09 心覚と覚書
「姫様の容態は?」
「眠っているだけだ……」
「そうですか……」
三人の間に沈黙が流れていると、ギーが淹れたてのハーブティーをローテーブルに並べた。
「……ギーも座ってくれ」
「はい……」
「では、ギーの分は私が……」
レオに言われた通り、ギーもソファーに腰掛けると、オレールの淹れたハーブティーが彼の前に置かれた。
「オレール様、ありがとうございます」
「ギーは相変わらずですね」
「そういうオレールもな」
「バジルは、もう少し自重して下さい」
「はいはい」
昔からの知り合いである彼等の仲は、身分を超えて良好である。ハーブティーではなく、酒でも飲んで久しぶりの再会を語り明かしたい所だが、そういう訳にはいかないようだ。
「ノエルの……懸念の通りだったな」
「一瞬だけでしたけど、近いものがありましたからね」
「おそらくリリー様は……ご自分の香りに、お気づきになっていないと思われます」
「だろうな……ギーの報告に相違ない」
話に上がっているのは、寝室で眠るリリーの事だ。
「本当に記憶を失くしてるんだな」
「あぁー、断片的に想い出しているみたいだけど、すべては覚えていないな……」
「タイミングが早かったのでしょうか?」
「いや……奴等が水面下で動いているなら、早い方がいい……」
ティーカップに口をつけると、懐かしい香りが広がっていく。
「……二人とも、正装で来てくれたのに悪かったな」
「レオ様……」
「レオ……修達の方は?」
「変わらない。トマに任せてある」
「そうか……ギーは大丈夫か?」
「……私……ですか?」
急に話を振られ、思わず疑問形で応えるギーに、三人とも柔らかな笑みを浮かべている。
「私は……特に変わりはありませんが、リリー様の魅了する力には驚いています」
「凄いだろ?」
「はい」
ギーは素直に応えているが、自分の事のように誇らしげにするレオに、騎士達から生温かい視線が向けられていた。
「ーーったく、レオは相変わらずだな」
「バジル、いいだろ? それに……そろそろ限界だしな」
「ーーーー告げたの……ですか?」
「あぁー……すべては伝えていないけどな」
「さっきの様子なら、姫様は受け入れてくれそうじゃないか?」
「……そうですね、私もそのように感じました。それに……」
オレールとバジルは視線を通わせると、頷き合った。
「オレールも同意見みたいだな」
「はい」
「レオ、姫様から飲んでないだろ?」
「あぁー」
あっさりと認めるレオの反応に、二人から深い溜息が出てきそうだ。
「心配しなくても……提供されたのは、飲んでる」
「ーーーー不味いのか?」
「美味かった事なんて、一度もないだろ?」
「まぁーな」
「それで、能力は大丈夫ですか?」
「あぁー、オレール……問題ない。今の所はな」
そう言ってソファーを立つと、レオは寝室に入っていった。
「ーーーー片時も離れたくない……か……」
「バジル?」
「いや……姫様は本当に、栗色なんだな」
「そうですね。今も可愛らしいですけど、以前は綺麗な印象でしたからね」
「まぁー、見た目はな。中身はかなりのお転婆で、マリア様にそっくりだったけどな」
「バジルとトマが、よく手を焼いていましたからね」
「まぁーな」
二人が懐かしむように語るリリーの話に、ギーは静かに耳を傾けていた。彼自身は、遠目でしか彼女を見た事がないのだ。
「今日は……紫苑が、花の世代の三大貴族と仰っていたので、リリー様は疑問に思っているみたいでしたよ」
「げっ……まだ言ってる奴がいるのか?」
「紫苑だけなのでしょう?」
「はい」
バジルとオレールは顔を見合わせると、深い溜息を漏らした。
「まぁー、害はないからな」
「そうですね。それに、大体当たっているというのが、分家とはいえ……さすがはヴァンパイアといった所ですかね」
「だよなー」
花の世代とは、バジルにオレール、レオの三人が学園に通っていた時代を示す。
本人達の思いとは裏腹に、後世にも語り継がれる事になるが、それはまた別の話だ。
「リリーは、悪夢をまだ見てるのか?」
「いえ、今は見ていないようですが……夢は、よくご覧になるようです」
「夢……ですか……」
「はい」
二人には、ある女性の姿が思い浮かんでいたが、口にする事はない。
ただイヤな予感が脳裏を過っていた。
寝室のベッドに眠るリリーの傍には、椅子に腰掛け静かに目覚めを待つレオの姿があった。
「…………リリー……」
返答のない彼女の髪に触れるレオの瞳は、寂しげなままだ。
記憶にあるであろう仲間との再会も、騎士の正装姿も、リリーの為に彼が用意したものだった。
彼女の手を額に寄せる姿は、まるで祈りを捧げているようだ。
