幕間①
幕間1
「よーし焼き上がった。ミア、頼む」
「うん」
焼きたてのパンが載ったトレイを父から受け取り、ミア・ブーケドールは大きく息を吸った。
芳しい匂いが鼻腔一杯に広がり、思わず笑みがこぼれる。何度嗅いでも、この香りはミアにとって特別な喜びを与えてくれるものだ。
とはいえ、いつまでも喜びに浸っているわけにもいかない。焼きたてパンの粗熱を取るためトレイをテーブルに置き、その横に置かれたパンを手に取る。
……うん、もういいかな。
ナイフを握り、適温まで冷めたパンを一枚づつ薄切りにしていく。そうして切り分けたパンを、売り場で商品を並べている母のもとへと運んだ。
「お母さん、これもお願い」
「ええ。あら、だいぶ上手く切れるようになったじゃない」
「そりゃあもう、厳しく鍛えられましたから」
「馬鹿言ってないの。ほら、お店開けてきて」
「はーい」
玄関を抜け、店先へと出る。店先にはすでにいつもの常連客たち数名が並び、開店をいまかいまかと待ち構えていた。
「みなさん今日も朝早くからありがとうございまーす!」
ミアが声を掛けると、常連客たちから笑い声が返ってきた。爽やかないつもの朝の光景だ。
彼らの視線を背中に浴びながら、玄関扉に掛けられた看板をひっくり返す。『準備中』とあった裏面から『営業中』という表面へと。
笑顔で振り返り、再びミアは声を掛ける。
「さあどうぞ、いらっしゃいませ!」
両親の経営するパン屋の手伝い。それはミアにとって毎朝の習慣であり、日常だった。
しかしそうなったのも、ほんの数年前。ミアがいまの両親ーー養父母に引き取られてからのことだ。
それより以前、ミアは孤児だった。孤児になった経緯については一切覚えておらず、物心ついた頃には孤児院で暮らしていた。当然、両親の顔も、いま生きているのかどうかすらわからない。
そのためミアという名前や誕生日なども、その孤児院の院長が考えたものだ。
孤児院での暮らしは貧しく、そして辛かった。
かつて王国には王立孤児院があり、戦災により生まれた多くの孤児を引き取っていた。しかしちょうどミアが生まれた前後の時期、その王立孤児院で大きな不祥事が発覚したという。その不祥事の内容については誰も教えてくれず不明なのだが、いずれにせよそれがきっかけとなり王立孤児院は閉鎖された。
残された多くの孤児たちは王国内に点在する民間の孤児院へと振り分けられた。受け入れの可否など問わず、ひたすら一方的に。
その結果、多くの孤児院で適正収容数を超えた孤児を抱え込む事態が発生した。一人当たりのパンは減り、寝床も二人で一つのベッドを使用するのである。
そうして生まれたのは、孤児たちの間での差別だ。もともと民間孤児院にいた子どもから、王立孤児院から転居してきた子どもに対する虐めや暴力。
ミアはその構図の後者にあたる子どもであった。
親を亡くした孤児たちの多くは愛情に飢えている。それが故か、彼らの振るう拳には手心というものが存在せず、苛烈を極め、なかには骨折といった大形怪我を追う例さえあった。
人手も予算も足りない孤児院の職員たちに、それらを完璧に取り締まれと言うのは酷だったろうか。
孤児院という小さな世界は、ミアにとって暗く、息苦しい地獄に他ならなかった。
そんな地獄から救い出してくれたのが、いまの養父母にあたるブーケドール夫妻だ。
子どものいない夫婦だった彼らは、自分たちの暮らしが戦災から多少なりとも回復したのを契機に養子を引き取ろうとした。孤児院を訪れ、何人かの孤児たちとの面談を経て彼らが選んだのがミアだった。
奇跡だと、そのときミアは心から思った。
ミアがいた孤児院だけでも何十人という孤児が在籍し、さらに王都にはそんな孤児院がいくつもある。その中でミア一人だけが選ばれ、救われるなど奇跡以外のなにものでもなかった。
ブーケドール夫妻には感謝してもしきれない。その感謝を示すため、ミアは精一杯『良い娘』を演じた。
もともとミアは、一人でいることを好む子どもであった。いつも伏し目がちで、笑顔など滅多に浮かべない根暗な少女。あるいはそれも孤児院での虐めを増長させていたのかもしれない。
けれど、それではダメだと思った。
そんな子どもは大人から好かれない。好かれなければ、捨てられてしまう。また孤児院に逆戻りだ。
だからミアは、自分を変えた。
とにかく明るく振る舞い、よく笑うようにした。根暗な本心が拒否反応を示しても無理やり抑え、なにも面白くなくても笑った。
夫妻の稼業も積極的に手伝った。パン屋の朝は早く、早起きは辛かったが、そんなことは一度も言わなかった。ときには「楽しいよ」などと笑顔で嘘もついた。
