15 新月と夜明け 下編
「ギー、来ないでーー!!」
「ーーーーエマ……」
正気に戻った彼女の瞳から、涙がこぼれ落ちる。
ーーーーーーーー蔓は止まらない。
この城を破壊し尽くして、終わりにする気なんだ。
哀れな弟……追って来るなと言うのに、躊躇う事なく飛び込んでくる。
馬鹿は……エマか…………こんなになってまで、会いたいなんて……
「……エマ!!」
全身傷だらけで、今にも倒れそうなギーは、まっすぐに彼女を見上げていた。
…………エマは、この瞳に弱い。
一瞬だけでもいい……叶うなら、エマを救ってくれた貴女に会いたかった。
ギーの差し出した手は、蔓に阻まれていく。
本当、哀れな弟……エマは黒魔術によって甦らされた身、自由はない。
クロヴィスが生きている限り、一生使い捨てのコマのように扱われる。
ーーーーーーーー愛おしいと想っていた彼も、此処にはいない。
あの日……すべてを失ってしまった。
一本の矢が彼女の頬をかすめる。
その頬から出血はない。痛みも感じられない身体のようだ。
まるで人形のよう……クロヴィスの掌の上で、踊らされる道化師のようだわ。
棘に刺さって死ぬのも、いいかもしれないわね。
愚かなエマにお似合いだわ。
戦意を失くした彼女は、空中から真っ逆さまに落ちていく。
ドサッ、グサッと、続けざまに鈍い音が響いた。
ーーーーーーーー痛く……ない?
思わず目を閉じていたエマの目の前には、誰かの腕があった。
「ーーーーっ!!!!」
彼女の代わりに、ギーが棘だらけで転がっている。全身から血があふれ出ていた。
まさか……あんなに弱虫だったギーが、エマを庇うなんて……
『ーーーー文無しに用はない。それよりも、目覚めの時は近いぞ』
エマには長の命令が絶対だ。
背けば、苦しみ、悶えながら絶命するだろう。
最初から、こうすれば良かったんだ……
「ーーーーっ?!」
死を覚悟した彼女は、地面に膝をついたまま動けなくなっていた。
身体が一ミリ足りとも動かない! どういう事?!
蔓が光の粒子で消えていく。まるで何かに浄化されていくかのように。
ーーーーーーーー知ってる……こんな事が出来るのは、貴女しかいないわ。
蔓が消える度に、瘴気の匂いも薄まっていく。
外壁の崩れさった城が、辛うじて建っているだけだ。
「ーーーーっ、エマ!!」
ボロボロになった衣服を身に纏っていても、どんなに傷だらけになっていても、その瞳の色でひと目で貴女だと分かるの……
「…………リリー様……」
敬意を込めてそう呼ぶわ。何度だって……
「レオ……これって……」
「あぁー、覚醒したのか……」
躊躇う事なくエマに抱きついた彼女は、血だらけになって動かないギーのナイフを手にした。
「リリー様?!」
彼女は自分の指先を切った。
人差し指を唇にあて、エマに静かにするよう促す。
指先からギーの口元に血を垂らすと、光の粒子に包まれていく。
彼の傷が一瞬にして消えた。まるで最初から何もなかったかのようだ。
「ーーーー彼女の仕業ね」
「どう……して……」
「私が……ヴァンクレールってこと、忘れたの?」
エマの目の前には、プラチナブロンドの長い髪に、宝石のようなエメラルドグリーンの瞳のリリーが、微笑んでいた。
『ーーーー素晴らしい……早く連れて来るのだ』
頭の中で再び声がした。
ーーーー会えた……もう十分だわ。
声はエマにしか聞こえていない筈だが、リリーは遮るように彼女を抱きしめると、耳元で囁いた。
驚いた様子の彼女は、促されるまま首筋に牙を突き立てた。
「ーーーーのまれるなよ」
「あぁー」
辺りを掌握するほどの甘美な香りが広がり、金色の混じった粒子が瘴気の匂いを消し去っていく。
狂った影は一瞬で塵となり、ようやく彼が姿を現した。
「あぁー、何と甘美な……」
「ーーーーまさか……」
思わず声を上げたレオに、鋭い視線を向けているが、分が悪い事は承知のようだ。
「……お久しゅうございます……殿下」
ダヴィドと同じ容姿をした彼が、見た事もない黒い笑みを浮かべていた。
「…………クロヴィス……」
「殿下がその名をご存知とは……」
ふわりと宙に浮くさまは、さながら悪魔のようだ。
「では、我が姫……ご機嫌よう。必ずや迎えに参りましょう」
そう告げた彼は、煙の如く消えていた。
彼等の目の前には、廃墟と化した城だけが残され、朝日が昇ろうとしていた。
「ーーーーっ、エマ! エマ!!」
彼女の悲痛な叫び声が響く。
サラサラと音もなく、灰になっていく。
これがエマの運命だわ。
リリー様のおかげで、最期は殺めずに済んだ……
「…………リリー様……」
何て……綺麗な涙を流す方なんだろう……あの頃から、ずっと…………貴女に救われていた。
あの激動の時代、ヴァンクレールの半分が惨殺されるまで……共に生きた日々は……
「……エマの……宝物です…………」
横たわっていたギーは、体を起こして彼女の左手を握った。
