新たなる力、そして邂逅
―――雪山、丘陵地帯の中腹
俺と銀狼は、その後、日が沈むあたりで移動を再開した。暗くなってから移動するのは、厄介な昼行性の上級のモストロとの戦闘を避けるためだそうで、夜は昼も夜も活動する下級しか出てこない。そのため夜の方が動きやすいのだそうだ。かといって昼間、日の出ている時間帯よりも出てくる下級の数は多くなるので、昼でも夜でも、俺みたいな人間からしたら似たような危険度だ。今思うと、俺が今まで上級と出くわさなかったのは奇跡だったのかもしれない。
それでも銀狼からすれば、下級のモストロなど脅威にはならない。その上、上級すらも相手になる種類は少ないから、ここでの銀狼は無敵といっても過言ではない。だから夜に移動するのを選んでくれたのは、俺に及ぶかもしれない危険を減らすためだ。
だが、いずれは俺もこの場所で自力で生きれるまでに強くなると決めた。俺は、自分を救ってくれたエマを、見捨てることできない。この世界のどこかにいるはずのエマを、見つけるんだ。
その為に、俺は強くなる。何者よりも強くなるんだ。だが、何かと戦うことなどなかった俺だけではどうしようもない。多少強くなる程度ではだめなのだ。
だから銀狼にも、そのことを伝えたら、すぐに協力すると言ってくれた。戦闘の仕方から、体の鍛え方。強くなるには、生物である以上、己の体をよく理解し鍛える必要があるという。
体とは、筋肉だけではなく、内臓、脳、骨、皮膚、細胞...全身の全てのことだ。普通の努力では、この世界で生きる力は手に入らない。骨格から内臓まで、全てを進化させなくちゃならない。
そうして俺が強くなるまでのしばらくの間は、夜に移動することになったのだ。
そうして日は流れ、時々現れるモストロと戦いながら、鍛錬の日々が続いた。
ひとつは持久力、人間が長時間の激しい運動をするときに大事なのは酸素の吸収力だ。より瞬間的に、より多くの酸素を取り込み、体内を循環させられるようにできれば、呼吸の効率性が上がる。そうなれば、普通の人間とは比較にならない程の血液が筋肉にめぐり筋肉が活性化することで、激しい動きをより長時間、疲れることなく発揮できる。
この鍛錬は、無呼吸状態で激しい運動をする。その一点に特化した鍛錬になった。とは言ったものの、人の機能というのは、そう簡単に進化しない。ただ無呼吸で激しい運動をしても、苦しいだけで、効果が出るのには時間が掛かる上に、その変化も微々たるものだ。
そんなものは、残念ながら求めていない。一秒の成長は、普通の人間ならば大きな進歩だ。だが、重ねて言うが、この世界では、そんな悠長なことをしていられないのだ。
故に、俺は銀狼の力を借りて、モストロを倒し、一時的に肉体を活性化させるリジルの能力を借りる鍛錬をすることになった。
具体的に言うと、一時的な身体能力の上昇を利用して、その能力を体になじませる、ということだ。普段は棒立ちでも二分程度しか持たない無呼吸状態も、リジルの効果があるうちは、十分程度息を止められる。その効果が効いている間に、限界まで体を追い込む。
そうすることで、飛躍的に呼吸能力が上昇した。今はリジルを使わない状態で、激しく動きながらでも十分以上無呼吸状態を保てるようになった。
まだまだ鍛錬は続けるつもりだ。今の俺は、一般的な身体能力のままだから、今後人間離れした力を手にした時に、無呼吸状態が一分と持たない、なんて事態は避けなくちゃいけないし、それでは意味がない。
最終的には今とは比べ物にならない程に上昇した身体能力を常に全力で活用できるように、その動きの中でも無呼吸状態を維持できるようにしたい。
とはいえ、四日間でこれだけ機能が進化したのは大きな進歩だ。
次に瞬発力、人間の反射神経は0.1を超えることは出来ない。人間の動体視力は、それほど高くない、例えば目の前で発射された銃弾を見ることはおろか、反応すらできない。そしてたとえ目で見えて、反応できても、避けるだけの動きは人間の身体能力では不可能に近い。もしもそれができるようになるとしても、普通の人間ならば向こう百年は努力し続けなくてはいけないだろう。
だが、どういうわけか俺にはそれが可能だった。
