29 偽称と証 上編
隣で眠るリリーが気づく気配はない。脱ぎ捨てたパジャマを羽織ったレオは、プラチナブロンドの長い髪に触れながら応えた。
『ーーーー魔女は?』
『空です』
『そうか……他は現状維持で頼む。俺が出る』
『……はい…………殿下、お気をつけて』
『あぁー……オル、リリーを頼む』
『かしこまりました』
レオに慌てた様子はなく、騎士に的確な指示を出した。
黒い正装に身を包み、彼女の額に唇を寄せると、ターコイズグリーンの瞳が紅く染まる。
「ーーーーリリー……君だけは……」
そこには渇望するほどの願いが込められていた。
魔女が居たとされる古城には人がいた形跡はなく、何年も空き家だったのだろう。外壁は崩れ、蔦が生い茂り、木造の扉は朽ち果てている。とても人が住める状態ではない。
「ーーーー此処か……」
少し触れれば崩れるほど脆い壁が、レオにかつての城を思い起こさせる。
「…………痕跡はあるな……」
割れる窓ガラスから隙間風が通る度、瘴気の臭いが微かに漂う。
報告通り……先程までは、此処にいたみたいだ。
「殿下……ヴィスは……」
「あぁー、間違いないな……連れて行かれた。オルが」
話の続きは黒い影が現れ遮られた。
「……マリユス、まだ残りがいたみたいだな!」
「了解っと!」
天井の高い部屋は、今の城と重なる部分がある。銃声を気にしたのか、二人が手にしたのは剣だ。
勢いよく剣で貫けば音もなく消えていき、呆気ない程すぐに決着はついた。
「ーーーー殿下、この影……」
「あぁー……殺された人々だ……」
思わず眉間に皺を寄せ、剣先を床に突き刺す。
打ちのめされた横顔をマリユスが見つめる事しか出来ずにいると、知った気配が強くなっていく。
月明かりに照らされていたはずの部屋は、漆黒の闇のようだ。
「ーーっ! この気配!!」
「ーーーークロヴィスか」
強風が吹き、大きな音を立てながら、窓ガラスが一つ残らず割れていく。耳障りな音を響かせながらコウモリが飛んできたかと思えば、黒いローブで覆われた姿に変わる。その赤黒い瞳で歪んだ笑みを見せた。
「ーーーーこれは、これは、殿下ではありませんか……よく、此処が分かりましたな?」
クロヴィスには応えず、紅く染まる瞳で睨みつけるが効果は無い。
「……それで…………今宵はどうされましたか?」
怯む事なく応える姿に僅かな苛立ちを覚え、神経を逆撫でる。
「ーーーーーーヴィスは何処だ?」
「あぁー、あの末のですか……彼女の生贄、とでも言っておきましょうか」
「なに?」
僅かばかりの反応に、クロヴィスは満足気だ。
ーーーー人が集められている事は知っていた。
その人達が尋常じゃない事も……ヴィスの報告で分かっていた。
魔女の仲間なのかどうか判別しづらい状況だった。
だからこそ、オルを行かせたが……すでに先行して侵入していた為、間に合わなかった。
ヴィスは……完全に向こうの手に落ちたとみて間違いない。
奥歯を噛み締め、冷静さを取り戻す。レオの表情に怒りは含まれているが、それ以上の感情はマリユスにも読み取れない。
元来レオはポーカーフェイスが得意だ。でなければ長老達の小言を素知らぬ顔で退ける事は出来ない。彼女といる時に見せる豊かな愛情表現の方が稀であった。
「……リリーを欲して、どうするつもりだ?」
背筋が凍るほどの冷たい声色に、マリユスは戸惑いながらも警戒を強めた。
クロヴィスの両隣には同じようなローブを深く被る影が二体いる。顔は見えず、瘴気を放っている事だけは確かだ。闇と相まって分かりにくいが、黒い煙のようなモノが漂っている。
「殿下なら、お分かりになるのでは? あの娘がヴァンクレールであって、そうではないという事が」
「ーーーーどういう意味だ?」
思わず漏らしたマリユスには疑問でしかない。
リリーがアベルとマリアの娘であり、そう名づけたアベル自身もヴァンパイアと人のハーフだと公言していた。それが彼等にとっての常識であった。
「ふっ……いつの世も変わりはありませんな!」
ほんの少し怯んだ隙にレオに剣先が向けられ、銀製の擦れる嫌な音が響く。
「ーーーーっ、触れられると思うな!!」
無意味な事を口にした自覚はある。
ただ許せなかった……背負わなくていいモノまで、リリーは一人で抱える。
本当は……すぐにでも正体を明かして、そばにいたかった。
剣捌きは早く、マリユスには肉眼で追う事すら難しい。そして驚愕すべきは、レオの剣を受け止める技量があるクロヴィスだ。
マリユスは周囲にいる二体の影を倒すと、加勢するつもりでいたが、足手まといにしかならないと分かり奥歯を噛んだ。
ぐさっと、嫌な音と共に血の匂いが漂う。
「くっ……」
苦しそうな声を上げ、片膝をついたのはクロヴィス。彼の脇腹から鮮血が飛び散る。
「ーーーーーーーー忘れたのか?」
「くそっ……くそっ……! お前に何が分かる!!」
声を荒げるクロヴィスの核心をついたようだ。
「何故……ダヴィドを……」
「あんな出来損ないに用はない! 我は違うのだ! 我こそが!!」
喚き散らすクロヴィスを冷淡な顔で見下ろす。
リリーには見せられないな……と心の中で感じながら、急激に冷めていくのが分かった。
結局……こいつも、魔女の掌の上か……
「…………さよならだ」
レオが向けた刃が空を切る。
「ーーーーっ!!」
クロヴィスを抱えた大男に驚き、剣の柄を持った手が微かに震える。
ーーーーーーーー人間……だと?
