05 別れと発す
ヴァンパイアの中でも純血とされるのは、王家の血を引く者だけで……その数少ない純血がレオ。
今、私の隣でコーヒーを飲んでいる彼。
列車の指定席に並んで座る二人は、人間のカップルそのものだ。ヴァンパイアとヴァンクレールとは思えない。目立つ所があるとすれば、容姿端麗な所だろう。
「レ……玲二さん……」
「戻ってる」
「うっ……すぐには、無理だよ」
「妃梨は変わらないな……」
「えっ?」
「いや……」
時々、リリーに向けられる視線が甘いものになる為、その度に頬を赤らめている。
今も彼の呼び名で苦労していた。
夢の中の彼がレオだと一致したのに、他の名前で普段は呼ばなくちゃいけないなんて…………
しかも『玲二』って、呼び捨てなんて……急には無理だよ。
やっと……敬語を使わない事に、慣れてきそうな所だったのに……
頬を膨らませそうになるリリーに、彼は微笑んでいる。また甘い視線を向けられ、彼女は居心地の悪さを感じていた。
一緒に暮らすと言っていたけど、何処まで行くのかな? 都心に住んでいる事以外は、分からない事だらけだから……
早絵にだけは、お別れを言いたかったけど……それは叶わなかった。
スマホがあるし、連絡手段はいくらでもあるけど……私は居なかった事になってるから……記憶の操作が出来るなら、飛んで移動するくらい出来そうなのに……
妃梨は、窓の外で切り替わるように過ぎていく景色を眺めていた。
ーーーーーーーー胸騒ぎがする。
こういうカンは、昔からよく当たるの。
胸元を押さえる仕草をしていたのだろう。レオが彼女の手を取ると、優しく握った。
「……玲二さん?」
「着いたら起こすから、寝てていいよ」
「うん……」
肩を寄せられると、レオの心音が聞こえてきた。トクトクと規則正しい音に、リリーの漠然とした不安は取り除かれていくようだ。
素直に瞼を閉じた彼女は、深い眠りについた。
『ーーーーレオ……』
『あぁー、バジル頼んだ』
『了解』
言葉少ない会話は、実際にしている訳ではない。レオの口は一つも動いていないし、近くに『バジル』と呼ばれた男がいる訳でもない。限られたヴァンパイア同士による超音波を利用した会話だ。
彼等の乗っている車両は、すぐに闇に呑まれたかのように暗くなっていく。先程までリリーが眺めていた昼間の明るい風景は、何処にもない。
「……こんな所にまで」
少し怒りを含んだように漏らしたレオの瞳が、紅く揺らめく。
「ーーーーソノ娘……ヨコセ……」
人の形をした黒い影が、二人の前に無数に点在している。辛うじて発した影の言葉は、レオにはクリアに聞こえていた。聞き覚えのある声だったからだ。
「寄越セーーーー!!」
襲いかかる影を、レオの赤く揺れる瞳で威圧すると、それは動けなくなった。
その場に現れた黒い服に身を包んだ男の剣により、一つ残らず塵になっていく。
「……お疲れ、バジル」
「殿下……」
闇は消え、元の車内に戻っているが、周囲に人影はないままだ。
「バジル、行きますよ」
「あ、あぁー」
「では殿下、また後ほど」
中世ヨーロッパの騎士のような上下黒の服を着た二人の男は、レオに一礼すると、その場から消え去った。
彼等が消えた瞬間、列車は人が行き交う車内に戻っていた。
レオの腕の中で、リリーは眠ったままだ。彼女の首筋に唇を寄せ、赤い痕を残す。
「ーーーー玲二さん、まもなく」
「あぁー」
通路を挟んだ隣の席に座っていたギーの合図で、彼女の頬にそっと触れる。
「……妃梨、着いたよ」
柔らかな感触で目覚めると、街並みはすっかりと変わっていた。高層ビルが建ち並び、大勢の人が行き交っている。
「玲二さん……帝都?」
「あぁー、妃梨は……来るのは初めて?」
「うん……」
帝都とは、この国の首都だ。今まで地方に点在していたリリーにとって、テレビで見た景色が目の前にあるようなものだ。
凄い人……それに高いビル……目眩がしそう。
「ーーーー人、多いね……」
「大丈夫だ」
人混みで倒れる事なく、レオに手を引かれたまま歩いていく。
ロータリーを出ると、駅の目の前にある高層ビルに入っていった。
ーーーー不思議……この景色に見覚えなんて、ある筈がないのに……胸が苦しくなるの。
エレベーターの中で、顔色が悪くなっていたのだろう。またレオに抱き寄せられていた。
「妃梨、こっちにもたれ掛かるといい」
胸が苦しいくらいに鳴っていたが、彼の心音に気持ちも和らいでいくようだ。
こんなに優しくしてくれるレオのこと……もっと想い出したい。
私は…………何を忘れているの?
エレベーターは小さな音をたて、最上階で止まった。
「リリー様、着きましたよ」
「えっ……」
ギーに言われ、レオに手を引かれたままエレベーターを降りると、目の前は玄関になっていた。
……エレベーターと、部屋が連結してるの?
