04 過去と現実 下編
すべての記憶が戻った訳じゃない。
私は……断片的な事しか、想い出せていないみたい。
だって、レオがまだ寂しげな瞳をしてるから……想い出したい。
今まで記憶がなくたって、おじいちゃんとおばあちゃんがいれば……それだけで良いって、納得させてきたけど、それだけじゃダメなんだ……
静かに抱き合う二人の姿に、修と史代はかつてのアベルとマリアを想い浮かべていた。
「ーーーーレオ様、そろそろ……」
「ん、あぁー」
強く抱きしめられていた妃梨の頬は、赤く染まったままだ。余程、自分で唇を寄せた行為が恥ずかしかったようだが、理由はそれだけではない。レオの膝の上に抱えられた状態で、抱き合っているからだ。
レオの瞳は、元の緑がかった色にすっかりと戻っていた。
ーーーー離れたのに、顔が熱い……
レオの事は最初から怖くなかった。
ヴァンパイアを怖がっていた筈なのに、何でなんだろう……
紅く染まった瞳すら、怖いくらいに綺麗で……懐かしいとさえ感じてしまうの。
妃梨の心情は複雑なままのようだ。
テーブルには、ハーブティーの入ったティーカップが五つ並んでいる。
史代の淹れたいつもの香りに、気持ちが和らいでいく事を感じながら、妃梨はほっと息を吐き出していた。
自分で思っていたよりも、ずっと……緊張していたみたい……
「リリー、怖がらせたな……」
「ううん……そんなこと」
『そんな事ない』って否定するつもりだったけど、声が出てこない。
まるで、その瞳に捕らえられたみたいで……
リリーの髪に触れる彼は、愛おしそうな視線を向けている。息を呑むほどに美しい所作とは、正にこの事だろう。
長い髪にそっと唇が寄せられていた。
「ーーーーレオ……」
「リリー……」
妃梨の揺れる瞳に、レオは告げそうになった言葉を呑み込むと、話を戻した。
「……リリーは、ヴァンパイアの吸血行為は分かる?」
「う、うん……人の血を飲むってこと?」
「あぁー、ヴァンパイアは吸血行為を行わないと、活動出来なくなるんだ」
「活動出来なくなるって……死んでしまうの?」
「そうだな。それも稀にあるけど……ある意味、不老不死だからこそ、一人の王が六百年以上君臨し続けているんだ。でも、不老不死だからって痛みがない訳じゃないし……治癒力が異常に高いってだけで、人と同じように傷はつくし……」
何処か苦しそうに話すレオの姿に、妃梨はそっと手を重ねた。
彼は我に返ったかのように、触れられた手を握り返すと、頬を微かに緩ませた。
「…………話が逸れたな。要は血を飲まないと、いずれ死ぬ。人も、食事をしないと餓死するだろ?」
「うん……」
「それと同じだけど……俺達は餓死する迄には、絶対に堕ちない。そこまで堕ちたら、人を無差別に襲うようなモノになってしまうから……」
「……無差別に?」
「そう……大昔の殺人鬼は、大抵同胞の仕業だった……そこまで堕ちないよう、今は王が統制をとっているから、そんな奴は滅多に出なくなったけど……」
ーーーー今の話だと疑問が残る。
王が統制をとっているなら、血統があって序列を重じているなら……貴族みたいな感じでしょ?
レオに刃を向ける意図が分からない。
そんな事をして、王の……ベルナールの反感を買わない訳がないでしょ?
