02 夢と幻影
ーーーーーーーー誰かが泣いてる声がするの……貴女は誰?
広い屋敷の空中庭園の隅で、プラチナブロンドの髪をした幼い少女が泣いていた。
『ーーーー今日で此処へ来るのは最後だから……お別れしてくるのよ?』
そう両親に言われていたからだ。
もう目の前にいる彼に会えなくなる事が悲しくて、少女は泣いていた。
『ふ……レオ…………もう……会えないの?』
目を真っ赤に腫らした少女の涙を拭うと、彼は優しく微笑んでみせた。
『リリー、また会えるよ…………僕が……必ず会いに行く』
『…………本当?』
『本当だよ。覚えていてね。リリー、君は僕の……』
妃梨は目覚めると、涙を流していた。
キングサイズのベッドに、見知らぬ天井に驚くよりも、先程まで見ていた夢の影響か、彼の名を口にしていた。
「……レ……レオ…………」
ガシャーーンと、大きく皿の割れる音が響くと、寝室目がけて誰かが直ぐにやって来た。
「どうされましたか?!」
散乱した食器を拾おうとする彼女を手で制す。
「いや……取り落としただけだから……大丈夫だ……史代さん……」
妃梨には、目の前にいる彼がレオだと分かった。
ーーーーどうして……忘れていたんだろう。
覚えていると……約束したのに…………
ベッドから起き上がろうとするが、血を吸われた影響だろう。目眩がし、転びそうになる所を彼が支ていた。
「ーーーーーーーー俺が……分かる?」
「うん…………レオ……」
妃梨は彼の頬に触れ、頷いて応えると、レオは嬉しそうに微笑む。
「よかった……また会えた……」
安堵する妃梨の頬に触れると、そのまま唇が重なる。
「んっ……」
性急に求められ、上手く息が出来ない妃梨の首筋には、彼がつけた筈の牙の痕が綺麗に無くなっていた。
強く抱き寄せられ、心音が早まる。
抱きしめられる感覚すら、何処か懐かしい……
「……妃梨、大丈夫かい?」
「おばあちゃん…………此処は?」
「此処は……レオ様のお屋敷だよ」
ーーーーレオ……様?
ダメ……これ以上は、想い出せない……
「史代さん、リリーを頼みます」
「勿論ですよ。妃梨、昨夜の事を覚えているかい?」
「ーーーーうん……」
妃梨は小さく頷いて応えた。
悪夢の中にいた彼は現実にいたんだ。
でも、何故? 何故、彼はーーーー……
ズキズキと痛むのだろう。妃梨は頭を押さえている。
「ゆっくり、おやすみ」
「おばあちゃん、ありがとう……」
史代に促され、再び横になるとそっと瞼を閉じた。
栗色の髪に触れる祖母は、何処か寂しげに彼女を見つめている。
「……妃梨、少しだけ記憶が戻ったようね」
「そうか……」
ベッドの側には、妃梨の祖父母が椅子に腰かけていた。言葉少なに彼女を見つめる視線は、温かいものである。
「……リリーが来てから、楽しかったですね」
「史代、そうだな……私達の自慢の孫娘だよ」
「ええー……」
二人が部屋を出ていくと、リビングには先程の彼とスーツ姿の青年がソファーに腰掛けていた。スーツ姿の青年は妃梨と同じくらいの見た目だ。
レオは、彼に差し出されたグラスに入った赤い液体を飲み干していた。
「レオ様……」
「あぁー」
グラスを彼に手渡し、二人をソファーに腰掛けるように促した。レオはまっすぐに見つめ頭を下げた。
「レオ様! 顔を上げて下さい!!」
「そうです! 私どもに、そのような……」
「いえ……修さん、史代さん……私どもの願いを聞き入れて頂き、ありがとうございました。父に代わり、感謝致します」
「ーーーー私達も幸せでしたよ」
「ええー、本当の孫のようで……」
史代の瞳は微かに濡れている。こうなる事は初めから分かっていたが、いざ別れの時を迎えると込み上げてくる想いがあるからだ。
「レオ様……リリーを頼みます」
「はい……必ずお守り致します」
深々と頭を下げたレオの姿に、修も史代も昔を想い出していた。
深い眠りにつく妃梨の傍にいるのはレオだ。彼は緑がかった瞳で、愛おしそうに見つめている。
「レオ様、参られるのですか?」
「あぁー……ギー、あとは託す」
「はい、お気をつけて」
深々と一礼したギーに屋敷を守るよう託すと、レオは夜の闇に紛れ、飛んでいった。その姿は烏になっていた。
妃梨はあれから二日、目を覚ましていない。真夜中になると、片時も離れずに見守っていたレオは、何処かへ飛び立っていく。
ギーは彼女に触れる事はせず、ただ静かに妃梨が目覚める時を願っているようだ。
ーーーーーーーーまた……あの夢……最近は悪夢ばかりで、見ていなかったけど……昔はよく見ていた。
『リリー』
そう……夢の中の私は、彼にそう呼ばれていた。
大きく手を広げられ、優しい視線を向けられては、彼女もその腕の中に飛び込まない選択肢はなかったようだ。
『レオ!』
『元気にしてたか?』
『うん!』
屈託のない笑みに、レオが優しい瞳を向ける。
頬に触れる手の温もりに泣きそうになっていると、唇がそっと頬に触れた。
『リリー……会いたかった……』
『うん……私……』
唇が触れ合い頰が赤く染まる。そんな幸せな場面に、涙が溢れた。
…………あれから……何日経ったんだろう…………
頭の痛みは消えてるみたい。
妃梨は高い天井に驚きながらも、意識を取り戻していた。
私の名前が『リリー』って事も、あの日……助けてくれた彼が、レオだって事も分かる。
でも…………それ以上は、想い出せない。
悪夢に出てきた彼は誰? 何者なの?
