33 彼等の正義と彼女の別の正義 中編
ボロボロの汚い布を身に纏い、人間が生贄として陛下に差し出したのがマリオンだった。
その娘がいた村人によって、陛下の側近が火炙りにされた。
それは、五十年以上前の出来事。
それから村の長は、毎年のように生贄を寄越すようになった。
最初のうちは陛下の興味も一切なく、吸いつくしてはゴミのように棄てるだけだったわ。
そう、マリオンも同じように棄てられるだけの存在だったはずなのに…………
『ーーーー名は?』
『………………』
『話せぬのか?』
こくりと小さく頷いた少女は、汚れた身なりでありながら澄んだ瞳をしていた。
今でもあの日の事はよく覚えているの。
アントム様は、少女に何かを見出したようだったから……
生かされた少女は、一年の教養の成果で美しく変貌した。
それは私から見ても、立派なレディーだった……だからこそアントム様は妾の一人に加え、子を成したのでしょう。
身体が丈夫じゃないからと、私には死産を選ばせておいて、マリオンには子供を産ませた。
どれだけ打ちのめされても、すぐに死ぬ事さえ出来ない私は…………何度、自身の運命を呪ったか分からないわ。
『ーーーーセリア、其方は美しい』
そう言って下さった口で、マリオンに笑いかけないで……愛を囁かないで…………ドロドロとした感情に、覆われていくのが止められないのよ。
黒く染まっていく感情が怖くとも、助けを求める事すら出来ないわ。
純血という気位の高さが助けを求める事を拒絶した。セリアの残酷さは、彼等の象徴でもあった。
『ーーーー哀れな生き物だよな』
昨日の事のように巡る想いと共に、彼の顔が浮かんだ。火炙りにされてなお、人間を守ろうとした側近の力強い眼差しが。
セリアの脳裏を過ぎるのは、とある村の人間によってヴァンパイアが殺された事実。力を持っているはずの純血が、無力だった現実である。
彼の……ダリの放った言葉は、本当にその通りだったわ。
人と交わる事を恐れ、同族だけで生きてきたからこそ、血は濃くなっていき、いつしか純血と呼ばれる王が生まれた。
それは、いつからだったのか…………今となっては、誰にも分からない。
ただ純血に生まれたというだけで、畏怖の対象となっていたの。
陛下に見染められ、ただ純粋に喜ぶ私に……心から敬意を持って接して下さったのは、他でもないダリだけだった。
仮面を被ったような口先だけの言葉も、恐れを抱くような態度も……全ては、アントム様のせいだと分かっていたはずなのに…………実際に間近で視線が合った彼の方は、この世のモノとは思えない美しさを纏っていた。
ひと目見て恋をしたと、錯覚してしまうほど……狂おしいほどに愛したわ。
だからこそ、許せなかった……許せるわけがないじゃない!
あのダリの命を奪った村人の生贄を! アントム様が妾にまでするなんて!!
命を繋ぎ止めるだけに飽き足らず、妾にまでした。それはセリアの自尊心を深く傷つけた。彼女自身も純血でありながら、貧困に苦しんでいた。
陛下がセリアを大切にしていた事に変わりはないが、移ろいゆく心を敏感に感じとっていたのだ。
あの美しい瞳がマリオンを映す度、心が酷く痛んでいった。
私だけのモノだったアントム様は、彼女達のモノへと変わっていくけれど……止める術はなかったわ…………結局、陛下の命令は絶対的なのだから…………
セリアのような純血の、ましてや王妃でさえも、王であるアントムの力には敵わない。絶対的な権力を持っているからこその王であった。
双子を亡くした日、側にいて下さったのはアントム様ではなかった……彼の方は戦争に夢中で、私を支えて下さったのはダリ……貴方だけだったのよ。
貴方がいたから…………私は、自分を保っていられたの。
蝕まれていった心は遂に崩壊した。メイドを殺しても心に何の変化もなく、落胆すらない。
セリアはとっくに壊れていたのだろう。燃え盛る炎を止める術もなく、ただ立ち尽くす事しか出来なかった日から。
「ーーーー生贄が、陛下の寵愛を受けるなんて……」
悪態をついた所で現実は変わらない。王妃であるはずのセリアは一人だ。
存外、変わらないのね。
私は……非情なまでに残酷だった……お父様と変わらないわ。
苛立ちが抑えられず、物やメイドに強くあたってしまう。
自身が許せなくなっても悪循環を繰り返し、遂に殺めてしまったのだ。
『……セリ……ア……さ……ま、私……は……幸せ……でし……た…………』
それが、ダリの最期の言葉だった。
剣に貫かれ、燃え盛る炎に手を伸ばす事すら出来ず、涙を流した。無力な自分を責め続けたが、何故、銀製の剣が唯一の弱点だと知っていたのかという疑問だけが残った。
姿を変え村人に聞いても、何も分からなかった。
何一つ、痕跡がなかった時点で……もっと早く、気づくべきだったのね。
全てがアントム様の……掌の上だったのだから…………
『生贄はいいが、ダリが死ぬとはな……』
『陛下……そんなにお嫌だったのですか?』
『あぁー、彼奴はセリアを好いていたであろう?』
『そうですね、セリア様はお美しいですからね』
『愛でるだけならな……』
そう吐き捨てた言葉に愛情は感じられない。作り物めいていたセリアの直感は、間違ってはいなかったのだ。
『……あの男の娘なだけあって、側に置くだけならば問題はないが……』
『陛下……恐れておられるのですか?』
『あぁー、そうであろうな……あのバケモノの娘だからな』
ーーーー気づきたくなかった…………知らなければ、幸せな世界にいられたのよ。
無意識に気配を消していたのだろう。アントムがセリアに気づく事はない。愛を囁いた口から語られる言葉は、悪夢のようだ。
『あの娘のおかげで、私のモノになったのだ』
『では、何故……』
『分かっているであろう? 純血に双子はあってはならない。その最たるモノが、あったではないか』
『…………セト殿ですか……』
『あぁー』
ーーーーーーーーお父様?