「……ギー……生きて、ね」
どうか生きて、生き抜いて……文無しだろうと、ギーはエマの大切な片割れ。
必ず光は現れるから……エマに、仲間がいたように…………
「エマ……」
消えていく瞳から涙がこぼれていた。
リリーの傍に膝をついたレオは、彼女の剥き出しになっていた肩に上着をかけた。
レオを見上げる瞳から、大粒の涙の雨が降っている。
「ーーーーっ、エマ……エマ……」
泣きじゃくる彼女の背中に、レオはそっと触れていた。
ーーーーこの二人は、お似合いだわ。
どうか永遠に続いて……リリー様……
彼女は涙を拭うと、辛うじて残っていたエマの涙を優しく拭った。
口のない彼女から返答はない。
一瞬、微笑んでくれているようにリリーの瞳には映った。
最期は塵となってエマは消え去った。
ギーがその場で泣き崩れている。
彼は二度も片割れをなくす悲しみを味わったのだ。
「ーーっ、エマーーーー!!」
泣き叫ぶギーの手をリリーが握っていた。
涙を溜めた彼女の横顔に、エマの会いたかった理由が分かった気がした。
朝日が昇り、崩れさった無惨な城にも、光が差している。
彼女はギーの手を握ったまま、その場に倒れそうだ。
「…………リリー様……?」
地面につく寸前で、レオが抱きとめていた。
「ーーーー反動だな……」
「……殿下…………」
「城へ戻る」
「……はい……」
「ギー、立てるか?」
「はい……」
差し伸べられた手を取り、ギーは自分の足で立った。
「ギー…………生きてる証だ……」
「……はい」
ギーからまた涙がこぼれ落ちる。
「皆も休めよ」
「はい、殿下」
レオの微笑む姿は朝日に照らされ、光り輝いているようだった。
「ーーーーこれだから、文無しは使えぬのだ……」
彼は、エマとの契約が途切れた事を悟った。
「……次は逃さぬ」
「ーーーークロヴィスは姫君にご執心ね」
大きな窓のある寝室は、外は晴れているというのに厚いカーテンがひかれたままだ。高い天井にはシャンデリアが飾られ、さながら王宮のような造りである。
重厚な絨毯の上には、脱ぎ捨てたかのような衣服と大量の灰の山が出来ていた。
「あれは……我のモノだからな」
「それじゃあ、早くしないと……契約をされてしまうのではなくて?」
「ふっ、そなたなら分かっているであろう?」
「そうね……あの子には無理よね……」
「そうであろう?」
黒い笑みを浮かべるクロヴィスに、彼女は寄り添っていた。
「ーーーーまだ足りぬのか?」
「貴方が分けてくれるなら、別よ?」
妖艶な姿の彼女は、薄いシルクのガウンを羽織っているだけだ。誘うように彼の首元を舐めとる。
「ーーーーよかろう……その代わり、そなたにも働いて貰うぞ?」
「ええー、クロヴィス……」
赤く染まった瞳で彼の首元に牙を立てると、血を啜る音だけが響く。
牙を立てる彼女の長いシルバーグレーの髪に、クロヴィスは顔を寄せた。
「香りが違うな……」
「仕方ありませんわ……」
「だが、美しい……我のクリスティーよ」
血を貪り合う姿は、まるで獣のようだ。
「ねぇー、クロヴィス……まだ足りないの」
「ーーーーよかろう」
クロヴィスは家臣を呼びつけると、獲物を捕らえてくるよう命令を下した。
恐れおののきながらも一礼して下がっていくさまに、また悪態を吐く。
「ーーーーあいつも、そろそろ潮時か……」
「ねぇー、それなら私に下さらない?」
「好きにするが良い。あれが好みか?」
「まさか。でも、あれは使えるわ」
「そなたは……恐ろしい女だな……」
「そんな言い方は、レディーに対して失礼なんじゃなくて?」
彼女に取り合う事はなく、クロヴィスは部屋を後にした。
一人きりになったベッドの上で、彼女は寝転んでいた。
「ーーーーそれにしても、勿体ないはね。あの子は結構使えたのに……」
カーテンの締め切った部屋には、瘴気に似た匂いが漂っている。
「……早く……会いたいわ……」
彼女の髪と同じシルバーグレーの瞳が、怪しげに光る。
夜は明けたが、此処は以前と変わらずに死と隣り合わせのような残酷な世界が存在していた。
クロヴィスの家臣が連れてきた人々は、彼女の部屋に通される。
「あら、いらっしゃい……」
男も女も関係なく、妖艶な彼女に魅了されていく。中には足先を舐めとる者までいた。
断末魔のような叫び声は一つもない。
ただ次に扉を開けると、人影は何処にもいない。
人々が着ていた大量の服と灰で、絨毯が埋め尽くされていた。
家臣は恐れながらも事後処理をこなしているが、今にも吐きそうだ。
「ーーーー顔色が悪いわ」
「いえ……そのような事は……」
「こちらをご覧なさい」
男は視線を逸らす事が敵わず、彼女の瞳を見つめた。文字通り、彼女に魅了されていたのだ。
「貴方には、やって貰いたい事があるの」
「ーーーーはい」
「そう、いい子ね」
黒く染まった瞳の男は、彼女に言われるがまま城を出て行くのだった。