それに……おじいちゃんと、おばあちゃんは……
「リリー……」
「…………レオ」
妃梨は抱きしめられていた。彼女が目覚めたのは、五日振りの事だ。
「……レオ?」
「ーーーー俺が、分かる?」
「うん……」
…………分かる。
何でだろう……夢の中のレオとは、見た目が別人なのに……何で、レオだって分かるんだろう。
夢の中の彼は、ブロンドの髪にターコイズグリーンの瞳をしていたが、彼女の目の前にいる彼は、栗色の髪に微かに緑がかった瞳をしている。夢の中の少年が、どう成長しても彼のような風貌になるのか結びつかない。
ただ一つ確かな事は、美少年だった彼が美青年に成長している事だろう。
こんな綺麗な男の人……一度会ったら、忘れられない筈なのに……
想い出そうとすると、痛むのだろう。妃梨はまた頭を押さえていた。
「痛むのか?」
「あっ……はい……」
思わず敬語で応えたリリーに、彼は寂しげな瞳だ。
ーーーーこの瞳を見ていると……吸い込まれそうになるの。
寂しげに揺れる瞳に、手を伸ばして、思わず抱きしめてしまいそうになる。
実際に抱きしめていないのは、彼女の記憶が錯綜しているからだろう。夢と現実がごちゃ混ぜになった状態のまま、頭の整理が追いついていないようだ。
「リリー、ゆっくりでいいから……」
「……はい」
ーーーーーーーー想い出したい。
そんなに寂しそうな瞳で見つめられると、私まで泣きそうになるから……
頬に触れる手は夢と同じ感覚なのだろう。一瞬驚いた表情を浮かべた妃梨は、レオの視線を逸らせずにいた。
「あの……」
「リリー、約束は覚えてる?」
…………約束?
何も……想い出せない。
私が覚えているのは、彼の名前くらいで……
「いや……今は、このままでいい……」
「……レオ…………」
抱き寄せられた妃梨は、言いかけた言葉を呑み込んでいた。
レオはヴァンパイアなの? ヴァンクレールって何?
聞きたい事は沢山ある筈なのに……受け止める覚悟が、今の私にはない。
だから、聞けなかった。
おじいちゃんとおばあちゃんと、血の繋がりが無い事が分かったら、私が誰なのか……ますます分からなくなってしまうから…………
夢の中にいる『リリー』と呼ばれる私は、私とは違うのに。
妃梨が夢の中で『リリー』と呼ばれていた少女は、プラチナブロンドの長い髪に、宝石のように美しいエメラルドグリーンの瞳をしていた。
今の彼女は髪も瞳も栗色をしている為、同一人物だとは誰も思わないだろう。彼女自身もそう思っていた。
「リリー…………俺が怖い?」
「えっ……」
戸惑った表情を浮かべたままの妃梨に、レオが微笑む。
「……ヴァンパイアが怖い?」
ーーーー悪夢に出てきたヴァンパイアは、人の生き血を啜り生き長らえる怪物のようで……
想い出しただけでも、妃梨の肩は微かに震えている。彼女はこの数ヶ月、血の海に悩まされてきた。眠れない日々を過ごしてきたのだから無理もない事だが、口にした言葉は違うものだった。
「…………怖い……でも、レオは怖くないよ? 私を助けてくれたから……」
「……そうか」
安堵したような表情に、彼女も小さく微笑んでみせる。
二人の距離が近くなっていくと、ドアをノックする音がした。
「ギー……今、行く」
「はい」
扉越しにいる彼にそう伝えるレオの手は、妃梨の頬に触れたままだ。
間近にある綺麗な顔立ちに、彼女の頬は赤く染まっている。
人じゃないから、美しいのか……それとも……
「邪魔が入ったな。リリー、立てるか?」
「はい……」
「敬語に戻ってるぞ?」
「えっ? あっ、うん?」
彼女の手を取ったレオは、表情がくるくると変わる妃梨に、優しい視線を向けていた。
レオに手を引かれたままリビングへ入ると、大きなテーブルには沢山の料理と祖父母。それに、先程レオに声をかけたであろう青年の姿があった。
「妃梨、目覚めたんだね」
「ーーーーおばあちゃん?」
史代の瞳は涙を溜めていた。そんな彼女を夫である修が支えている。
ーーーーそっか…………今、分かった。
何度も同じ悪夢を見て、救おうとしても救えなかった理由が……あれは夢でも幻でもなくて、現実だったから…………三十年前に、私の目の前で起きた現実だったから…………
本来なら十六歳になった妃梨が、三十年前に生きている筈がない。生まれてすらいないのだから、そんな事ある筈がないのだ。
「……妃梨、想い出したかい?」
「アベルとマリアについては……」
懐かしい名に、修と史代だけでなく、レオもギーと呼ばれていた彼も、驚いたような表情を浮かべた。
それは、ヴァンパイアの王となる筈だった男と、人間の娘の名だったからだ。