ヴァンパイアの気配じゃない……ハンターに近い気配だが、明らかに人だ……
「では、殿下……またお会いしましょう……」
刺したはずの傷は消え、歪んだ笑みを浮かべる。先刻までの取り乱した姿は、何処にもない。
「……人殺しと同族殺し、どちらが罪深いのでしょうな」
せせら笑う声が聞こえたが、レオに追う素振りはない。剣先の血を拭う事もなく、その場に立ち尽くしていた。
クロヴィスを抱えた大男は、目的地に着くなり無造作に下ろした。ぞんざいな扱いに抗議の声を上げるが、男から反応はない。
深い森は、まだ朝焼け前という事もあって薄暗い。
「ーーーーーークリスティーは何処だ? 話と違うではないか! 殿下はあの娘の側を離れぬと、そう言っておったではないか!!」
悪態を吐くが男は無言のままだ。無理に修復した傷が痛むのだろう。クロヴィスは脇腹を押さえながら叫ぶが、男は声が届いていないかのように沈黙を貫く。
「ーーっ、人間の分際で!!」
荒々しい声とは対照的に、穏やかな風と共に黒い蝶が舞う。クロヴィスの手の甲に止まると、声だけが届く。
「ーーーーーーーーふっ、よかろう……」
数秒前とは態度が変わり、不敵な笑みを浮かべた。
「…………必ず手に入れるのだ」
黒く染まった瞳も、年老いた体も、ダヴィドのようであったが、蝶が触れると元の姿に戻っていた。王のように何百年も生きているとは思えないほど、若々しい姿だ。
「ったく、使えぬ者ばかりだ! あんな出来損ないと一緒にするではない!」
忌々しい記憶がクロヴィスの心を焦がす。
誰かれ構わず傷つけ殺した。
そうでなければ、自分を保っていられなかったのだ。
これは、罰なのか…………
「……あの娘は、どちらにせよ我のモノだ」
何処か確信めいた声色は、しっかりとレオにも聞こえていた。正確には一羽の烏が見ていた。純血にとって分身を創る事は造作もないが、実体がないモノを見張りにつける時間は限られている。
「ーーーー殿下も人使いが荒いな」
消えゆく烏と入れ違いで騎士が現れた。命令を受け、急いで来たようだが、飛び移った木が揺れる気配はない。
若々しいクロヴィスの姿に落胆を隠せない。
ヴァンパイアにとって、純血は尊い存在であり、種族を治め、繁栄させる象徴でもあった。その王族に近しい侯爵家の歴史は酷く歪んでいた。現存する騎士なら誰もが知っている事実だ。
『気をつけろよ、バジル……魔女の監視下に違いない』
『了解』
口を開かず会話を終えると、クロヴィスが大男の血を貪っていた。男の正気が失われるさまに割って入りそうになるが、奥歯を噛み締め、ぐっと堪える。
『ーーーー殿下、取り込まれた』
『やはり……餌だったか……』
『はい……』
表向きは平和な世だというのに、バジルの目の前は血に塗れている。殺戮が日常のように行われるさまが、侯爵家の歴史と重なって見えた。
『…………殿下、クロヴィスの様子が……』
『ーーーーダヴィドのようか?』
『はい……』
息を呑むバジルとは違い、レオには全てが分かっていたかのような反応だ。
『バジル、気取られるなよ?』
『分かってる。それより……これって……』
『あぁー、思ってる通りだ』
拳を強く握り、鋭い視線を向けそうになるのを堪え、森の中で耐え凌ぐ。
それはバジルに、アベルが生きていた時代を思い起こさせた。
『バジル! 早く早く!』
『はいはい』
気怠そうに応えながらも、その瞳は柔らかく微笑んでいた。
プラチナブロンドの長い髪が、陽の光に照らされ一際輝く。少女の手招きに応え、美しさに惹かれるように隣に並べば、手を伸ばしそうだ。騎士でなければ、触れていた事だろう。
そうとは知らず、無邪気に笑うお転婆な姫は帽子を深く被ると、栗色の髪に変わる。美しい輝きはそのままに、色彩だけが変化していた。
いつ見ても……リリーの擬態は、純血のようだった。
ヴァンクレールとされる姫様固有のモノは他にもあった。
自らの血で癒すのも姫様だけで、他にはいない。
あれだけのヴァンクレールが、確かに生きていたのに…………
それは、バジルが護衛をしていた頃の遠い記憶だ。
……………婚姻に反する長老が一人もいなかった。
反対する者は一人も残っていないって、言った方が正しいのかもしれないけどな……
婚姻の儀を思い出し、反する長老が一人もいない事実があの頃のようだと感じた。
目の前で若々しい姿となったクロヴィスは、陛下のようであった。
『ーーーーーーーー始まったな』
頭に届くレオの声に、バジルは身の引き締まる想いがした。遠い記憶と重ねながら現実を思い知る。
何度目になるか分からないほどの渇望が、そこにはあった。




