32 彼等の正義と彼女の別の正義 上編
「先々代の王……アントムにとって、クリスティ……いえ、セリアは望んだ女性だった……自分と劣らない血統も、美しい容姿も、彼女を支配すれば……すべてが叶うと思っていたの……」
騎士達にとって初めて聞く名だ。歴史を学ぶ場を作ったレオだったが、詳しい内容は語れはしない。王族の名を誦じているのは、王であるベルナールとレオだけである。それは王族だけが独占している知識であったが、リリーにも容易な事だった。
驚愕した様子の騎士達に、リリーは柔らかく微笑んでみせた。
「……セリアにとって王妃の座は、自分に相応しいモノだと思っていたけれど……幸福な日々は、長く続かなかった……」
「あぁー……アントムは側室を増やし続け、子孫を多く残したが、正妃であるはずのセリアとだけは……最期まで、子を成す事はなかった……」
すべては先々代の時代から、始まっていたのーーーー
「ーーーーそんな……」
思わず悲痛な叫びが漏れる。陛下が人間との間に子を成したからだ。
「セリア、可愛いではないか……其方が正妃である事に変わりはないのだ。私の一番はセリア、其方だ……」
「陛下…………」
握られた手が酷く冷たくなっていく。
あれだけ望んでいた子を一気に亡くした私には、裏切りのようだわ。
「ーーーーマリオン、よくやった」
「陛下……ありがとうございます……」
セリアの目の前には、愛おしい我が子を抱くマリオンとアントムの姿があった。
妾の一人にすぎないマリオンとセリアでは、天と地ほどの差があるが、彼女には自身こそが要らない存在のように思えた。
ーーーー見下されてる気分だわ。
陛下だって、あれだけ人間を嫌っていたのに……私は、マリオンにすら勝てない……
勝ち負けの問題ではないが、セリアにとっては堪え難い屈辱だった。
……純血に心を奪われたなら、まだ理解出来るのに…………マリオンは、人間じゃない。
何の力も無いくせに、陛下の寵愛を受けるなんて……何も知らない、ただの人間のくせに…………
セリアを黒い感情が包んでいく。周囲の呼び止める声も聞かず、離宮を抜け出していた。
「ーーーーっ……」
声を上げる事も出来ずに、一人で涙を流す。
正妃と言っても、所詮はお飾りだわ。
結局、陛下は……あれから、私を望んで下さらなくなった。
双子を孕ったセリアは、自分の命と引き換えに子を失ったのだ。陛下の下した判断とはいえ、堪え難い事だった。
現代の王ベルナールよりも二代前の王アントムは、先代のガスパルの時代よりも更に純血が力を持ち、繁栄したとされる。
先々代のアントムは多くの側室を持ち、子をたくさん成したが、正妃であったセリアとだけは最期まで子を成す事はなかった。
そんな中、人間で唯一側室となったマリオンは例外中の例外であり、陛下の寵愛を一身に受けた。それは誰が見ても一目瞭然なほどに。
「…………マリオンさえ、いなければ……」
そう口にしながら、陛下の言葉も分かってはいた。
私を望んで下さったから…………そう言い聞かせる事でしか自分を保っていられないわ。
純血のヴァンパイアである私が、人間の娘に劣るというの?
たかが十数年しか生きていない娘に、負けるというの?
堪え難い屈辱に苛まれ、セリアの心を黒く焦がす。
「ーーーー失礼致します」
メイドが扉をノックした事にも気づかず、忌々しげに叫ぶ。
「ーーーー元は、生贄のくせに!!」
人間がヴァンパイアを恐れ、生贄として差し出した見すぼらしい娘……あの日の事は、今も鮮明に覚えているわ。
それが、たった一年で美しく変貌したけれど……私の方が美しいのに。
痩せ細っていた体にいくら肉がついた所で、純血の私に敵うはずがないのに……
「何だと言うの?!」
今までも当たりがきつく、物言いが激しい事は度々あったが、ついにセリアはメイドに手を上げた。
純血の側に仕える事はメイドにとって名誉であったが、死を間近に感じる場所でもあった。
セリアに叩かれた頬を押さえ、その場に座り込む。恐ろしさのあまり声すら出ない。赤く染まった瞳が、贄にした人間を貪る姿と重なって映る。
「ーーーーっ、その目は何?」
今まで、それなりに使用人達とも上手くやっているはずだったわ……それなのに…………皆、私を憐れんでるようだわ。
こんな下級の同族にまで、こんな目で見られるなんて……私が正妃でしょう?
