13 新月と夜明け 上編
ーーーーーーーー暗い……まるで、夢の中にいるみたい……
新月という事を抜きにしても、通常の暗さではない。辺りは濃い霧に包まれているようだ。
「リリー様、大丈夫ですか?」
「うん、大丈夫……」
そう応えた彼女の手は微かに震えている。
彼女の首筋から伝わる甘美な香りに釣られるモノは多く、今もギーに守られながら歩いていた。
ナイフが突き刺さり目の前で黒い影が倒れ、塵となって消えていくが、人の原形さえも留めていないようなモノばかりだ。ゆらゆらと彷徨っている影は、まるで幽霊のようである。
「ーーーーーーーー来た」
そう漏らしたのはリリーだ。
彼女の視線の先にギーも目を向けると、確かにダヴィドが立っていた。
夕方にギーが見た姿と同じままだ。その瞳は黒く染まるどころか赤暗いままだが、その距離は遠い。
ギーが辛うじて、ダヴィドだと認識できるような距離だ。
「ーーーーリリー様……」
「大丈夫……」
彼女はそう呟くと、ギーと腕を組んだまま、左手でネックレスを握っていた。
お守りには、ちょっとした仕掛けがあった。リリーの香りを敵にだけ認知させる効果だ。
そうでもしなければ、彼女の隣にいるギーが平然と立っていられる筈がない。それ程、傷痕から漏れ出る香りは強く、ある意味では麻薬のようであった。
「ーーーー無駄ナ事ヲ……」
「コンナ子娘二、何ガ出来ルトイウノダ……」
ダヴィドの周囲にいる黒い影が放つ言葉は、リリーを蔑むようなモノばかりだ。
ーーーーこんなに……害意を向けられるのは、久しぶり。
彼女の中で何かが弾けた。
大丈夫……私は、一人じゃないから…………
息を吐き出して、ダヴィドをまっすぐに見据えた。
ギーの腕を握った手が微かに震える程に恐怖を感じている筈だが、その瞳はまっすぐに彼を捉えている。
「ーーッ、見ルナ……見ルナ……見ルナーー!!」
声を荒げる姿に、侯爵家の要素は微塵も感じられない。それはもう化け物としか形容し難い姿だ。
先程まで赤暗く光っていた瞳も、みるみるうちに黒く染まっていく。
「ーーっ、ダヴィド! 聞こえますか?! ダヴィド!!」
張り上げたリリーの言葉は、届いていないようだ。
ーーーーーーーー出来る事なら……彼がこうなった理由を知りたい。
レオが一番、そう思っている筈だから……だって、彼は……
「ーー我ラ……邪魔ヲスルナ……」
……私の瞳に映る世界は、なんで……こんなに残酷なのだろう。
リリー達に襲いかかってきた影は、騎士により塵になっていく。力の差は歴然だ。
「何故、我……ノ邪魔ヲスル? 何故? 」
ダヴィドを負の感情が支配していた。誰の言葉も届いていない。
目の前で彼の引き連れていた仲間が無惨に塵になっても、顔色一つ変える事はない。むしろ黒い笑みを浮かべてさえいた。
『そうだ……滅んでしまえばいい。お前の力で全てを消し去ってしまえばいい』
彼の頭の中で、誰かがそう呟く。それは、まるで呪いのようだ。
頭を押さえる仕草をするが、彼に手を差し伸べてくれる者はいない。
今まで誰もいなかったのだ。
「リリー様!!」
躊躇いもなく触れる彼女の手に、ダヴィドは年老いた姿に戻っていく。
王と同じくらいの歳を重ねたその顔は、痩せこけ、頬骨がくっきりと浮かび上がっている。
「我ガ陛下……イツカ……ラ……名ヲ……」
か細い声は、誰の耳にも届かない。
ギーから放たれたナイフが頬をかすめても効果はない。出血する事もなく、顔色も変えず、ただ小さく何かを呟くだけで、その瞳は漆黒の闇のようだ。
あぁー……堕ちてしまったんだ…………もう、漆黒の世界から抜け出せない。
夜明けと共に、塵になって消えてしまう命。
リリーは今の状況を冷静に理解していた。
「ーーーーーーーーダヴィド……起きなさい」
彼女が現れるまでは。
「ーーーーエマ……」
ギーの漏らした言葉には、悲痛な想いが込められていた。
「ーーーー……エマ?」
ガシャーーンと、まるで心の中でガラスが割れていくようだ。
闇に包まれた濃い霧は晴れ、あの城がまた姿を見せる。
その場にしゃがみ込んだリリーは、頭を押さえていた。
ーーーーーーーー頭が……割れそうに、痛い……
彼女を守るようにギーは寄り添い、周囲を警戒したままだ。
そんな二人の姿に『エマ』と呼ばれる黒髪の少女は、寂しげな表情を浮かべた。
「…………リリー……私を覚えてる?」
それは確かにエマの声だが、リリーの知る彼女の言葉使いではない。
「ーーーーっ、誰が……」
……誰が……エマを甦らせたの?
こんなの奴隷と、何ら変わらないじゃない?!
