一章⑪
11
「私、今日はもう帰るね」
母から手を離し、ブリジットは席を立った。これ以上ここにいたら、帰ることが嫌になってしまうように思えたからだ。
「そうね。……それがいいわ」
「本当なら久しぶりにママのご飯が食べたいんだけど……」
窓の向こうに広がる空はすっかり暗くなり、そろそろ寮の門限時刻を迎えようとしていた。ブリジット本人はそんなものに縛られるつもりは毛頭ないのだが、エミリーはきっと怒るだろう。怒られるのならまだしもひょっとしたら悲しまれるかもしれず、さすがにそれは本意ではない。
玄関へ向かうと、母も見送りに来てくれた。ドアノブに手を掛けながら、言う。
「それじゃあママ、体には気を付けてね」
「ありがとう。あなたもね、ブリジット」
「うん。またすぐに来るわ」
「それはダメよ」
母が強く言い切った。有無を許さぬその語気にブリジットは言葉に詰まった。
「だ、ダメってどうしてそんな……」
「あなたはブリジット・ヴェルランド。歴としたこの国の王女で、私の誇り。だからこそあなたには、立派な魔術師として光の当たる場所で輝いていてほしいの。そのためにも、こんな所に来てはいけない」
「でも私は」
「――お願いブリジット」
胸元に衝撃。母がブリジットの胸に飛び込んできたのだ。突然の行動にブリジットの手足は硬直し、抱き返すことすらできない。
唯一、目線だけを胸元にある母の頭へと動かす。
……小さい。
あらためて眺める母の背は、記憶のなかのそれよりもずっと小さかった。この五年の間にブリジットは母の背を追い越していたのだ。
そんな小さな肩とその声を震わせながら母が告げた言葉。その意味が分からないほど、ブリジットは子どもではない。
公式の記録上、ブリジットは国王と王妃の間に生まれた子となっている。王家の人間から優秀な魔術師を輩出する、という王家の目的を考えればそれは当然の処置だろう。まさか「妾の子に魔術の才がありました」などと喧伝するわけにもいかないのだから。
母とブリジットの関係を示す記録類の一切は消去されたと聞く。しかし赤の他人であるはずの二人が頻繁に面会していては不審に思う者が出ないとも限らない。もしも万が一にも二人の関係が暴かれ、ひいては王室の目論見が明らかになった暁には、その信用は失墜する。
そのため王室からは、許可なく母と面会することを固く禁じられていた。破れば身分の保証はない、と。
そうした事情を知っている母が「もう会いに来るな」と言ってくるのは、至極当然のことだ。
唇を強く噛む。
「……分かったわ、もう会いにはこない」
小さく答えると、母はそっと離れ、顔を上げた。そこに浮かぶ涙混じりの笑みに、ブリジットの胸は強く締め付けられた。
「ありがとう。さようならブリジット」
「さようならママ」
足早に我が家を出る。すっかり夕闇に包まれた辺りの風景は滲んで見え、ブリジットはあらゆる感情を振り払うように地面を蹴った。
白雪寮へ戻る道を駆けながら頭に浮かぶのは、あんなぼろ家に一人残された母のこと。ブリジットが出ていった後も玄関に立ちすくみ、ドアの向こう側をじっと見つめている母の姿が、ありありと浮かんでしまう。
「はぁはぁ……!」
胸が苦しい。心臓が張り裂けそうだった。冷たい夜の空気をどれだけ吸い込んでも、呼吸は楽になってくれなかった。
それでもなお足を動かし続ける。
王都の中心部まではまだ距離がある。往路に使った大通りを進んでは、白雪寮に着く頃には夜中に近い時刻になってしまう。一刻も早く戻り、エミリーに会いたかった。
仕方なく大通りから、白雪寮の近道である脇道へと進路を変更する。多少の明かりが灯っていた大通りからうって変わり、その通りに在る光は夜空から降り注ぐ月明かりのみで、足元すらはっきりと窺えない。さすがに全力疾走できる環境ではなく、早歩きへ切り替えた。
速度が落ち、周囲のじっとりとした空気が頬に伝わってきた。道端に打ち捨てられたゴミが放つ悪臭に、思わず鼻を抑える。通りに建ち並ぶ低所得層向け集合住宅からは物音ひとつせず、本当に人が住んでいるのか疑問が湧いてきた。
貧民街。華々しい王都において異色の存在であるこの周囲一帯はそう呼ばれていた。
魔術師がこの国における最上流層だとすれば、ここに住まう者たちはその対極――最下層に位置している。外国人や前科者などが主な住民層であり、日々のパンにも困るほど貧しさにあえぐ彼らは必然的に犯罪に手を染め、生き凌いでいた。
「っ」
思わず舌打ちが漏れる。いくら急いでいたとはいえ、面倒な場所に足を踏み入れてしまった。
警戒心を持ちながら歩を進めていくと、前方に一人の少女が見えた。まだ十にも満たないであろう少女は大声を上げて泣き喚き、その悲鳴にも似た声は聞く者の胸を掻き毟るようだ。
……怪しい。盛大に怪しい。怪しすぎる。罠でなかったら逆に驚くほどに。
そう思いつつ、それでもブリジットにはあの少女を見過ごすことはできなかった。王女だから、ではない。独りぼっちで泣き喚くあの少女が、かつての自分と重ねて見えたのだ。
「ねえあなた、どうしたの?」
少女の傍らに膝を着き、優しく語りかける。少女は嗚咽を漏らしながら、拙くも状況を伝えてきた。
「お母さん……いないの。さっきまで一緒にいた、のに……連れてかれちゃったの」
「お母さんが?」
うわぁ、とブリジットは内心で頭を抱える。いま母娘を持ち出されたら、どんなに怪しくとも手を差し伸べる以外の選択肢はなくなってしまう。
「……連れてかれたって、だれに?」
「あっち」
少女が通りの脇から伸びる裏路地を指差す。どこに連れていかれたのかについてはまだ訊いてないんだけどなぁ。
「お姉ちゃん一緒に行ってくれるの」
「すごい話を強引に進めていくわね、あなた」
ため息をつき、ブリジットは立ち上がった。少女の手を取り、裏路地へと歩を進める。ただでさえ暗い貧民街において、月明かりすら満足に注がれない裏路地はもはや暗闇にも等しかった。
少女に手を引かれる形で裏路地を進んでいく。足元などほとんど見えないような暗がりにも関わらず迷いなく歩く少女の背に一抹の不安を覚えつつ、無言で付いていくブリジット。
裏路地は開けた空き地へとつながっていた。四方を集合住宅に囲まれたそこには五人の男が待ち構えるように佇んでおり、一見した限り少女の母親らしき女性は見当たらない。
「――あ」
ブリジットから手を離した少女が一目散に駆け出した。空き地を横断した少女は男たちの一人へと駆け寄り、その背に隠れるようにしてこちらを窺っている。
背後から聞こえた足音に振り返ると、三人の男が裏路地から姿を現してきた。その手にはナイフと思しき刃物が握られている。
四方を囲まれた空き地。唯一の逃げ道は封じられ、計八人の男たちに前後を挟まれた状態でブリジットは彼らに告げた。
「いや、知ってたけどね?」
これだけは言わずにはいられなかったのである。
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