03 過去と現実 上編
毎晩のように悪夢に出てきた。
その度に助けられず、足掻く事しか出来なくて、酷く胸が痛んだ。
その理由が…………今なら分かる。
私に『逃げろ』と言って、剣に貫かれていたのはアベル。
その傍らで、既に死んでいたのがマリア。
二人は、私の…………
「……二人は、私の……親ですよね?」
「あぁー……」
彼女の記憶が蘇りつつある事は、彼等にとって複雑な心境のようだ。レオの表情は元に戻っているが、修と史代は明らかに驚いている。
「食事中にする話じゃないんだけど……知りたい?」
「はい……」
何の迷いもなく即答する妃梨に、彼は微かに頬を緩ませた。
「妃梨は……三十年前の事、何処まで覚えてる?」
「……あの日、真夜中に目覚めた時には……二人とも血だらけで死んでいて……その側には、ヴァンパイアが立っていたけど……すぐに、炎の煙で見えなくなって……」
妃梨は当時を想い出しているのだろう。見るみるうちに真っ青な顔色になっていくが、話を続けるかレオに迷う余地はない。彼女の瞳が光を宿しているようだったからだ。
「ーーーーまずは、ヴァンパイアの話をしようか……」
「はい……」
ヴァンパイア……三十年前……そんなの空想や作り話で、現実的じゃない。
ーーーーーーーーでも……否定する事は出来ない。
レオに噛まれた筈の首筋の痕は、かすり傷一つでさえ、残っていないから……
妃梨は静かに耳を傾けた。まるで真実からは目を逸らさないと、心に決めているようだ。
「……ヴァンパイアには血統の序列がある。現在の王はベルナール……俺の父だ。彼は、この六百年以上……王として在り続けている」
ーーーー王? 六百年??
妃梨の頭に疑問符ばかりが浮かんでいる。それくらい突拍子のない事を告げていると、レオも自覚していたが、そのまま話を続けた。
「昔は人を食糧とし、生きる糧の為だけに従えたり……非道な事も数えきれない程してきた。幾つかの戦争を終え、俺の母が亡くなり心を閉ざした王が、その後……唯一、心を開いた女性がマリア……妃梨の母親だ。彼女は人間でありながら、ヴァンパイアの巣窟で給仕をしていた。その頃、人とヴァンパイアは友好的に暮らしていたんだ。でも……そう長くは続かなかった……」
王は人とヴァンパイアと友好の道を模索し始めた。
その一つが給仕として人間を雇い、破格の給金の代わりに吸血行為を行う事だった。
吸血した事で人間がヴァンパイアになる事はない。
永遠のような時間を一人で彷徨う事のないよう、決めた相手と血の契約を交わせば、ヴァンパイアが死ぬまで契約相手の人間の血を貰う代わりに、生き長らえさせる事が出来る。
契約相手が死んでもヴァンパイアは死なないが、契約したヴァンパイアが死ねば、人間はひと月と保たずに死んでしまう。
この事実を知っても、当時の人々の中には永遠の命を得ようとする者が数多くいた。
そんな混沌とした時代の中でも、マリアは陰日向に咲く一輪の花のような人だった。
そして、三十年程の月日が経ち、ヴァンパイアと人間で結婚する者が現れた。
それが、ベルナールの次に王位を継ぐ資格のある筈だったアベルと人間のマリアだ。
「リリー、気をつけるのよ」
「お母様ーー、見て! 綺麗なお花だよー」
少女はマリアに勢いよく飛びついた。数ヶ月ぶりに出る外の世界に、心を弾ませていたのだ。
レオが無邪気に空中庭園を駆け回るリリーを見つめていると、アベルが静かに話しかけた。
「……ここ数年で、更に世界は変わりつつある。レオには悪いが、俺達はここを出ていくと決めたよ」
「アベル、何故ですか? ……父上ですか?」
「いや、ベルナールは……我が弟は、よくやっているだろ?」
「ですが……」
話の最中だったが人の気配がし、沈黙が二人の間に流れる。庭園には、王であるベルナールがリリーとマリアと楽しげな表情を浮かべていた。
「……原因は分かっていますが、父上は周りに反対されても……必ず、アベルの手を取りますよ」
「ーーーーだからだよ……それでは、マリア達……人間が反感を買うだけで、守りきれない」
「……決心は変わらないのですか?」
寂しげな瞳を向けるレオの頭を、優しく撫でるアベルがいた。
「ほとぼりが冷めて、時が来たら帰ってくるさ」
そうアベルは言っていたが、此処に三人が帰って来る事は二度となかった。
彼等は国を出て、争いのない場所を目指したが、そんな場所は何処にもなかった。
貧富の差や些細な争いからでも、人は人を殺すのだ。
ヴァンパイアの世界では王の管轄下、同じ種族同士で殺し合う事はなかった。
あの日まではーーーー
「やっと、見つけました……アベル殿」
「土足で人の家に踏み入れるとは無礼ではないか? ダヴィド……」
「王が貴殿の捜索を依頼されたのだ」
「何?」
「最期に教えてやろう、アベル! ベルナールは最早屍人も同然だ!! 時代は我々には生きにくくなったが、それでもあの方は、人間と共に生きる世を夢見ておられる! 何て嘆かわしい事か……」
「ーーーーそんな世が来る事を……貴殿も願っていたではないか!」
「そんなもの遠の昔に忘れた……話は終わりだ。貴殿には、ここで死んで頂く」