あの日、サテュロスと戦った後から、動きの速いものを捉えられるようになったし、反応もできて、対応して動くこともできる。
どのタイミングで、そうなったのかは分かる。あの時、サテュロスと最後に対峙した時だ。刀を手に握って振り抜いた時、今まで見えなかったやつの蹴りが急に鈍くなって、気が付けば俺は奴の首を斬り落としていた。俺の体に、何の変化があったのか分からないが、瞬発力は及第点に達していた。
とはいえ、まだまだ進歩の余地はある。なにせそれだけ目が良くなったというのに、未だに銀狼の動きは全く見えない。目の前で動いているのに、目に映りすらしないのだ。最終的には、銀狼の全力も目で追えて、かつ反応できるようになりたい。
だから視力の鍛錬には、効果があるかは今のところ、いまいち分からないが、出来るだけ早いものを見たり、遠くのものを見たりするようにしている。
三つめは脳の可塑性を自由に使えるようにすること。これは上記二つを土壇場でも、十全に発揮するためにも、必要不可欠な能力になる。どういうことかというと、例えば普通の人間が全力疾走をし続けれたら、心拍数が急激に上がり、一定の値まで上がると脳が危険と判断し体の動きが止まる。そうなると当然、極限の力を出すための無呼吸状態も強制的に解けてしまう。
この脳の働きを、意思の力で一時的に制御することで、その力を常に出せるようにする。そのためには、限界を感じた時に、その先に進む意志の強さが必要になる。どれだけしんどくても、辛くても体の限界を超えようという、気力が必要になる。銀狼曰く、何ものにも代えられない、命を賭す目標があるか、鋼の精神を持っている者にのみ、与えられる限界突破の精神だという。
この意思があるモノは、他の追随を許さない驚異的な成長ができる、という。
要するに、長時間、全力の力を出し、意思の力で逆境を乗り越えることが、強くなる秘訣だという訳だ。
これが俺の限界を超えさせてくれるのかは分からないが、俺にも、大切なモノを守りたい、という誰にも負けない気持ちがある。エマと共にまた笑い合いたいという気持ちがある。
上記のことはある程度出来るようになったが、まだまだ足りない。ただの人間の身体能力では、足りない。まだまだ強くなる必要があるのだけれど、正直、ここまでの肉体強化は死ぬほど辛かった。鍛錬のどれもが、今まで経験したことのない苦痛を伴う。さっきはリジルで活性化中に鍛錬すると簡単に言ったが、本来備わっていない能力にもかかわらず、その力を限界以上まで使うから、肉体への負担が激しい。そのため、大幅な能力の向上を短期間でできているのは間違いないが、今にも体が破裂しそうな程の痛みがリジルの使用中は続いている。その上、その成長で体の節々が常にジワジワと痛み、そのせいでほとんど眠れない。
まだ四日しか経っていないというのに...エマの存在がなかったら、既に心が折れていた事だろう。
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―――また数日が過ぎ...
移動中は、銀狼も退屈なようで良く話しかけてきた。俺としても話し相手がいるのはなんだかんだ嬉しかったし、銀狼と話すのは結構楽しかったりする。時折、この世界の価値観や常識といった、あれこれを教えて貰ったり、もちろんモストロとの戦い方だとか、この世界を生きる上で大事な知識もたくさん教えてくれる。長年生きているからか、その知識量が凄いのは当たり前として、その知識の正確性も凄まじい。なにせ実際に現れたモストロと、事前に教えて貰っていた情報が全て正しく合致していたのだから。
ただ、試しに俺みたいなこの世界に迷い込んだ者のことを知っているのか尋ねてみると、そのことは知らないみたいだった。当然、エマのことも何も知らないらしいし、そっちに関しては進展がない。ただチェックの事は知っていたみたいで、俺がチェックの選別者であることを知って、凄く驚いていた。
丘陵地帯を抜けて、平原を駆け抜ける中、大量の下級モストロが視界の外から高速でやってくるも、銀狼が爪で瞬間的に殺し、何事もなかったかのように再び走り続ける。こういった場面が、移動中は頻繁に訪れる。