リリーは驚いた様子で部屋を眺めていた。
「リリー、此処が……俺の家だよ」
「凄い……」
地上四十階建ての最上階から見える景色は、先程までいた駅がパノラマのようだ。平屋や一軒家にしか住んだ事のない彼女にとって、初めての体験である。
大きな窓から見える景色を静かに眺めていると、隣から小さな笑い声が聞こえてきた。
「ーーーーレオ?」
「ふっ……気に入ったなら、此処にした甲斐があるな」
「えっ……」
「リリーの部屋はこっちな」
言葉を遮るように、レオは部屋を案内していく。
昨日までいたお屋敷も広かったけど、何処か懐かしい感じがした。
此処もそう……私の忘れた記憶と、関係があるのかな……
「リリーには、明日から学園に通って貰うよ?」
「うん……」
生返事をしたリリーの目の前には、白いブレザーにライトグレーがベースになったチェック柄のスカート、リボンやローファー等の学生服が一式揃っていた。
「また学校に通えるの?」
「あぁー、ギーと一緒に通って貰う」
「ギーと?」
後ろで控えていたギーに視線を移すと、彼は優しく微笑んでいた。
「……ギーに、姉妹はいる?」
「ーーーーいえ……」
「そう……」
何だろう……一瞬、ギーによく似た女の子の顔が浮かんだ気がして……
ギーは表情を崩しそうになるのを堪え、お辞儀をした。
「学園では綾人とお呼び下さいね」
「う、うん……」
……やっぱり……見覚えがある気がする。
それに……寂しそうな瞳も……
「ギーも"妃梨"って、呼ぶんだぞ?」
「は、はい!」
「敬語も禁止な」
「レオ様!」
敬語は彼の癖なのだろう。顔を赤らめたギーは、主人の無理な提案に、小さな溜息を吐いた。
「綾人……よろしくね」
リリーが手を差し出すと、ギーは一瞬驚いた表情を浮かべながらも、握り返していた。
「はい……妃梨……」
ーーーーーーーー懐かしい……
数日前、初めて会った筈なのに……ギーの手は誰かを想い起こさせる。
リリーにも誰かは分からないままだが、彼女の記憶は少しずつ甦りつつあるのだろう。
ギーに向けて見せた笑顔は、心を許した仲間に見せるような柔らかなものだった。
ギー特製の料理は、どれも美味しかった。
私が作るよりも上手だと思う。
「ふぅーーーー……」
大きな円形状の湯船には、薔薇の花弁が浮かんでいる。密閉された浴室には、薔薇の甘い香りが漂っていた。
凄い薔薇の数……でも、何処か懐かしい香り……
「明日から……学校か…………」
リリーの独り言は、やけに響いて聞こえる。
特進科の編入届けは、もう済んでいるらしい。
試験とか面談とか……何もしていないのに、特進科なんて…………
レオの話では、少人数精鋭だから、私も入れて十名程度しか在籍していないらしい。
地方の学校しか通った事のない私には、想像もつかないけど……
リリーは脱衣所にある鏡を見つめた。
夢の中の私は、本当に…………私、なのかな?
髪や瞳の色だって全然違うし、似てる所が見つけられなくて……敢えて言うなら、肌が白い所くらい?
「はぁーーーー……」
今度は大きな溜息を吐いた。
おじいちゃんとおばあちゃんは、笑顔で送り出してくれた。
レオの側が安全だと言うのなら、それに従うしか今の私には術がないけど……強くなりたい。
せめて……自分の身くらいは守れる強さが欲しい。
リビングに戻れば、赤い飲み物が入ったグラスを持つレオが夜空を見上げていた。
ーーーーーーーーなんて……綺麗なんだろう……
首元を緩めたワイシャツにパンツと、何でもない普通の格好だが、背丈があるから映えている。また月夜に照らされ、何処か儚げに見えるレオには、吸い込まれそうになるような独特の雰囲気が漂っていた。
「…………レオ……」
「リリー、ゆっくり出来たか?」
「う、うん……」
見惚れていた事に気づき、頬を赤らめるリリーの頭を優しく撫でると、耳元で囁いた。
「寝室、行ってて」
「うん……」
またキングサイズのベッド……これを独り占めなんて、なんて贅沢。
一人で眠るには大きすぎるベッドに横になると、リネンからは微かにお日様の香りがしている。
レオは一体、何者なんだろう……
こんな広い部屋に住んでるし、ヴァンパイアって事を抜きにしたって……凄い人だって事くらいは、私にも分かる。
横になってはいるが眠れないのだろう。いくつもあった枕の一つを抱きしめていると、寝室をノックする音がした。
「は、はい!」
リリーが思わずベッドから飛び起きると、レオは可笑しそうに笑っている。
「眠れないのか?」
「う、うん……」
見透かすような瞳を向けられ、否定は出来なかったようだ。
「リリー」
「ちょっ、レオ……」
ベッドの微かに軋む音が響き、リリーに覆い被さるようにレオが膝をつく。
戸惑いを隠せないリリーは次の瞬間、柔らかな香りに包まれていた。
レオに抱きしめられていたのだ。
「リリー、おやすみ……」
頬に触れた唇に、頬はますます赤くなっている。
「えっ……レ、レオ……」
頭痛もないし、体調は良い。
今までで一番良いくらいなのに……こんなに抱きしめられたら、眠れないよ!
『おやすみ』と言ったレオは、綺麗な顔立ちのまま眠っているようだ。彼の腕の中に収まったリリーは、夢の中の彼とは違うレオの姿に違和感はないのだろう。額を胸元に寄せたまま、彼の鼓動に耳を傾けていた。
ーーーーーーーー生きてる……それだけで、嬉しいと……心が叫んでるのが分かる。
そっと瞼を閉じたリリーは、彼の腕の中で眠りについた。