そう言って銃口を向けると、ダヴィドは家臣に火を放つよう指示を出した。辺りは一瞬で火の海になり、燃え盛る炎の音が銃声を掻き消していく。
二人の間には、銃声と共に飛び出す人影があった。
「マリア!!」
目の前で彼女が撃たれた事により、アベルが殺気を放つと炎は一瞬で消え失せた。
「ダヴィド……我々がこのまま城に戻れば、貴様らの処分は免れないと思うが……」
「ふっ、そんな事は分かってはいるさ……だが、先の戦争の所為で、王は私を信頼している」
銃を構える音がした。
「自分を置いていった兄上よりも、このダヴィドをな! 先の戦争の引き金が私だとも知らずにな!!」
不敵な笑みを浮かべるダヴィドは、再び炎で部屋を包むと何の躊躇いもなく、王族の心臓に向けて引き金を引いた。
この惨劇の中、リビングの扉が開く音がダヴィドには聞こえていた。二人の娘であるリリーが真っ青な顔で、扉にもたれかかるようにして辛うじて立っている。
「ーーーーあっ……」
「ヴァンクレールの娘か……」
震える少女に鋭い視線を向けたダヴィドは、全て消し去るつもりだった。
リリーまでも手にかけようとした瞬間、彼の右腕と両足はアベルの腕により斬り落とされていた。
「ぐわぁぁーーーー!! き……貴様……」
「リリー、逃げろーー!!」
次の瞬間、アベルは剣で貫かれていた。
「い、いやぁぁーーーーっ!!」
少女の泣き叫ぶ声だけが響いた。
俺は密かにアベルとマリアの様子を見に屋敷を訪れていた。
王である自分の代わりに二人を守るよう、父上より言われていたからだ。
だから、あの日……アベルの血を飲む事で読み取った記憶に酷く困惑したが、そんな愚かな俺に彼は告った。
「……ベル……を信じ……ろ……」
ーーーー百年ぶりに……自分の目から、涙が出た事に気づいた。
レオは涙を拭うと、酸欠で倒れたリリーを抱きしめた。
アベルとマリアは、俺の目の前で灰となって逝った。
本当は灰を一つ残らず持ち帰りたかったが、魔術のかけられた炎は、証拠を残さず事故として隠蔽するように動いていた。
レオはリリーを強く抱きしめ、何十キロも離れた場所まで一瞬で移動すると、ベルナールとアベルの友人だと言う人間の老夫婦の家の前に辿り着いた。
「煤だらけの俺とリリーを、修さんと史代さんが受け入れてくれたんだ。父上に導かれて辿り着いたのは癪だったけど、あの日の事は一度たりとも忘れた事はない。リリーの事は、ずっと見守ってきたから……」
十六歳を迎えた日から匂いに敏感になり、人混みが苦手になっていたこと。
彼女の周りで、不可解な事が起こる度、引越しを繰り返してきたこと。
向けられる優しい視線に、彼女はまだ戸惑っていた。
ーーーー見守ってくれていた人を、何で覚えていないんだろう……
妃梨は時折、相槌をうって静かに聞いていたが、ようやく口を開いた。
「……私は……ヴァンパイアなの?」
「そうだな……簡単に言うと、吸血行為をしないヴァンパイアで……ヴァンクレールと呼ぶ者もいたけど、数が絶対的に少ないから……希少で、ヴァンパイアの中でも実在するとは……今は思われていない。妃梨も二人の孫娘って事で、戸籍上はなってるから」
「そう……」
あの悪夢が現実だった時点で、おじいちゃんとおばあちゃんが、本当の祖父母じゃない事は分かっていた。
悲しい……というより、本当の孫のように育ててくれていたんだ……
「妃梨、大丈夫かい?」
今も心配そうに、二人が見守っている。
「おばあちゃん、大丈夫だよ」
「そう……無理はしないのよ? 全然、食べてないじゃない」
「妃梨、しっかり食べなさい。ギーくんが作った料理は絶品なんだから」
「うん……」
妃梨が出来るだけ、いつものように笑って応えると、修も史代も孫娘の気遣う様子に微笑んだ。
家族のように温かな雰囲気に、レオは微かに頬を緩ませた。彼女ならすべてを受け入れられると分かっていたが、話を終えるまでは不安を拭えなかったからだ。
ーーーーーーーー私がヴァンクレールって事は、理解した。
あの時、アベルが戦っていた彼も……そう私を呼んでいたから……
「リリー、昔の話はこれくらいで……奴が気になるんだろ?」
「えっ……」
心を見透かすように告げるレオに、彼女は驚いた様子だ。
「……うん……この間、侵入して来たのは何?」
「奴等はヴァンパイアの中でも、至上主義派と呼ばれている」
レオの瞳が怒りに満ちているように、紅く染まっていく。
「ーーーーレオ、瞳が……」
思わず紅みを帯びた右目を手で覆う。恐れられるんじゃないかと、懸念があったからだ。
「……大丈夫だよ」
「リリー……」
「怖く……ないよ?」
そう告げた妃梨は、彼が押さえていた手の甲にそっと唇を寄せた。
ギーの赤面するさまと、修と史代の生温い視線に、彼女の頬も赤く染まる。
ーーーーっ、思わず動いてた! 恥ずかしい!!
レオから離れようとしたが、腰を引き寄せられ、離れる事はかなわない。
小さく漏らした彼の言葉に、妃梨は抵抗するのを止め、そっと髪を撫でた。
「ーーーーーーーーそばに……」
その言葉には、切実な願いが込められているようだった。