心強い味方ができて良かった、と心から思っている。まだ会って日は浅いが、危険から守ってくれたり、その上で強くなりたいという俺のわがままにも力を貸してくれていている。これ以上ない、最高の相棒だろう。少なくとも俺は銀狼のことを信頼している。
「銀狼は、何か好きなものとかある?」
そんなことを考えていたら、ふとお礼がしたくなったので、銀狼にそうたずねてみる。思い返してみても、これまで何かをしてくれた時に礼を言っても『恩人だ、礼はいらない』っていっていたけれど、少しくらい俺も恩返しがしたい。俺が命を救ったのかもしれないけれど、あれはほとんど偶然だ。銀狼が俺にしてくれているみたく、自らの意思で手助けしたわけじゃない。
だから、お礼にはよく相手の好きなモノを渡すし、銀狼の好きなモノもいつか手に入れてあげよう、とそう思って聞いてみた。まあ、そもそも物での恩返しが人間の文化だから、狼には通用しないのかもしれないけど、それはそれで、何かしてほしいこととかがあるならば喜んでやってあげよう。
『む、突然なんだ?』
なぜそんなことを聞くのか?といった調子で、銀狼は聞き返してくる。
「なんとなく気になったからさ。一番好きな食べ物とか、なんでもいいから教えて?」
『ふむ...そうだな、アルファノスの髄筋肉か、ニドーの作る金鳥の吟簾スープだな。この二つは私の食べたものの中でも格別に美味い』
特に大きな話題でもないので、銀狼はすんなりと答えてくれた。
「どういう物なの?」
銀狼が何やら聞き覚えの無いものの名前を言う、ただまあ恐らく食べ物のことだろう、スープとか言っていたし。大いに結構、彼も肉食動物だ、好物は?と聞かれれば、そういう答えになるのも分かる気がする。
『アルファノスというのは、千年に一度だけ咲くヘヘイェという花を守る幻獣だ。食べることはおろか、出会うことすら滅多にない獣で、私も一度しか会ったことがない。
その肉ときたら...肉は基本的にどれも美味いのだが、とりわけ本来好んで食わない髄の部分に詰まった筋肉がたまらなく美味い。
その理由は、アルファノスの守る花にある。ヘヘイェとは植物の王と言われ、その周りに育つ植物にこの世のどこにもない特別な栄養を与えるため、その植物を食べて長い時間を生きたアルファノスが最高の味になるわけだ。
あの時は生で食べたが、もしお前が食うとしても、どう調理したとて間違いなく美味いだろう』
「...じゅる」
銀狼の説明を聞いていると、途端に空腹感が襲ってきて、どういう肉なのか頭の中で想像が膨らみ、思わずよだれが垂れてしまう。そんなことを考えている間にも銀狼の説明は続く。
『そしてニドーのスープだが、これは格別に美味いが、さっきみたいな大衆にとって特別なモノではない』
「どうして?」
『ニドーとは、私の育ての親のことだからな。
いうなれば母の味であり、私の中で初めて特別な意味を持つものなのだよ』
こういう話を聞くと、銀狼は凄く人情があるというか、俺でも共感できるような、まるで人間と話しているかのような感覚に陥る。まあ、家族を愛するというのは、人間であれ狼であれ、関係ないのかもしれない。
「ははっ、それは俺も分かるよ、俺も母の料理も大好きだから」
『だろう、誰にも特別なモノはあるものだ。私の中で、あの味を超える食い物は存在しない』
「いいなぁ、今言ったことを聞けば、きっとニドーさんも喜ぶよ」
そのニドーさんというのは、一体どんな狼なのだろう?銀狼でこれだけ大きいのだから、その大きさは想像もつかないな。
『カッカッカッ、そうだとよいな』
そんななんて事の無い会話をしながら、静かで怪物の犇めく丘陵を駆け抜けるのだ。そうして話していると、どうしても気になることができてしまう。
「―――ねえ、そもそも何でチェックって開催されるのかな?」
暗闇の中で走る銀狼に跨りながら、以前から気になっていたことを聞いてみる。銀狼と話していて呑気な話題になっても、どうしてもその話題が頭の隅に残っていて、ふとした時に過る。
なぜ俺はこんな場所に来てしまったのか、その原因のチェックとは何なのか。ということを。
『はて、それは最も偉大で、この世界の父なる神のみぞ知ること。
私らのような一生物なんぞには、知ることのできない高尚な話よ』
銀狼は少し考えた後、曖昧な答えを返す。銀狼ですら、知らない事なのだろうか?