「……泣いてるの? リリー様は相変わらず、ね」
口調が微かに戻っている。
宙に浮いた彼女はギーとよく似た顔立ちで、黒い瞳と髪が印象的な少女だ。
涙目になるリリーが見上げると、微笑んでいた。
「ーー子娘……邪魔ヲスルナ……」
ダヴィドに鋭い視線を向けられ、エマはその場に倒れ込む。甦らせた主人の命令は絶対である。
「ーーーーっ、エマ!!」
思わず駆け寄るギーと、二人は驚くくらいに似た容姿だ。
あぁー…………ギーを初めて見た時に感じたのは、これだったんだ……
頭の片隅で自身の直感が当たっていた事にようやく気づく。
グサっと、体を貫くイヤな音がした。
彼女の手が赤く染まっている。
駆け寄った筈のギーが、その場に崩れていく。
「ギーー!!」
刺した本人からも涙がこぼれ落ちている。
リリーはダヴィドに鋭い視線を向けているが、何処か寂しげなままだ。
ーーーーーーーーもう引き返せない。
ギーから銃を抜き取ったリリーは、躊躇いなく銃口を向けた。
「ーーーーっ……」
不敵な笑みに、引き金にかけた手が止まる。リリーはまっすぐに彼を見据えた。
「…………ダヴィド……」
そう呟いた瞬間、その場を掌握するような香りが広がった。
「リリー!!」
「レ……オ……」
ダヴィドの配下に加わっていた至上主義派は、一人残らず塵となっていく。レオと共に姿を現した騎士のおかげだ。エマを拘束し、迅速にギーの止血を行なっている。
リリーの向けた銃口は、レオに阻まれていた。
「もう……大丈夫だ」
「…うん……」
力の差は歴然だからだろう。
王族に歯向かう者は、ただ一人だ。
レオが捕らえようとした瞬間、襲いかかってきたダヴィドに向けてトリガーを引く音がした。
銃声が響き、彼の頭が吹き飛んだかと思えば、足元から塵になっていく。
鮮血はなく、黒いドロドロしたモノが首元から吹き出し、一瞬にして辺りは瘴気に呑み込まれていく。
レオが掴んだ筈の手は、すり抜けていった。
「くそっ!!」
思わず悪態をつくが、剣で瘴気を斬り裂くと、リリーの姿は消えていた。
拘束していた筈のエマも、止血をしていた筈のギーの姿もない。
そこには、捕らえていた筈の鎖と、誰が撃ったかも分からない銃。そして、黒い血溜まりだけが残されていた。
「殿下、周囲の何処にもおりません!!」
「ーーーーだろうな……」
囮にするべきではなかったと、今更のように後悔が彼の心を駆け巡っていたが、エゴを押し通す事も出来なかったのだ。
「……オレール、バジル、城に向かう」
「城に戻るのか?」
「いや……廃棄の方だ」
「では、トマに連絡を!」
敢えてスマホで連絡を取ろうとするオレールを、レオが阻む。
「殿下?」
「ーーーー夜明け前にカタをつける」
「はっ!」
彼の瞳は、今にも紅く染まりそうな強さを秘めているようだった。
「コレガ……アノ姫カ……」
「アアーー、イイ香リダナ」
「喰イタイナ……」 「美味ソウダ」
彼女の首筋を舐めとると、傷痕から甘美な香りが舌を酔わせる。
本能のままに血を一滴残らず啜り、彼女を自分のモノにしたいという衝動に駆られていた。
「ーーーー彼女は我らのモノだ。手を触れる事は許さぬ……」
側にいた男達は、主人である老人に跪いて応えると、何事もなかったかのように見張り番に戻っていった。
「……紋無しは……これだから困る」
老人は彼女の元に降り立つと、真新しい牙の痕を舐め上書きをしているようだ。
彼が白い肌に触れても、眠っているのか彼女から反応はない。
そのままドレスは剥ぎ取られ、美しい素肌と宝石の輝くネックレスが露わになった。
「そのうち目覚めるであろう……」
首筋に牙を突き立てる寸前で、報告が上がった。
「長! 敵襲が!!」
「何……もう此処が分かったと言うのか……」
長と呼ばれる男は、彼女の服を元に戻すと、急いで地上に戻っていった。
彼が消えると、辺りは闇に包まれる。見張り番の男が持つ炎だけが、ここを照らす光のようだ。
窓もない暗闇の中、彼女の両手首には鎖がかけられ、牢のような場所に閉じ込められていた。
「長、彼はどうしますか?」
二人の視線の先には、止血途中のギーが転がっている。ぞんざいな扱いに抗議の目を向けるエマだが、それ以上の事は出来ずにいた。
彼女の命は、男の掌の上で転がっているようなものだ。
「放っておけ、死に損ないの文無しが……お前もだ! せっかくの計画が台無しではないか!」
「ーーーーお言葉ですが、長……彼女が目覚めなければ、使い物にならないのでは?」
「我に意見する気か?! そんな事、分かっている!!」
口調の強さに恐れる事はない。エマの表情は冷淡なままだ。
「くそっ!! 何故、あの方はお前のような物を……」
ボソボソと漏らす言葉は、聞くに耐えない暴言ばかりだ。
今のエマなら、彼一人くらい殺す事は容易だろう。黒魔術によって、あの方の力も多少受け継いでいるが、彼女の命はあくまでも目の前にいる彼の掌の上だ。
「……お前が無惨にも消したのだから、その罪は償ってもらうぞ」
「はい、長……」
悪態を吐きたくなるのを堪え、エマはうやうやしくスカートの裾を持ち上げた。その仕草は、レディーの振る舞いそのものである。
「お前は、騎士を減らせ」
「……はい」
彼女に他の選択肢はない。
彼の命令に背けば、たちまち首が締まり、絶命するだろう。エマは自分が甦った意味を探していた。
「ーーーーっ……行く……な……エ……マ……」
消え入りそうな声で告げる彼に、振り返る事はない。
「ーーーー哀れな弟……」
彼女はそう漏らすと、影等と共に中庭へ飛び出していった。