頭を下げたメイドに、優越感よりも苛立ちを覚える。
「本当は……少しも、悪いとは思っていないのでしょ?」
「いえ……その、ような……」
「私が間違っているとでも言うの?」
何を言っても不正解の状態だ。メイドは押し黙ったまま平伏したが、それすら気に入らないとばかりに頭を床に強く擦りつける。
「ーーーーっ……」
悲鳴を呑み込んだメイドは、強く頭を押さえつけられセリアの表情が分からない。ただ手の強さから怒りを感じ、赤い瞳で見られていると思い恐れ慄く。
「ーーーー貴女、いらないわ」
耳元で声がしたかと思えば、メイドは生気を失っていた。セリアが血を飲み干したのだ。
「ふぅ……美味しくないわねー……」
急激に痩せ細った体になったメイドは、もはや声を出す事も敵わない。潤んだ瞳に映った彼女は歪んだ笑みを浮かべ、ゴミでも見るかのように侮蔑の視線を向けていた。
「…………さようなら」
灰になっていく同族にセリアは何の感情も抱いていない。
「…………呆気ないわね」
純血にとって、下級とはいえ同族すら儚い生き物だわ。
だからこそ……陛下は、惹かれたのかしら…………
正気に戻ったセリアは、目の前の灰をゴミのように払った。
「存外……私と、変わらないのね…………」
塵になったメイドは、服だけが無造作に折り重なり姿を消した。純血の恐ろしさは突出すべき能力にあった。
混じり気のないセリアは、陛下にも完璧を求めた。だからこそ上手く言いくるめられ、子を残す事を嫌がった。そうとは知らないセリアは、ただ従順であったが故に側室が増えていく事に小言はあれど、反対する事はなかった。
それは相手がアントムだからか、それとも純血の王だからなのか、セリア自身にも分からない。
夢物語の純血は、その濃さ故に戦争の火種となった。恐るべき能力の高さに、人々は恐れをなし刃を向けた。
他者と違うからと刃を向けられ、化物と罵られ、私達には心が無いとでも思っているのかしら…………そんな事、ありはしないのに。
傷が増え、心を焦がしても、簡単に死ぬ事も出来ない。
「ーーーー哀れな生き物だわ」
そう言っていた人もいたわ。
確かにその通りだと思ったわ……人知れず生まれ、死んでいく命だもの。
私が亡くなったところで、彼の方はもう…………悲しんではくれないのでしょうね。
自身の矛盾な想いに気づいていながら、気づかない振りをした。誰よりも純血であることの誇りも、尊厳も、陛下の前では無意味に変わっていたのだ。
ーーーー人間が憎い……あの娘がいなければ、私が一番だったはずなのに…………
行き場のない感情をメイドにぶつけて、遂に殺してしまったけれど……罪悪感はないわ。
だって、純血以外に興味はないもの。
陛下さえいて下されば、私はそれ以上に望むものはないわ。
歪んだ愛情は、呪われた純血が故なのか、彼女の気質なのか、おそらくその両方だろう。
ベルを鳴らしメイドを呼び寄せ、何事もなかったかのように掃除を命じた。灰を拾うメイドは恐れながらも、静かに命令に従う。純血が正しいといえば、全てその通りになる世界だ。
「次は、紅茶をお願いね」
「はい……かしこまりました……」
気丈に振る舞っているが、その声は微かに震えていた。メイド仲間が殺された事は明白であり、彼女の反応は当然である。
血統を重んじているとはいえ、あまりに理不尽な最期であった。
必死に去勢を張る姿に、セリアは冷たい視線を向けた。
ーーーーーーーー純血以外はいらないのよ。
存外、簡単に殺める事が出来たわ。
特に……感情が動く事はないのね…………思っていた通りだわ……所詮、純血と……他とでは差がありすぎるのよ。
セリアは血統の誇りが誰よりも強かった。だからこそ、純血の、ヴァンパイアの王であるアントムが、マリオンを愛した事が許せなかった。側室との間に生まれた子が、憎くて堪らなかった。
いつから陛下は変わってしまったの?
始まりは…………二人だけだったのよ?
涙を流すセリアに声をかける者はいない。煌びやかな宝飾で彩られた部屋がやけに重たく感じた。
いくら高価なモノを与えられても、心までは満たされないの。
私には、陛下だけ……アントム様だけが、私を導いてくれていたのだから……
増え過ぎた側室は十人以上。それ以上はセリアですら覚えていない。正確には、記憶する事を止めたのだ。生半可な記憶力ではない事も、彼等ならではの悩みだろう。
…………私を愛して下さらないなら、陛下はもう居ないのと変わらないわ。
いくら境遇が似ていても、私は純血なんだから……
メイドが一人死んだくらいで心が動く事はない。アントムはセリア以上に冷酷だった。それが変わっていったのは、マリオンを生かした時からだろう。
あの時、始末しておけばよかったのね。
そうすれば、アントム様は……今も私のモノだったわ。
一方的な想いが身を滅ぼす事を知りながら、自身に止める手立てはない。
双子を失った日から、セリア自身も狂っていったのだから。