「はぇ~...でも、つまりその神ってののせいで、俺はこんな目に遭ってるってこと?」
俺はつい、愚痴がこぼれてしまう。この状況に陥っているそもそもの原因がそいつならば、嘘を言っているわけでもない。正直な所、くそったれ、と思っている。それにその神の事、何も知らないしね。
『馬鹿垂れが。
かの神は、その名を口にすることすら畏れ多い、全ての生みの親である存在だ。
我々が呼吸し、意思を持ち、己の人生を歩むのも、かの神の生んだこの世界があるからだ。どうやらこの世にはそのことに不満を持つ輩もいるようだが、私はこの命を授けてくださったことに、この上なく感謝をしている。
生きている事で、悪いこともあるが、良いことも数えきれないほど経験してきたのだ、この世は上手くできている。
視野の狭い者のみ、世を見据えず、世の行く先を考えず、尊き存在に刃を向けるのだ。
いいか、お前は決してそうはなるな。反逆者は、死よりも恐ろしい目にあうだろうからな』
「う、うん分かったよ」
軽い気持ちで言ったが、銀狼にとってはそうとう重要な話だったのか、今度は思いのほか強い言葉が返ってきた。話す銀狼の機嫌が少しばかり悪くなった上、説教もされた。銀狼が怒っている所なんて初めて見た。
銀狼は、その神をかなり敬っているみたいだ。聞く限り、文字通り雲の上の存在っぽいから、そう思っていても全く不思議じゃない。
そんなことを考えていて、ふと思ったけど、ここ数日間で、そういうことを簡単に信じてしまうようになった自分に驚いた。
だって少し前に「この世界はとある神が...」って話をされても聞き流していただろうから。
『分かればよい。
普通に生きていれば、絶対に会うことのない存在だが、他ならぬお前はチェックに参加するのだ、いつかお目にかかる機会もあるかもしれないからな、気を付けておいて損はないだろう』
もう一度強く釘を刺される。よっぽど重要な話なのだろう、これほど語気を強めた言い方をする銀狼は初めて見た。
心にとめておこう。いつか会うことがあっても絶対に敵対しない...まあ、今のところする理由なんてないんだけど。ここにいる怪物にも劣るのに、そんな神様に盾突くなんて怖くてできっこない。それは、つまり何で呼吸しないと生きられないんだ!とか、寝たり食べたりしないと生きられないんだ!みたいな理由で怒るのと同義だろうし、流石にこの世の条理に逆らう気はない、せいぜい逆らうのはその条理の中での出来事にしよう。
「―――っ!」
そう思っていたところで、ふと銀狼が足を止める。それに反応し、すぐさま銀狼から飛び降りる。なにせ銀狼が足を止める理由は二つしかない、一つは休憩、一つは手ごわいモストロとの戦闘だ。
さっき休憩したのだから、おのずと足を止めた理由が分かるが、それを見て疑問が浮かぶ。前を見れば、何度か対峙した四足歩行の大人のクマほどの大きさの体を持った黒毛の豹が現れていた。そう、何度か対峙して銀狼が瞬殺していたモストロだった。別に手ごわくもないだろう、そもそも今は夜なのだから、銀狼の相手になるモストロなんて出てくるはずもなかった。
だとしたら、なぜ止まったのだろう?
『―――丁度良い相手だ、お前が倒してみなさい』
いつものように、銀狼が相手するのかと思ったらそんな言葉が出てくる。
「...っへ?」
そして俺が何かを言う間もなく、銀狼は俺と黒豹をその場に残し後方に飛んで行ってしまう。このモストロを俺が相手する...?
予想していなかった試練に体が一瞬だけ硬直してしまう。今までに相手にしたこともないクラスのモストロだ。今の俺のレベルで太刀打ちできるのか?
銀狼が丁度いい相手だというのだから、全く歯が立たないなんてことはないだろうけど...つい、もしかしたら俺に興味ないんじゃないかと、一抹の希望にかけて黒豹を見るが、銀狼を追いかける様子は微塵もなく、滝のようなヨダレを垂らしながら、俺をじっと睨みつけているだけだった。どうやらお腹が空いているらしい。
「...」
懐に隠し持っていた、飴玉ほどの大きさのリジルを飲み込み、肉体を活性化させる。すぐさま背に担いでいた二本のうち黒刀を手に取って構える。攻撃から身を守る外套は常に身にまとっているので、既に準備は整っている。全てあの悪魔から貰った装備だが、非常に強力な効果を持っていて、ここまでモストロと戦った中で凄まじい活躍を見せている。
紙よりも薄い刀身を持つ居合用の刀『黒刀』は、鞘に納めた状態で構えて使うのが、一番能力を生かせ、最高速度で、しっかりと刃を斬る対象に合わせると、今のところ、どんなものでも斬れる。
反対に、非常に分厚く、片手で振り回せる限界の重さを持つ打ち合い用の刀『赤刀』は、どれだけ激しい衝撃を受けようとも、どれだけ物を斬ろうとも、少しも欠けることがなく、とてつもなく頑丈だ。
