獣が死んだ夜
おお、と一声痛ましい声を喉の奥から絞り出すと、獣はどうと大地の上に倒れ込んだ。森中から痛哭の声が沸き起こり、うわんと木々の間に谺して身を引き裂かれる様な悲しみを力一杯に表し、抗議の拳を天に向かって突き上げた。星々は彼等の遙か頭上で無数の幻雲の如き煌めきを瞬かせ、山の端に薄らと架かった暗雲はその明かりを受けてぼんやりと浮かび上がっていたが、何時もは素知らぬ風に泰然と流れるそれらの時間は、今の彼等の目にはいっそ憎し気なものにさえ映っていた。風は彼等の悼む声を乗せて夜の静寂の中へ配り歩いて行き、心有る者はそれを聞いて涙し、或いは心塞がれ、地平の彼方へと思いを巡らすことを知っている賢人はこの漠厖たる大宇宙に於けるそのささやかにして深遠な意味について、暫し黙考した。或る局面に於て偉大なるものがまたひとつ活動を永久に停止し、その深謀遠慮が十全に発揮されることの無い裡にその発現を中断し、いずれ物語られるべき輝かしくも愚かしい歴史の一頁が、今ここに閉じられたのだ。やがては彼等の悲しみも薄れ、傷も塞がり、果てし無くも思える遙かなる昔から続けられて来たのと同じ営みが新しく日々を埋め尽くして行くだろうが、今はまだ悲しみは近くに過ぎ、抉り取られたばかりの傷は深く、誰しもが立ち直れないでいた。栄光の国にて再会を約していた同志達も今はその思い出も遙かに遠く、非現実的なものにさえ思われ、漆黒の失意が自分達の心を黒く真っ黒に染め上げて行くのを、寧ろ自ら欲し助長するかの様に放置していた。何処からともなく静かに闇が忍び寄って来ていたが、それに気付くだけの余裕のある者も皆無で、かの生は未だ十分に全うされてはいなかったのだと云う無念の声が、彼等の目を塞ぎ耳を塞ぎ、苦悶は活発な活動を渦巻かせていた。為されるべきであった筈の多くの行為や、語られるべきであった筈の多くの言葉、何とも無駄に打ち捨てられてしまった諸可能性の沃野が自ずと思い浮かべられ、彼等の嗚咽に彩りを添えたが、それはこの死が全く不当にして正義を無視したものであり、到底容認など出来はしないと云う思いを、彼等の間に広く共有させた。様々な者の様々な声が皆一様に或るひとつの生命が彼等の手の届かぬ所へ行ってしまったことについて語り、嘆き、怒り、口惜しがり、まだ足りぬ、まだ足りぬと言わんばかりに次々と続きの声を繋げて行った。日が落ち、闇が迫り来る星空の下の広大な風景の中で、彼等の影は余りにも小さく、取るに足らないものの様に見えた。そのはかなくも脆い短い煌めきの集団には、憐れみ同情してくれる眼差しとて無く、果て途無い空無の中では実に矮小で刹那的なものに見えたが、それらのひとつひとつが生きて呼吸をして全宇宙を感じ取ろうと彼等なりの酷く不完全な仕方で不様に足掻いていることを知っているのは、実に彼等自身しか居ないのだった。
長く、低く、重々しい唸りがあった。それは泣くのは止めて顔をお上げ、と云う同情や慰めの声ではなく、そんな所で立ち止まっていないで前へ進むのだ、と叱咤激励する声でもなく、お前達は何とちっぽけで滑稽なのだ、と嘲弄する声でもなかった。それはアヴェ=タ・トールの火の山が、彼等とは全く別の尺度で、全く別の層に於て営まれているひとつの生が、恰も一匹の獣の死と歩調を合わせるかの様にして発した、こっそり秘めやかな溜息だった。彼等にはその声の内容は理解出来なかったが、それがひとつの声であると云うことだけは知っていた。この森に棲み、あの獣の知恵の恩恵を被った者は皆、どれが声でどれが声でないかと聴き分ける力を身に付けていた。ふたつの相異なる生命達が奇しくもこの永劫に亘るにも等しい気の遠くなる様な時間の流れの中で、機を同じくしてそれぞれに声を発したのだった。それは何ともちぐはぐな光景ではあったものの、そこには或る種の調和が、和音が、同一の旋律を仄めかすものが無いこともなかった。ぼんやりと星明かりに浮かぶ暗い森の広がりの中に、ふたつにしてひとつの大いなる声が響き渡って、賢い虫達はその声に恍惚となり、そして戦いた。
