く小さな少女の二人組が目に入った。身長差のあるその背中は姉妹だろうか。歩幅の狭い彼女たちを追い抜きながら、ぼんやりと思う。
……せっかくなら、エミリーも一緒だったら良かったのに。
彼女を置き去りにしておきながらなんて身勝手なことを、とは自分でも分かっている。それでも、そう思ってしまうほどにブリジットは彼女のことを気に入っていた。
エミリーはいい子だ。可愛くて、清廉で、そしてなによりブリジットを慕ってくれる。こんな自分の正体を知っていてもなお。
そんな彼女のことを好きにならないはずがない。
あるいは、ただ街へ遊びに出るということであればエミリーも付いてきてくれただろう。ブリジットが熱心に誘えば、食べ歩きも許してくれたかもしれない。
それはきっと楽しくて、その光景を想像するだけでブリジットの胸は弾んでしまう。
しかしそれはできない。たとえエミリーといえど、今回ばかりは連れていくわけにはいかないのだ。
五年ぶりにかなう母との再会は、二人きりでなくてはならないのだから。
王都中心部からしばらく歩き、人々の喧噪も遠ざかった郊外にその一軒家は建っていた。
二階建て、木造建築であるその家は所々に痛んだ箇所が見られ、玄関前に広がる庭も雑草が野放図に伸びている。手入れをする人手がないのか、それとも意志がないのか、家屋自体は小さくないだけにその状態の酷さは際立って見えた。
「ママ……」
記憶の中の生家から程遠い目の前の光景に、思わず声が漏れる。が、意を決して敷地へ足を踏み入れた。
ドアノッカーは使わない。五年ぶりであろうと荒れていようと、ここはブリジットの家だ。我が家に帰るのにノックする者はいない。
キィという音を立てながら玄関扉が開く。視界に入ってきた玄関ホールは外観ほど荒れてはおらず、そっと胸を撫で下ろす。
「だれ?」
居間から飛んできた声。聞きたくて堪らなかったその声のもとへ、ブリジットは駆け込んだ。
「ただいまママ!」
安楽椅子に座る中年の女性の驚きに見開いた目が、ブリジットへと向けられた。編み棒を握ったその両手も、ピタリと制止している。
「ママ……」
数年ぶりに体面した母の顔は、少し痩せたように思え、そして皺が増えていた。まだ四十前だというのに、それよりもずっと老けて見える。艶のある赤髪だったはずの髪はボサボサで、白髪すら混じっていた。
家の荒廃ぶりを見た時以上の衝撃を覚えつつ、ブリジットは女性に向かって一歩踏み出す。
が、
「困ります王女様!」
女性の声がその出足を阻んだ。
「ここは貴女様がお見えになっていいような場所ではございません! 私のような下々の者とお会いしてはなりません! ……会ってはならないのですっ」
「……どうしてそんなこと言うの」
声が震える。無意識に目から溢れた涙が頬をつたい、床へと落ちていく。感情が口をついた。
「私はブリジットよ! 王女なんかじゃない。あなたの娘のブリジット! お願いだからそんなこと言わないで……!」
「っ……!」
女性が何か言い返すより前にブリジットは彼女へ駆け寄った。胸元に顔をうずめ、強く抱き締める。
耳に入るのは彼女の鼓動と、自らの嗚咽だけ。少しの間をおき、女性の手がそっとブリジットの頭を撫でた。顔を上げる。
「体は大きくなったのに、泣き虫なのは相変わらずね。……私の愛しのブリジット」
すぐ目の前にある母――メリル・スチュアートの涙混じりの微笑みにブリジットの感情は決壊した。
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