状況に応じてこの二つを使い分けて、モストロとの戦闘をできうる限り優位に進めている。
そして格上との戦闘で、最も活躍するのが死角からの攻撃を一時間に一度だけ無条件に一度だけ弾く外套。試してみたら銀狼の攻撃も無傷で弾いていたから、この場所でこの外套の防御が破られることはないと思っていていいだろう。
もちろん過信するつもりはない、あくまで緊急用のものと考えている。
「...」
黒豹は警戒しているのか全く動かない。だが、一瞬たりとも俺から目を離そうとはしない。
きっと機をうかがっているのだろう、ただの勘だが、そんな気がする。
このまま睨み合いを続けていても、戦いに不慣れで集中力が続かない俺が不利になるのは明らかだし、呑気に待ってばかりもいられない。先手でも後手でも苦戦するだろうが、後手に回る方が危険だ。一応、背後には銀狼がいるとはいえ、事前に分かっている危険を避けずに行動して、頼ることは考えない。
本当にどうしようもなくなった時のために、銀狼がいるのだ。強くなりたいのに、安易に頼っていては意味がない。
「―――ふっ!」
俺は、覚悟を決め黒豹へとかけていく。距離は五十メートルほど。以前なら六、七秒は掛かっていただろうが、リジルのおかげで二秒もかからずに距離を縮め、黒豹の懐までたどり着く。
(...いけるっ)
サテュロスと戦った時の俺とは、身体能力が圧倒的なまでに違うのだ。身体強化のリジルによって、今ならばサテュロスを無傷で殺すことができる。
ただ、サテュロスよりは明確に強くなったといえるが、それだけじゃ意味がない。こういう黒豹と戦うと、本当にサテュロスが一番弱い怪物だったのだと、理解する。このモストロは、賢く迅速で力も強いので厄介だが、それでもサテュロスと同じ下級に分類されている。要するに、この世界ではまだまだ弱い部類。
だが、明らかにサテュロスよりも強いのだ。だから、この戦いで、俺は黒豹を超え常に前の自分よりも強くなったと証明をしなくちゃいけない。
「―――はぁっ!!」
移動開始と同時に、急激に姿勢を低くして距離を詰めたことで、黒豹の視界から一瞬消える。そのまま移動しながら、刀を下段に構え、刃を下に向ける。その構えを崩さずに、その勢いのまま懐にたどり着き、鞘から刀身を滑らせてゆき、半身になって直立し、黒豹の首めがけて刀を振りあげる。
〈逆月斬り〉
その時に、やっと目でとらえた黒豹は、反射的に身をそらすが、遅かった。
俺の刃は黒豹の首に寸分違わず入り、輪切りの如く斬った。血の線を空に描き、刀を振り切ると黒豹の首が地面へとゴトリッという音を立てて落ちる。
『―――見事だ』
俺が刀を拭い、鞘に納めたあたりで銀狼が現れて、そう言う。かなり遠くへと飛んで行ったのに、しっかりと俺の戦いが見えていたらしい。
「ううん、まだまだだよ」
俺がそう言うと、銀狼はこちらをしばらくじっと見てくる。
『...やはり、お前には特別な何かがあるようだな』
と思ったら、銀狼が朗らかな笑顔を見せながらそういう。
「ははっ、ありがと」
俺はそれに応えて、笑顔を向ける。銀狼から見ても、俺は順調に強くなっているのだろう。いまの戦闘で、俺も自分が強くなったのを実感している。
自分の体の機能を自由に扱えるようになってきている。上手くいけば、いつかは銀狼とも戦えるようになるかもしれない...それは、残念ながらまだまだ先の話かもしれないけれど。
『もう間もなく着くぞ』
銀狼に言われて、周りを見渡すが、夜ということもあって暗くてよく見えない。だが目の前が真っ暗な原因は、夜だから、というだけではないのだろう。
月明かりの照らす光景に、ゴツゴツとしたそれの表面があらわになる。遥か遠くから、ずっと見えていたあの巨大な木。それが今、目の前にある。
森を抜けてからずっと丘陵地帯を走っていたのと、木が遠目からでも大きすぎて、高速で移動している最中に見ていても、いまいち近づいている気がしなかったせいで、目の前まで来ている事に気が付かなかった。
「うわぁ...」
思わず感嘆のため息がでてしまう。天を突き抜ける程に高く、巨大な壁かと思う程に立派で、その力強さは肌でひしひしと感じる。その周りを覆う立派な樹冠は、息をのむほどに美しかった。
ただ「巨大な木」というだけのはずなのに、息をのむほどに、その光景は美しい。
『この星〈アクソサス〉のどこからでも見える、世界の中心である世界樹〈ジェベンナル〉だ。』
銀狼の声音が弾んでいるし、心なしか尻尾も揺れているような気がする。きっと銀狼もこの光景が好きなんだろう。
それよりも、どこからでも見えるとは、流石に言い過ぎなのだはないだろうか?地球でこの木が生えていたとしても惑星の形が球体である以上、裏側からは見えないはずだ。
とはいえ、確かに地平線の際からでも、悠々と見えるのは間違いない。