そうした日々を一年も続けていくと、不思議なもので、自らを偽っているという自覚すらなくなってきた。
ーー本当のあたしって、どんな性格してたっけ? ってか本当のあたしってなに? いなくなると困るんだっけそれ。
という自問の末、ついにミアは本心からミア・ブーケドールになった。
だがあるいは、ミア自身もはや見つけるのことのできないほど心の奥底には、かつての彼女が座り込んでいるのかもしれない。
そう思わせるような出来事がミアにはあった。
夜眠る際、ミアはよく夢を見た。夢の中で彼女は一人の少女と共にいる。長い銀髪をした、まるで人形のように美しい少女だ。
その少女を引き連れてミアは、あろうことか戦地を駆け巡っていた。そして四色の魔術を駆使し、敵軍を蹴散らしているのだ。
これだけなら、ただの都合の良い妄想に即した夢だと思えなくもない。こんな夢を何度も見るとは、よっぽどあたしは鬱屈してるのかな、と。魔術の才が発覚し、王立魔術学園への入学が叶うまでミアはそう思い続けてきた。
事態が動いたのは数日前、一人のクラスメイトーー四色魔術を使う男子生徒、アリスター・ドネアの自宅を訪ねたときだ。
彼の魔術の師と会うことを目的とした訪問だったが、そこにいた少女の姿に目を疑った。
メディアと呼ばれる彼女は、ミアの夢に幾度となく現れ、行動を共にした少女に他ならなかった。
もちろん、ミアの中にこれまでメディアと出会った記憶などない。
しかし目の前のメディアの姿は、髪の色から睫毛の形まで、なにもかもが夢の少女と合致していた。
ひょっとして、と一つの疑念がミアの頭をよぎる。
自分の中にはもう一人……孤児院時代のかつての自分がいて、彼女もまたこの身体を操っているのでは?
ミアにその記憶がないということは、意識を失っている間ーーたとえば眠っている間に。
馬鹿な。あり得ない。仮に万が一そうであったなら、ミアと対面した際にメディアがなに言ってくるはず。しかし彼女は明らかにミアと初対面という様子だった。
理性がそう主張する一方、ミアの感情は恐怖に苛まれていた。
自らの知らぬところで、もう一人の意思のもと闊歩する身体。もしもその姿でブーケドール夫妻と遭遇し、彼らを失望させる言動を取ったとしたら……?
これまで重ねてきた苦労は水泡に帰し、ミアは捨てられてしまうかもしれない。また一人になってしまうかもしれない。
それだけは絶対に避けなくてはならない。
それからミアは夜眠る際、自らの手足をひもで縛るようにした。寝苦しいことこの上ないが、こうしなければ不安で眠れなくなっていた。
もちろん自分で縛った以上、自力で解くことは可能だ。そのため仮に"もう一人の自分"に身体を乗っ取られれば、きっと彼女はひもを解くだろう。
しかし彼女がまたベッドに戻る際、あらためて縛り直すことはしないはず。つまりミアは毎朝、昨夜と変わらず自らを縛り付けるひもを確認することで「昨夜は"もう一人の自分"に乗っ取られなかったんだ」と安堵できるのだった。
そうして今夜もまた手足を縛り眠っていると、ミアの意識は夢の世界へと誘われた。
しかしその内容は、これまで見てきたものとはまるで違った。
隣にメディアの姿はなく、ミアは一人でどこかの宮殿の中を歩いていた。当然そんな場所にこれまで足を踏み入れたことはなく、正確にどこかは分からない。
歩いていくと、衛兵らしき男たちがミアの前に立ち塞がった。彼らに対し、夢の中のミアが何かを言う。音はなく、なんと言ったかまでは分からない。
しかし次の瞬間、衛兵たちはその手に握った剣を自らの首へと一斉に突き立て、そして引き抜いた。
鮮血が舞う中ミアは、倒れ崩れる彼らを一顧だにせず歩を進める。そうしてたどり着いた一室の扉を開け放つと、その中にいたのはミアも顔だけは知る人物だった。
ランスロット・ヴェルランドーー王国の第三王子だ。
住む世界の違う高貴なその人物にも、ミアはゆっくりと歩み寄り、そしてーー。
「ーーっ!」
不意に意識が覚醒し、ミアは慌てて目覚めた。
全身から汗が吹き出し、動悸が激しく乱れている。
いま見た光景。それは夢というにはあまりに生々しく、そして凄絶だった。
しかしあんなものが現実であるはずがない。あんなことミアに出来るはずがない。
「はぁはぁ……っ」
呼吸が整うのを待ち、それまで意識して見ようとしてこなかった手足へと、目を向ける。
ひもは縛られたままだった。
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