夜が何処までも無情に、しかし且つ無際限の温かさを持って、声と、声達とを取り囲んでいた。大気が、頭上に頂く星空ごとじわりと溶け出し、天と地と彼等と全てを包み込んで、一葉の絵画にしてしまったかの様に見えた。ふっと痛々しいまでに壊れ易い美が森を描き、時間を止めたかに見えたが、実際には無論時間は止まる筈も無く、彼等が喪失の余りの大きさに時間を逆戻しにしたいと切に願っているその瞬間でさえ、変転によって成り立っている宇宙の姿は、銀河でも、細胞でも、そして勿論この森でも、止まることを知らず変化を続けていた。幾つもの形が生まれ、消え、或るものは一瞬で過ぎ去り、或るものはそれより少し長く留まり、ささやかな記憶の残像を僅かに残している様だったが、皆燃え盛る炎の様に、流れる水の様にひとつとして同じものは無く、似ているものでもよく見ると全てそれぞれが異なっていた。尺度は異なれど皆結局は同じ理によって動いているこの宇宙に生まれた諸々の形は、彼等に知られることを待っていたのだったが、その殆ど、本当に圧倒的な大部分は、誰にも知られず、何からも見られず、ひっそりと無言の領域から無言の領域へと過ぎ去って行った。それらの形が潜在的に有している声は結局一度も声として発せられ聞かれることも無かったが、目の前の精一杯の悲しみに暮れている彼等には、そのことに気が付くだけの想像力は無かった。それは残酷な相違だった。それらは葛藤することも拮抗することも抗争することも無く、只擦れ違って無際限の平行線を辿って行ってしまったのだが、それらは生まれることすら出来ずに死滅して行った無数の可能性や、獣の生者としての取るに足らない事蹟と共に、今はもう永劫の忘却の谷へと果てし無く落ち込んで行ってしまっていた。彼等の哀哭はひとつのものに向けられてはいたが、それ以外のものに対してではなかった。美しく容赦無い真実は、無知と愚昧と、それでもやはり確かな深い悲しみを呑み込んで、ひっそりと夜へと凝固していた。
それらの一切を包含して尚謎を秘めた眼差しが在ることを、その時は誰も気が付かなかった。彼等にしてみれば、今は生が余りにも具体味を帯び、天空は余りにも低く、地平の彼方には彼等の眼差しの届くもの、見たいもの以外は存在していないのであった。それらより遙かに巨大な生成の複合体にしてみれば、元よりそんなものを気に懸けねばならぬ理由とて無く、絶対零度の真空の如き揺るぎ無い無関心を堅持し続けていた。だが双方とも、その森の外れに近い池で、一人の目の弱い老人が、池に映った星空を何時までも見詰め続けていた理由を知らなかったし、絶対速度の次元に於てそれと同一の時間に有ったと言って良い薔薇色の星雲が、その形を変えて近くにあるもうひとつの星雲と合流しようとして緩やかな動きの角度を僅かに変え始めていたこともまた、これらには全く関わりの無いことだとして顧みることは無かった。全て生成し、活気付き、そして滅び、また滅ぶであろうところのもの達は、その無知の大海の上に小舟の如く無力にゆらゆらとたゆたっていた。それらに対して差し伸べられる何等の産婆の手も臨界を齎すべく囁かれる何等の一押しの言葉も有りはしなかった。
私はこの厳粛な滑稽さの中に居て双方を見詰め続けていたいと思ったが、やがて視界が掻き消え、真っ白い闇が私の眼差しを塗り潰した。私は閉ざされた感覚を抱えた儘、冷徹な慈愛を以て、その夜の思い出を反芻した。