「...ん?銀狼、あそこにいるの人かな?」
そんなことを考えながら銀狼と歩いていること数分。木の下に、誰かが立っているのが見えてきた。
これまでの経験からか、思わず体に力が入る。
『警戒せんでよい、あれは私の友人だよ』
それに気が付いた銀狼が、人がいることに特に驚いた様子もなく言葉を返す。どうやら行く先に人がいる事に既に気が付いていたようだ。
「え、あ、そうなの?」
そう言われて、息を吐き体の力を抜いた。最近は常に戦場にいたから、こういう癖がついてしまった...なんて、たった数日なのに何を言ってるんだか。
「...うぅん?」
しかし、問題はそこからだった。銀狼が警戒しなくていいといった相手の様子が、少しおかしいのだ。近づけば近づく程に、どうにも様子がおかしい。どういうことなのだろうか、目の錯覚なのか分からないが、どう見たって普通の人間じゃあり得ない程に背が大きく見えるのだ。
見たままならば、少なくとも俺の倍くらい...ってことは、三メートル以上はありそうだ。
遠近法が働いてるのかなぁ...なんて呑気に思っている内に、すぐに彼の目の前にやってきて、銀狼が彼の前で止まり、俺も銀狼の横に立ち対面する。
結局のところ、彼のタッパは予想以上だった。銀狼の友人は目の錯覚でも遠近法でもなんでもなく四メートルもの背丈だったのだ。その上、象も簡単に殺せそうな程の筋肉をもっていたので、より大男に見える。
「...」
しゃべることはなく、彼の射貫くような鋭い目が俺に向けられる。敵ではないと分かっていても、彼に目を向けられると、まるで生きた心地がしない。
唖然としていて、声が出なかったからいいものの失礼な事を口走らなくてよかった。本当は、でっかいなぁ...って言葉がこぼれそうになったんだけど、もしそんなことを言っていたら、彼の逆鱗に触れてしまい蟻んこのようにプチっと潰されていたかもしれない。あまりの威圧感に、俺の頭の中には変な想像が過っていく。
「よく来たな、銀狼、それに絃前祐介。儂の名はニドーだ。
話は聞いている、ひとまず家へ案内しよう。」
そんな失礼なことを考えていると、目の前の大男が口を開く。
こういっては失礼だけど、その物々しい外見とは裏腹に朗らかな口調でニド―さんは話しかけてくれた。思ったより優しそうで良かった。
ニドーさんに案内されてジェベンナルの根元までやってくると、そこには近くに寄らないと見えない不思議な仕掛けが施された、小さな掘っ立て小屋があった。
ニドーさん曰く、彼はここにもう長いこと住んでいるらしい。入り口に立って、ニドーさんの背に見合ったとてつもなく大きな扉をくぐり、そのまま中に案内されると屋内の様子が目に入ってくる。
「...広い」
どうやら外から見たものが家の全てではなかったらしい。
大樹を少し削ってあるらしく、非常に広々とした部屋だった、外から見れば小屋だったが、これは立派な平屋だろう。
中には、どれも彼の身長に見合った家具が置かれており、はく製のベットに光沢のある木製の書棚やテーブル、皮のソファの他、壁には、鹿や熊のようなものから、見たこともないような生物の首がいくつも立て掛けられているのが印象的だ。
それだけモノがたくさん置かれてはいるが、俺にはそれでも広く感じる空間だ。だが、ニドーさんの体だと、これくらいが丁度良いのかもしれない。
なんて思っていると、後ろから何かに押される。
「―――ん?」
振り返ると、銀狼があきれたような眼差しをこちらに向けている。いつの間にか見入って入り口で佇んでしまい、銀狼が中に入れない状態だったみたいだ。
『...早く入りなさい。』
とうとう口でも言われてしまう。
ごめんなさい。と謝りながら、急いで中へと入る。そうして少しごたつきながらも、やっと全員が中に入った。
俺が立ち往生している間に、ニドーさんは、ふかふかしていそうな革製ソファに腰掛け木でできた杯で何かを飲んでいるし、後から入ってきた銀狼は床に敷いてあった絨毯の上に座ってくつろいでいた。
「それにしても驚いたな。
まさかあの銀狼が人の子を背に乗せて、走ってくる日が来るとはな」
それからニド―はポケットから葉巻のようなものを取り出してふかしはじめると、話しはじめる。
『別にそんな予定はなかったが、彼には命を救われたからな』
さもありなん、といった様子で気に掛けることなく言葉を返す。
「さて、さっそくだが本題に入ろう。
既にあらかたの事情は、シャングルファンから聞き及んでいるが、お前さんの口から改めて話を聞かせてもらえないだろうか?」
ニド―さんは、この世界で俺に何があったのか知っているらしい。それにシャングルファンっていうのは、確か俺の夢に出てきたあの悪魔の名前だったはずだ。つまり、この人も悪魔だってことなのか?