セトが……双子…………?
そんな話は聞いた事がないわ。
娘である筈のセリアには信じ難い事実だ。セトが双子である事も、そんな存在がいたであろう痕跡もなかったのだから。
『ほとんどがセトに奪われ、呪って生まれた片割れの名は、私でも分からぬ……ただ、災いの象徴だ』
災いの象徴…………遠い記憶を辿っても、怖い顔をしたセトしか浮かばなかったわ。
平気で人を殺めるような……お父様だったから…………
「ーーーーセリア様……お目覚めですか?」
「…………ええー、お水を……」
「ただいまお待ち致します」
…………イヤな事を…………想い出したわ。
ダリを見殺しにしたのがアントム様だという事も、彼が私を愛していない現実も、全てが夢であって欲しかった…………
メイドが持ってきたグラスを受け取り、口に含むと変な味がした。起き抜けの油断に自身を呪うが手遅れである。
「ーーーーっ、な、何……を……」
薄れゆく視界には冷淡な顔があった。
「…………ア……」
声を出す事も出来ず、倒れ込んだセリアの頭上には、表情を変えずに見下ろすアントムの姿があった。
「はぁーーーー…………」
誰の溜め息? やだ……行かないで…………独りぼっちはイヤなの…………
滲んだ視界で目覚めれば、冷淡なままのアントムがいる。
「……目覚めたか……セリアよ……」
「ーーーーっ!!」
手枷が付けられ、ドレスを着ているが罪人のような扱いだ。頭を押さえつけられ、声を発する事すら出来ず、拘束されている。
「……其方は美しい…………だが、残酷だな」
「ーーーーっ……」
「私が其方の策略に気づかないとでも?」
身に覚えのない言葉に反論すら許されない。一方的な言いがかりも、今のセリアが置かれた状況も、全てがアントムの思いのままであった。
要らなくなったら使いた捨てる。殺してしまえば、痕跡すら残らない。
あぁー……ダリも、こんな気持ちだったのかしら……
「……………………」
「申し開きもせぬか……」
落胆した様子のアントムに、セリアの心は冷め切っていく。
……純血の……王を手に入れれば、幸せになれると思っていたの。
それは幻想だったわ。
結局、私は…………
『セリア様……』
胸に残る甘さを含む言葉に涙が零れる。
はじめから……分かっていたわ。
口では愛を囁きながら、その瞳は……いつしか下級を見ている時と、変わらなくなっていったのだから……
「ーーーー連れて行け」
「はっ!」
申し開きも何もないわ。
心の中では、マリオンの死を望んでいたのだから…………
騎士に連れられ、地下牢に入れられたセリアは一言も話さない。声が封じられていると気づけたはずだ。アントムが正気だったのなら。
コツコツとヒールの音が響くが、セリアは膝を抱えたまま身動き一つしない。静かに処罰を待っていた。
「ーーーーーーーーセリア様」
聞き覚えのある声に顔を上げれば、憎んでいたはずのマリオンが寂しげな瞳をしていた。
「ーーーーっ……」
「やはり……声が封じられているのですね……」
ーーーー何故? 騎士も、陛下ですら、気づいて下さらなったのに……
「申し訳ありません…………あの村の娘が、メイドになった時から……イヤな予感がしていたのです……」
あの村……マリオンを生贄として差し出した、あの村?
頷くマリオンに、セリアも小さく頷いてみせた。言葉を発せられなくとも、意思疎通は出来るのだ。セリア自身が諦めてさえいなければ。
「……あの村には、魔女がいたのです…………」
ーーーーーーーー魔女?
「はい…………生贄を差し出すと決め、ヴァンパイアを……陛下を憎んでいる魔女が……」
憎んでいたはずの娘は、美しく変貌したわけではなかったのね…………マリオンは、最初から心の美しい人間だったのよ。
牢屋の鍵を魔法のように開けてみせると、セリアの手枷をはずし、ローブを手渡した。
「……セリア様、あの村を焼いて下さい!!」
故郷であるはずの村を焼けという少女にだけは、全てが分かっているかのようだった。