46 終焉と崩壊 上編
「ーーーーーーーー来たか……」
朝方だというのに辺りは薄暗い。夜明け前だからでも、曇り空だからでもない。マンションから見える学園がある森だけに黒い影が立ち上っているのが分かる。ただ、それはレオの瞳に映る世界で、人々は当たり前のように行き交っていて、電車も動いているし、すでに開いている店もある。
「……レオ…………」
「おはよう、リリー……」
何もないように微笑んだ彼に対し、リリーの顔は真っ青だ。
「…………この気配は……誰……?」
「見えるんだな……」
「うん……」
「そうか…………これは、侯爵家の末の弟だ」
「侯爵家の末……」
呆然と窓の外に映る黒い世界を眺めながら記憶を辿る。リリーの中では侯爵家の双子の跡取りとしか覚えがない。表立って彼が出た事は数える程しかなく、それも彼女が生まれる前の話だ。今も知っているのは長老たちと、王であるベルナールに、レオくらいだろう。
純血に近しい血脈には残虐さが備わっていた。双子の記憶違いも、偽装も、彼にとっては容易い事だっただろう。
「…………彼の名は?」
「分からない……何も残されていないから……」
「そう……?!」
急に地震のように建物が揺れ動く。ガタガタと激しい音をたてたかと思えば、眼下では信号が止まり、あちこちで煙が立ち上る。ただ外の被害に対し、室内は一つも変わっていない。揺れも最初の一瞬だけで静寂を保っていた。
『ーーーーレオ、始まるぞ』
『あぁー』
短く応えたレオの瞳を紅がさす。学園を包んでいく靄の影響だろう。珍しく霧がかかったような天気にさま変わりしていた。
隣に並んだ彼女から甘美な香りが微かに漂う。リリーにもその自覚はあるのだろう。徐ろにレオの頭を胸元に傾けた。
「リ、リリー?!」
珍しく動揺するレオに無言のまま視線を通わせれば、彼が理解出来ないはずがない。次の瞬間には首筋に牙が刺さり、甘美な香りが広がっていた。
「ーーーーありがとう」
「レオ、無理はしないで……」
「あぁー」
見透かすような瞳に観念したように頷き、抱き寄せる。
『全員、生きて帰れよ』
『はっ!!』
音もなく部屋の明かりは消え、二人はいなくなっていた。
「ーーーー姫様の予感、的中かよ……」
知っていながらあって欲しくない現実に眩暈がする。それはリリーだけではなく、騎士にとっても残酷な現実であった。
バジルの目の前は真っ黒な靄に包まれ、先を見通すことが出来ない。おまけに徐々に瘴気の匂いが濃くなっている為、息がしづらい中、感覚だけを頼りに特進科の生徒を探す。学園では地震が起こらなかった代わりに、人々が睡魔に襲われるかのように倒れていた。
「…………いた!」
特進科の生徒たちには、どのような世界に見えているのだろう。騎士と同じような視界でないのは確かだ。ノエルを除く生徒たちには、純血に近い血脈は受け継がれていない。
夢物語な純血の王を知る判断材料は皆無だが、ただ雰囲気がいつもと違うと、直感的に感じていた。
「ーーーーーーーー遠野、先生?」
「どうした紫苑……」
「いえ……妃梨と綾人はおやすみですか?」
「ああ、今日は特別授業だったのに残念だなーー」
「うっ……」
「紫苑、大丈夫か?!」
目の前の講師から漏れ出る瘴気にあてられ、次々と膝をつく。酷い頭痛に襲われ薄れていく意識の中で、甘美な香りに気分が和らいでいきながらも倒れていった。
「ーーーー東宮じゃないか……」
「まさか、ここまで上手く化けるとはな」
「ふふふ、中々いい余興だったでしょ?」
次々と現れる騎士に囲まれても余裕の表情だ。
「君たちは早く戻った方がいいんじゃないかな? 王国は手薄でしょ?」
「随分と舐められたものだな」
鋭い視線を向けられても、何処か楽しそうな雰囲気さえ漂う。少しも分が悪いと感じていないようだ。
「いい顔だねーー、僕はキミ達が大嫌いだからさーー」
パチンと、指先を鳴らせば、影が続々と湧き出る。リリーがいなかったなら、揃って瘴気に呑み込まれていただろう。それ程までに強い悪臭を放っていた。
「ーーーーっ、厄介な姫だね」
放った筈の瘴気が跳ね返され、自身が包まれようとも顔を覆う事はない。せいぜいリリーが放つ光を態とらしく睨んでみせるくらいだ。
次々と葬られる影は言葉を一つも発する事なく消えていく。圧倒的な力量の差を見せつけられながら、変わらずに余裕の笑みを見せる彼がいた。