何にしろ、知っているのならば話は早い、そのことをさっそく聞けるのはありがたい。
「分かりました。覚えている限り、順を追って話しますね。
ことの発端は、数日前の旅行です。その日は彼女のエマと観光バスに乗って移動していたんですが、いつの間に意識がなくなったのか、次に目を覚ますと俺は一人になり、ここからずっと向こうの雪山にいたんです。
それから一日雪山の中を歩いて、助けを求められる場所を探していたんですが何も見つからず、その日はたまたま見つけた洞穴で野宿したんです。
その夜に、夢の中でシャングルファンという悪魔に会い俺がここに来た理由と、エマも似たような目に遭っているという話を聞きました。そして、もっと知りたければ大樹ジェベンナルを目指せ、と言われたのです。
そこで夢は終わり、次の朝、俺はジェベンナルを目指し、また雪山を彷徨うことになるのですが、その際にサテュロスに出くわし、どうにか殺すことができたのですが、俺の体は悲惨なモノで瀕死の状態でした。
その時に、銀狼に会いました。リジルを使い、お互いの体を癒した後、俺の目的を聞いた銀狼が手を貸すといってくれて、快く俺の旅に同行してくれた形です。
そして今日、ここにたどり着きました。
この世界に来てからの出来事は、そんな感じです。」
「なるほど。お前さんは、随分と数奇な経験をしたみたいだ」
あらかた説明をし終わり、ニドーさんの言葉で締めくくられる。
説明している間、ニドーさんは相槌を打つだけで話を遮って何かを言うという事はなかった。
だからといって別に話を右から左に流されているという訳ではなさそうで、聞いている姿勢は真剣そのものだった。
「それで、その、俺の知りたいことを、教えて貰うことはできますか?」
そう話す俺は、自分でも分かるくらいソワソワしていて落ち着かない。
「...ふぅむ...確かに、お前は遥か昔に選ばれた我々のように、かの偉大なゲーム〈チェック〉に選ばれた。それは間違いない。
この地に送られたのは、恐らく儂や君に巡り合えるようにするためだろう。
遥か昔から変わり者の悪魔は、こういう面倒なことをよくする。
間違いなく君の思い人も、どこかの星に送られ、然るべき時を然るべき姿で迎えるために、過酷な試練を課されている事だろう。
チェックにおいて、選別者とは、つまり種族の代表になりうる存在を見つけ出すためにあるのだ。何者も覆すことのできない、絶対のルールの内のひとつ。
君が、思い人を探すというならば、方法はただ一つだけ。
チェックで優勝しなさい。残念ながら、この世においてチェックのルールに介入できる者などいないからな―――」
『―――まさか...それで奴がここにいたのか?』
急に何かを思い出したような様子で銀狼が呟いた。見れば体の毛が逆立ち、何か焦っているようにも見える。
「うん?奴とは―――――」
「―――やぁ、血で濡れぬ狩人、それに古の英雄よ」
突然に聞こえてきた初めて聞く声がした方を向くと、誰もいなかったはずの扉の前に黒い外套に身を包んだ見知らぬ男が、いつの間にか立っていた。
いつ扉を開けて入ってきたのだろう、俺の位置からは真正面の位置に扉があるのに彼が声を出すまで、彼の存在に全く気づかなかった。
「...っ」
...冷や汗が背筋を伝う。
何の前触れもなく現れたその男は、ニドーさん用に造られた扉の前に立っているせいで酷く小さく見えているが、それとは逆に、黒い靄というか、オーラのようなものが見えるせいで、この空間において凄く存在感を放っている。
男から視線を外し、銀狼とニドーさんを見る。
ニドーさんはダラダラと汗を流し、銀狼は全身の毛を逆立てて唸っているが、ただ両方に共通しているのは、どちらもひどく緊張した面持ちになっている。
多分二人とも、彼がこの家に入ってきたことに今気づいたのだろうが、彼らが緊張しているのには、もっと他の理由があるのだろう。
『悪いな。ニドー、どうやら私を追ってきたらしい。』
銀狼がニドーさんに話しかけるが、その声音は上擦っており緊張しているのが分かる。
「...ああ、分かっている。
アイツが、つい最近お前を殺しかけた男なのだろう?」
「っ!?」
ってことは、あの傷は、この男が負わせたの?