目覚めて欲しいと願いながらも、すべてを想い出さなくてもいいと願っているかのように、レオの瞳は揺らめいていた。
ーーーーーーーー温かい手が呼んでる……
今まで濃い霧に覆われていた場所は晴れ、かつて過ごした城が目の前に見えている。
空中庭園に咲く薔薇は満開を迎え、花の香りが二人を包んでいた。
『リリー……』
『ふ……レオ…………もう……会えないの?』
涙を拭われ、目の前にいる彼を見上げると、まっすぐな瞳を向けられていた。
『リリー、また会えるよ…………僕が……必ず会いに行く』
『…………本当?』
『本当だよ。覚えていてね。リリー、君は僕の……一番大切な女の子なんだ……』
額に触れる唇の感触が、音もなく離れていく。
ーーーーーーーー私は、レオの何を見ていたんだろう。
ターコイズグリーンの綺麗な瞳が、今にも泣き出しそうに滲んでいる。
躊躇なく手を取られたレオは、不思議そうに彼女を見つめ返していた。
『……リリー?』
手の甲に唇を寄せた彼女は、涙を堪える。
『ーーーーレオ……ありがとう……』
どうか生きて……そばにいられないなら…………せめて……生きて、生き抜いて欲しいの。
今から百年以上前、私達があの国を出る前の記憶。
渇望しない訳がない。
ーーーーーーーーだって……私はずっと、貴方に会いたかったんだから…………
瞳に涙を溜めた彼女には、レオが揺らめいて映っていた。
「リリー、起きて平気なのか?」
「うん……」
涙を拭った彼女は、ベッドから起き上がるなり、レオを抱きしめていた。
ガタンと、椅子の揺れる音が響く。
「ーーーーレオ……すきだよ……」
「リリー……記憶が?」
彼女は抱きついたまま、首を横に振った。
「……すべてではないけど……ん…」
最後まで聞く余裕がないのだろう。強く抱き寄せたまま、唇が重なっていた。
「ーーーーリリー……会いたかった……」
「うん……」
「……約束は覚えてる?」
「……うん……」
頬を赤く染める彼女の様子で、覚えている事がレオにも伝わったようだ。
断片的な部分も多いけど、レオのことは想い出せる。
手の甲に触れた唇から、想いが伝わってきたから……
眠る私の手を握ってくれていたのは、レオだったって……今なら分かる。
「リリー……」
甘い声で囁かれると直視出来ない。
何も知らなかったあの頃とは違うから……
「…………レオ……」
間近にある綺麗な顔に、リリーは視線を逸らしそうになるがキスに阻まれる。
「んっ……レ……」
触れ合うだけの口づけが深くなっていく。声までもレオに呑み込まれていた。
ーーーー頭がくらくらして……上手く……息が出来ない……
彼女が瞼を開けると、愛おしそうに見つめる彼の緑がかった瞳が紅く光っていた。
「レ、レオ……目が…………」
「ーーーーっ、大丈夫だ……」
レオは離れようとするが、彼女に阻まれる。頭を胸元に抱き寄せられていた。
「リ、リリー?!」
「大丈夫」
はっきりとした口調の彼女は、真剣な眼差しだ。
本来、そんなに紅く染まるものじゃない。
ーーーーレオに……血が足りてないから……
ベッドの微かに軋む音が響く。
「ーーーーいいのか?」
「うん……」
小さく頷いた彼女は、瞳を怖がる事なく微笑んでみせた。
リビングには三人が揃ったままだ。
バジルとオレールは、ラフな私服に着替えていた。
「お二人とも召し上がっていけますか?」
「はい、ありがとうございます」
「ギーの手料理、楽しみだなー」
時刻は午後八時になろうとしていた。
ダイニングテーブルには、五人分の料理がセッティングされている。
カシャーーンと、スプーンを取り落とす音が響く。
「ギー、大丈夫ですか?」
「は、はい……」
ギーは顔を腕で覆っていた。それほど強い香りが、漂ってきたからだ。
「…………ギーは、初めてか?」
「はい……これが、リリー様の……」
「あぁー、ヴァンクレールの香りだな」
「そうですね。不完全ではありますが……」
扉越しでもはっきりと分かる程、むせ返るような甘い香りが漂う。
ギーが思わず顔を覆うほど、理性を奪うような香りだが、バジルとオレールは涼しい顔をしていた。
「お二人は……平気なのですか?」
「んーー、本来の香りなら別だけどな」
「ええー、この程度でしたら問題ありません」
二人の反応は、さすがは王国騎士といった所だ。
「ーーーーこれで安心ですね」
「とりあえずはな」
「……安心……ですか?」
「ええー、レオ様が血を求めた証ですから」
「完全な目覚めとは言えないけどな」
「……仕方ありません。不測の事態は、よくある事です」
「そうだな……」
何処か嬉しそうに話す二人に、ギーも在りし日を想い浮かべているようだった。