「ーーーーーーーー終わりだ」
レオが手を下すまでもなく、首元に剣先が近づく。銃を構える騎士もいる為、どう考えても彼に勝ち目は無い。追い詰められてもなお、変わらない張り付いた笑みに虫唾が走る。
「……どうでしょう?」
指先を鳴らせば爆風が吹き荒れ、騎士が吹き飛ぶ。壁への衝突を緩和させ、生徒を掴むので精一杯だ。
「ーーーーっ、避けろ!!」
思わず声が上がり、血の弾丸をかろうじて避ける。
暴風が止んだ教室は窓ガラスが割れ、机や椅子が廊下側に飛ばされる悲惨な状態だ。
「なかなか強いね、さすがは王国騎士ってところかな……」
「お前!!」
「ふふふ、先に陛下に謁見しようかな。君たちも急いだほうがいいよ?」
ほとんど同時に銃声が響くが、壁に弾が残っているだけだ。彼が消え去り、亡骸になった遠野が倒れていた。
「ーーーーっ、どこまで……」
思わず声を漏らすリリーの瞳が微かに紅みを帯びる。過去と変わらず死が近くにある現実に、思わず下唇を噛んだ。
「さすがに、すぐには行かせてくれないか……」
起き上がった特進科の生徒から黒い煙が立ち昇り、瘴気に似た匂いが感覚を鈍らせる。まだ生きていると分かっていながら、向かってくる手には同じく黒い影で形取ったような剣が握られていた。
「意識を刈り取るだけにしてくれ」
『はっ!!』
忠実にレオの命令を守る騎士の手際はさすがだ。ほんの数分で意識を刈り取るだけにとどめ、念のために拘束する。同族に手をかける事は避けたいと、誰もが思っていたからだろう。
「レオ……ここって…………」
「あぁー……眠っている」
「そう……」
小さな声で交わす頷きは、二人だけにしか分からない。沈んでいく気分を払拭させるように首を小さく横に振り、まっすぐにレオを見上げた。
「……城に」
「あぁー……」
抱き上げられ音もなく消える殿下に騎士たちも付き従えば、朝日が差し込む教室は元に戻っていた。
レオの手に力がこもり、瞼を開ければ婚姻の儀を挙げた時と変わらない私室だ。
外から微かに聞こえる物々しい足音に、そっと扉を開ければ無惨に倒れるメイドの姿が目に入る。
「リリー、離れるなよ」
「うん」
短く応え、先行するレオに続いて城内を巡れば、何かが暴れた跡のような黒い筋が無数に広がっていた。微かに匂う瘴気に誰もが気づいていただろう。
スムーズに辿り着いた玉座の間は、罠だと重々承知の上だ。扉の向こうからただならぬ空気が漂っていた。
『ーーーー行くぞ!!』
口を開く事なく告げれば、騎士が頷くと同時に扉が開く。目の前に広がる黒い靄がメイドや執事の頭上で怪しげに揺れ動き、ほとんど同時に襲いかかってくる。王がいながらここまで制圧された事実に驚きながらも、顔には少しも出さない。
剣の擦れる音が響いたかと思えば、簡単に打ち砕いていく。騎士が拍子抜けなほどに容易く拘束が可能であった。
違和感に気づき気配を辿るリリーが天井を見上げた。
「ーーーーっ、避けて!!」
太いミミズのような黒い物体が急降下してくる。避けた騎士に対し、メイドであったはずの女性の無惨な遺体が転がっている。それも一人や二人ではない。十人は裕に超えるであろう被害者に、思わず唇を噛んだ。
塵にならない時点で集められた召使いは、全て人間であった。
蠢く黒い物体の前に音もなく降り立つ彼の瞳は赤いままだ。ダヴィドやクロヴィスのように黒く染まってはいない。闇に染まっていないのだ。
緊迫した空気が流れる中、楽しそうに微笑む。
「ふふふ、さすが姫の勘はいいね」
言葉にならず目の前の惨劇に救いの手は届かない。死者は蘇らないのだから。
思わず飛び出しそうになるリリーの腕は、抱き寄せられていた。
「ーーーーっ、レオ…………」
「……分かっていた事だ」
呟いた本音に胸が締め付けられる。苦しい想いをしているのは彼らに限った事ではない。何度巡ろうと、同胞の死に込み上げるものはある。
振り払うように銃口を向ければ、赤い瞳が怪しげな光を放ち、見知った姿に変わる。
「ふふふ、君たちにはこの方がいいよね」
まるでレオたちとの関係性を知っているような口ぶりである。
ダヴィドから発せられる聞きなれない声色と言葉遣いに記憶が巡り、対峙する事が初めてではないと、リリーの直感が告げていた。