もう一度、男の方に目を向ける。
背丈は普通。
体つきも普通。
銀狼やニドーさんから感じるような力強さもない。
...否、そういえば不気味なほどに何も感じない。そこにいるのか疑いたくなるほど、男からは何も感じない。どう見たって、全然強そうには見えない。あのサテュロスにすら負けそうに見える。
でも、銀狼やニドーさんを見ると、そうじゃないって分かる。
(...銀狼を殺せるような怪物)
いつの間にか、この部屋に漂う空気は、しごく殺伐としたものになっていた。
その空気を破ったのは、急に現れた男の方だった。男は、寄りかかっていた体を起こし声高になって話し出す。
「驚かされたよ。あれだけの傷を負わせたのに、元気に走っているんだもの」
かと思えば、今度は囁くように話だし
「どういうトリックだ?
お前にそんな回復能力は無いはずなんだがなぁ...そういう薬でも持ってやがったのか?」
大げさな素振りで大きく腕を広げ言葉を繰り出す。
「困るんだよなぁ。弱いくせに生きてる奴をみると...前置きが長いかい?
年寄りはせっかちで嫌だねぇ...ん?」
こちらは何も言っていないのに、彼の話はひとりでに進んで行く。その際に、男が何気なく首を振ったところで、俺と目が合った。
男は、今さら俺の存在に気づいた様な感じで驚いたような目を向ける。そして、しばらく目を合わせた後に馬鹿にしたような鼻を鳴らす音を響かす。
「そいつは?
どう見たって、この場所には釣り合わねぇ奴じゃあねぇか。
...いや、いや待てよ。
そいつだな?
であれば誇り高い銀狼が、背中に人の子を乗せていたのにも合点がいく...」
ふんふん。
と一人頷きながら、そのまま俺の近くまで来たかと思うと瞳の中を覗き込まれる。男が近づいてくる間、なぜかまったく動けなかった。何も感じないはずなのに、体から意識が離れていき、目だけが男を追っていた。
「―――ぅっ」
男を間近で見ると、息が詰まるような感覚に陥る。痩せこけた以外に特徴のない顔、特徴という特徴のない顔の中で唯一目立ったのは、目の色がヘーゼルの瞳をしていたこと。
「...最近じゃ、俺んとこにも女が来たし、こいつにはあいつ程の覇気は感じられねぇが...」
男は俺に何をするでもなく、そんな事を呟いて顎に手を当てたまま考え込んでしまう。
「お前、名前は?」
しばらく黙っていたかと思うと、急に話しかけられる。突然のことに焦ったが、何とか声を絞り出して答える。
「は、ハベル、です」
俺が答えると、納得した様子の男が答える。
「なんだ、お前がハベルなのか、そうかそうか、クックッ」
俺は大きく息を吸い強張った顔の筋肉を緩める。
視線の先にいる男も俺をまっすぐ見つめ返していた。
「なにを、言っているんですか?」
シンプルに聞きたいことを口にする。
短い言葉だったはずなのに言い切るまでで、物凄い体力を要した。
「いいな、お前。気に入った。
それを知りたいのなら、チェックで這い上がってこい。
チェックでこの世の全ては決められる。
究極の美女も、巨万の富も、無限の知識も、それがたとえ女の名前だろうと。
欲しいものはなんだって手に入る
そこで、俺のとこに来た女がどこで何をしてるのか、探してみればいい」
「―――っ!?
そ、それってまさか」
俺が何かを言う前に、男は話を終わらせてしまう。
「もうここに用はない、生きてれば、また会おう」
―――そこからの出来事は何もかもが一瞬だった。
瞬きの間に、四コマ漫画のように目の前の景色が変化したのだけは覚えている。
―――男が口角を上げ。
―――銀狼が俺の前に入ってきて。
―――ニドーが何かを叫び。
―――ここ最近何かと縁がある気がする強烈な閃光が視界を埋め尽くした。
「覚えておくといい、青年よ。
俺様は、この世の悪神〈ワロン・ユイセ〉。
まあ、まだ〈〈デモンズロード〉〉って名の方が有名だがな。
それじゃ、また会おう。」
瞬きが終わる間際に、そんなような声が聞こえた気がする。
そして次に目を開けた時には
......全てが吹き飛んだ後だった。