私には分からない部分が多いけど、血統に序列があるなら、ベルナールの息子であるレオは次期王として扱われてもいい筈だから……
様々な疑問が浮かぶ中、妃梨は簡潔な言葉を選んだ。
「……レオ……ヴァンパイアに血統の序列があるなら、ダヴィドの目的は何?」
「……ダヴィドの目的は、唯一のヴァンクレールを手に入れる事だろうな……」
「えっ……さっき希少って言っていたけど、唯一って?」
ヴァンクレールに、特別な力があるようには思えない。
実際、私は朝日が苦手だけど、別に浴びたからって灰になったりはしないし。
記憶力は良い方だとは思うけど、未だに想い出せない事もあるから……
「百年程前……ヴァンクレールを保護するように動いていたけど、皆……死んでしまった」
ーーーー百年……途方もない年月で、私には想像もつかない。
こんなに自分の記憶を想い出したいと、願った事はない。
レオはハーブティーを一口飲むと、正直に告げた。
「元々、数は少なくて希少だったのは確かだけど……ヴァンパイアの血統に拘った者が追放したんだ」
私が襲われたのは、ヴァンクレールだから……
戸惑いを隠せない妃梨の手が、今度はレオに強く握られていた。
「……私が狙われたのは、それだけ?」
妃梨は確信を突いていた。
それだけでは無いと、記憶の何処かで分かっていたのかもしれない。それくらい、はっきりとした口調だった。
レオにも、彼女のまっすぐな視線を逸らす事は出来なかったようだ。
「……リリーは……俺が血を吸った時の事、覚えているか?」
「少しだけなら……凄く甘い……花のような……嗅いだことのない香りがした……かな?」
あの時は、むせ返るような甘い香りに戸惑った。
それに……香りに反応するように、襲ってきた影にも……
妃梨がティーカップから視線を移すと、レオは率直に応えた。
「……それがリリーの血の香りであり、ヴァンクレールが全滅する事になった理由だ。リリー程じゃないけど、ヴァンクレールの血の匂いは格別で、だからこそ……狙われていたんだ……」
「レオ……それじゃあ、私の親が殺されたのも……それが原因?」
「要因は他にもあったけど、惨虐なヴァンパイアの血がそうさせたんだ……今は、此処までしか話せない……すまない」
「何でレオが謝るの? 私はレオのおかげで、傷一つないよ?」
そんな……寂しげな瞳をして欲しくないのに……どうしたら、笑ってくれるんだろう……
「ありがとう……でも、今までリリーの周囲で不可解な事が起こっても、ダヴィドに気づかれずに済んだのは、修さんと史代さんのおかげでもあるんだ」
「そんな……」
「勿体ないお言葉です」
ーーーーおじいちゃんとおばあちゃんが、何故そこまでして……
「ヴァンパイアと血の契約をしたからだよ」
「おじいちゃん……」
戸惑いを隠すことが出来ず、表情にありありと出ていた。修も史代も分かっていたのだろう。視線を合わせた二人は、答える事を選んだ。
「妃梨は……リリーは、そこまでして守りたい存在だったって事だ」
「そうね。それにアベルやマリアは、私達にとっても大切な人達だったから……」
「そうだな……二人の娘であるリリーがうちに来てくれて、この六年幸せだったよ」
「ええー、ずっと続いていけると良かったのだけれど……」
「えっ……」
隣に座るレオに視線を戻すと、すぐに答えが返ってくる。
「……リリーには、俺の元でこれから暮らして貰いたい」
「そん……な……」
「急に悪夢を見るようになっただろ?」
「うん……」
…………レオの……言う通りだ。
周囲に誰もいないのに窓ガラスが割れたりとか、信号が急に変わったりとか……些細な事も入れれば、不可解な事は私の身の回りで、今まで山程起こってきた。
その度に、引っ越しを余儀なくされたけど……悪夢を見た事は、一度もなかった。
「人の……十六歳の誕生日が、いわゆる解禁日ってやつで……リリーから流れる甘い香りに、惹き寄せられるモノが多くなった事が、影響しているんだと思う」
「香りが無くなる方法はないの?」
「これといった文献は残されていないな……」
「そう……」
「俺と一緒に暮らすのはイヤか?」
「それは……」
……納得はしてない。
そんなの……出来るはずがない。
吸血をしないヴァンパイアだって言われても、私にヴァンクレールの自覚がないもの。
おじいちゃんとおばあちゃんと、これからだって暮らしていきたい……それが私の本音だけど、二人の元にいて……またダヴィドみたいなのが現れたら、戦う術がない。
それに、レオと暮らすことがイヤな訳じゃないの。
自身の想いにも戸惑っているのだろう。言葉に詰まった妃梨は、修と史代を見つめた。
ーーーーでも、大切な人が巻き込まれるのも……耐えられない。
あんな想いは……もう、二度としたくないの。
「リリー、落ち着いたらまた暮らせるようになるよ」
「そうだな。レオ様の元が一番安全だからな」
離れたくない想いが滲み出ていたのだろう。二人とも妃梨を宥めるような言葉を口にしていたが、寂しげな表情に変わりはない。
妃梨だけでなく、育ての親でもある修と史代にとっても、胸にくるものがあった。
「……リリーがすべて想い出した頃に、会いに行くよ」
「おばあちゃん……」
「そうだな。元気でやっていくんだよ」
「おじいちゃん……」
「何処にいても、リリーは私達の大切な孫娘だからね」
妃梨の瞳が涙で滲む。
三人の抱き合う姿は、まるで本当の家族のようだ。
「ありがとう……」
「レオ様、リリーを頼みますよ」
「はい」
レオは修に手を差し出した。
二人が握手を交わす姿に、妃梨から涙が溢れるが、止められない程の胸を締めつけるような想いに、何故襲われているのか分からずにいた。
おじいちゃんとおばあちゃんに『リリー』って、呼ばれると……私は人じゃなかったんだって、改めて実感する。
それに……たとえ血の繋がりがなくても、二人が愛情を注いでくれていたんだって、分かっているよ。
涙を拭った妃梨は、十年間育ててくれた祖父母に笑顔を向けた。
穏やかな時間が流れていたが、これが最後だった。
再び五人が集まる事はなく、これが最後に交わす言葉になるとは、誰も夢にも思っていないのであった。